オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

角煮の道

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豚の角煮を作った。

特にすごく好きなわけでもない、という程度の料理だった。

セブンで売ってるパウチの角煮とかも案外美味しいし、あーやっぱりしっとりジューシーな角煮は美味しいよなぁ、とか、本当にそのくらいの感覚。

 

先日、某媒体の低温調理の企画の撮影に協力したのですが、角煮をやってみようかな、ということで、いちおう肉を買ってあった。のだが、結局撮影では角煮はやらなかったので、豚バラの固まりが余ってしまった形となり、もう角煮を作らざるを得なくなった、というか、他に調理方法の考えも特になかったし、作ってみたかったので、とりあえずあまり構えずに作ってみたのだけれど、完成した角煮は、想像を遥かに上回る仕上がりで、本当に美味しくて自分でも驚いた。

脂身を美味しいと思ったのは初めてかもしれない。ほろりと口の中で溶ける脂は、臭くなく、しつこくなく、ただただ、美味しい。笑

時間を書けて煮込んだので、肉にも、しっかり味が染みていて、でもバサバサはしていない絶妙な加減。

今後も作ると思うけど、記録として今回のレシピを書いておこうと思います。

 

材料

豚バラかたまり800gくらい

長ネギの青いところ1本分

生姜すこし

酒、砂糖、みりん、醤油、片栗粉、油

 

 

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豚バラかたまりを5センチくらいを目安に切る。あとで縮むので大きめが良いかも。小さじ1くらいの醤油を、肉全体に染み込むくらいに軽くかけてなじませる。片栗粉を全体にまぶす。

 

 

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片栗粉をまぶした肉を、多めの油で表面に色がつくまでフライパンで焼く。油ハネがけっこう怖いので注意が必要。

油は米油がおすすめ。スーパーでそんな高くなく買える。太白胡麻油よりも安いので使ってるのだが、カラッと軽く仕上がるのでいい。太白胡麻油がもしも同じ値段だったら太白を使う…かな?

脂は、水には溶けないので、ここで多めの油で炒めるのがポイント。5分位かけて炒める。加熱するうちに、油に、脂が溶け出すらしい。

 

 

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炒め終わったら次は、お湯で油抜き。そう、下茹で、をするのである。下茹での時間は、長ければ長いほどいい、とされているらしい。

鍋に、炒めた豚バラと、長ネギの青いところ(1本分)を入れて、ぐつぐつ火にかける。蓋をしてもOKだと思う。

最低でも1時間、長いと3〜4時間、ひたすらに茹でる。蒸発して水量が減ってしまうのだが、お湯は入れ換えないで継ぎ足していくほうが良いらしい。途中でネギは捨てた。

他の料理を作るので火からちょっとだけ下ろしたりもしつつも、トータルで3時間くらい煮た。

煮終わったら、お湯を捨てて、豚肉の表面の油をペーパーで軽く拭き取る。

 

 

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鍋に、酒大さじ3、砂糖大さじ3、みりん小さじ1、しょうがのスライス、を入れて、温度が上がったら、醤油大さじ4を加えて、肉を戻して、クッキングシートで落し蓋をして、そのまま煮る。ときどきお湯を足した気がする。肉がきちんと煮汁に浸っているのが大切で、空気に触れると硬くなるらしい。

 

 

と、言う感じで完成。できたても美味しかったけど、一晩冷蔵庫で寝かせて、翌日、固まった油を捨てて温め直してたべたら、もっと美味しかった。

兎にも角にも、油抜きが大切、なのかな。

豚バラは、油のかたまりみたいなもんなので、そのままだと、油が強すぎて、あんまり美味しく食べられないと思う。

あと、臭みがまったくなかったのも良かった。ネギで煮るとか、最初に醤油を少しまぶすとか、そのあたりと、あとはやっぱり油抜きでたくさん煮たことで臭みがとれたのだろうか。

調味料で煮る時に、唐辛子をいれてもよかったかな、と思った。

甘さを抑えたい人は、砂糖を気持ち減らしても良いかも。みりんはコクがでるので入れるとよいかな。

いまよりも料理がヘタだったころは、調味料をいちいち計量したりしていなかった。

大さじ? 小さじ? 適当でいいでしょ…。と思っていたのだが、ある程度は計らないと味が決まりにくいし、とくに、出来上がりまで味がわからないようなものほど、きちんと計ったほうがいいと思う。

チャーハンとか、途中で味見できるものならある程度、適当でもいいとは思うけど…。

 

たぶん、また数日以内に豚バラのかたまりを買ってくるような気がする。

 

すごく美味しかったし、角煮の仕上がりにはだいたい満足してるのだが、肉をさらに柔らかくする工夫に挑戦してみたい気持ちがある。角煮の道は険しい。

 

 

 

 

それなりの執着、そのあなたの「それなり」は、どれくらい?

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未だ、自分のファースト・プライオリティがわからない。

そんなもの、誰だってわからないのかもしれないし、わかろうとしていないひとだってたくさんいるのだろうとは思うけれど。

 

飲食に業務として関わるようになって、自分の「食への執着」というものが思っていたよりも強かったということを知った。それなりに美味しければなんでも良い、本当に美味しいものばかりを食べられるほど食に割けるリソースがいまは無いのでそういうのを食べるのは将来もっと稼いだら、そんなようないい加減な思想のもと、割合に適当な食生活をしていたのだが、健康(というよりかは体調を整えること)を考えたりするようになると、食べるものも変わり、そして、同時にそれは本当の美味しさがなんなのかを考えることにも繋がった。

 

ギトギトでジャンキーなラーメンとかを最近は食べなくなった。それは、食べたいけど健康のために我慢しているのではなく、別に食べたいと思わなくなったから。禁煙とか減酒も同じ。吸いたいと思わないから吸わないし、飲みたいと思わないから毎日は飲まない。

かといって、別にビーガンになったわけではないし、健康だけを信条に食を選んでいるわけではないので、肉だって食べるし、ヘルシーなものばかりを食べているというわけではないが、それでも、身体に入れる必要がないと思うものをあえて食べることが最近は限りなくゼロに近づきつつある。

出汁とか薬味とかお米とかの扱い、肉や魚とか加熱する温度や時間の加減、塩とか油とかの扱い、そういうことに気を使うようになってから、外食していて美味しいと思うことが減って、家庭では手に入りづらい珍しい食材とか、地場の旬の食材とか、そういうものくらいでしか心から驚いたり喜んだりすることが殆どなくなった。それ以外の要素、というと、調理の技術とか、調味料の選び方とか使いかたとかなのだが、どれもそこまで難しいことではない。誰にでもできることばかりではないだろうけれど、簡単なコツと知識、あとは慣れと気遣いがあれば、ある程度のレベルまでに限って言えば、ほんとうになんてことなく美味しい調理ができるようになる。ただ、世間の味覚の需要の傾向、とでもいうか、世の中が求めるおいしいの基準、においては、インパクトが弱いとウケが悪くなるので、強い味、強い旨味が良しとされてしまうことが多い。それは仕方がないことだとは思うが、ときに少し悲しくもある。

 

と、こんなことを書いているからには、これからオレは食を探求していくのだろうかか、といえば、もちろんそうではない。

 

食というのはとても大切なものだが、たぶんそれはオレのファースト・プライオリティではないのだろう。

 

つまり、食への執着、というのは、あくまでもひとつのファクターに過ぎないわけであって、食が最優先、ではないということだが、もっともそんなの誰にしたって同じかも知れなくて、料理人だから食が最優先かとか、自動車工だから車が最優先かとか、そうとは限らないだろうが。だから、オレは、食への、それなりの執着、があるということになるわけだと思うが、たぶん、その「それなり」の度合いがいちいち、少しだけ強すぎる、のかもしれない。というのは、食以外のことでも似たようなスタンスで取り組んでいる、取り組んできた、という物事がけっこう色々あって、それに傾倒しているときはそれが自分のファースト・プライオリティだと勘違いしそうになるが、結局そうではなかったことにしばらくして気がつく、というようなことをいままでに幾度となく繰り返してきた経緯があり、総じて、その「それなり」の度合いがいちいち強すぎたような気は確かにしている。

いまは仕事として食に関わっているが、この先もずっとそうだとは思えないし、こうやっていろいろなものを食い齧っては、これとても単なるひとつのファクター、とか言い続けるような人生の先行きを考えると、我が事ながら、少しだけうんざりする。

 

飲食店を立ち上げて、点が線になりつつある、と騒いでいたが、甘かった。

結局これも、ただの点、なのか…。

 

点が線に、線が面に。

そんな日が、果たして、来るのだろうか…?

 

 

写真は窓の目の前に山中湖が広がる、の図。

 

28歳になった

 

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 カート・コバーンが死んだのは27歳だよな、と相模原の方を車でうろついていた頃に、カーステレオから流れるニルバーナを聴いて考えた。去年の初夏だった。

 

 25歳になったときは、そんなに感慨はなかった。まぁこんなもんか、ほんとうにそんな感じだった。27歳になったときも、それは似たような感じだった。なるべくしてなったような気がした、とでもいうか、26歳になってから1年が経ったので当然のように27歳になった。そんなような感じだった。

 26歳になったときは、すこしだけ特別だった。26歳になる1週間くらい前のオレは、恵比寿の猿田彦珈琲の前で、将来をどうするのか、バイトだけでダラダラと食いつないでいくつもりなのか、学歴がなくても生きてはいけるかもしれないけれど人となりを他人に示すという学歴の効果はそう小さなものではない、おまえは無力で無能だ、そんなような現実を目の当たりにして、返す言葉もなくたじたじとしていた。そして、安直な答えだったかもしれないが、学歴の取得を目指そう、そう考えて26歳を迎えた。その26歳の誕生日から2年が経った。その間にできたこと、できなかったこと。

 

 そんなわけで、タイトルの通りで身も蓋もないが、きのう、28歳になった。四捨五入すると30、そう騒ぎ始めて数年が経つが、いよいよほんとうに30に近づいてきてしまっている。やばい。

 

 ミュージシャンたちがやたらと死にたがることで馴染み深い27歳を、この1年、なんとか生き延びられたわけだが、どちらかというと変化の大きな1年ではあった。でも、やってきたことが、選んできたことが、正しかったのか、間違っていたのか、未だにわからない。たとえば、会社員として就職していたらもっと安定できていたのではないだろうかとか、学費や生活費を借金しまくってでもさっさとフルタイムの学生になっていたほうがよかったのではないだろうかとか、いまでもたまに考えてしまいはする。正しいと思ったことを選んではきたつもりだが、当たり前だが人生はなにひとつとして同じコンディションでもう一度やり直すことはできないし、困ったことに、選んできた道の結果というものは、すぐには出てこない。

 

 ところで、歳を重ねて、知見が広ると、世界との向き合い方も変わってきたりする。たとえば、よろこびの本質が変わってきたような気がしたり、といったようなところで、捉え方や感じ方が変わってきたりするのを感じる。16歳のオレは、人が生きる意味について、真剣に考えていた。誰もが一度は考えるだろうありふれた問いだが、16のオレは、その問いに、納得のいく答えを見つけることができなかった。考えてみると、16のオレは、大抵いつも退屈していた。なんか楽しいこととか無いですかねー? みたいなアホな言葉をバイト先のバックヤードで一回り年上の社員に投げかけたりして、退屈な毎日を過ごしていた。知らなかった世界が、少なくと今よりも多かった分、それなりに、いろいろなよろこびやときめきがありはした。手を繋いでデートしたり、それまで行ったことのなかったような店(居酒屋程度だけれど…)に行ってみたり、ひとりでオフシーズンの離島に行ってみたり、中学生までは触れることのなかった世界に少しずつ踏み入るようになって、確実に世界は広がっていた。それでも、どこかでいつも退屈していて、どこかで世界に対して絶望していた。世界に対する絶望、しかし、恥ずかしい響きである。

 28歳になったいまは、世界に絶望したりしていない。世界に退屈する暇もない。ただ日々に追われて、疲れて、目指すべき目標への道のりの遠さに悲しくなって、酒を飲んで暮らしている。よろこびの本質。30歳に近づくということは、つまり、10代が終わって10年近い年月が流れたということにもなる。知らないことに限りはないし、マクロ的な見方をすれば、世界はオレの知らないことだらけだ。それでも、たとえば、10代の頃にはなかった自由や、10代の頃には知らなかった経験を経ている分、物事の感じ方や捉え方は、確実に変わってしまった。セックスを知らない童貞は、いつかするセックスに憧れて、触れたことのない女の身体に憧れて、胸を躍らせる。しかし、経験してしまえば、それはただの行為に過ぎないことを知ることになる。相手との関係性とか相手との相性による違いはあるし、細かいことを言えば体位の違いとか行為をする場所とか、そういうものでも違いはあるが、本質的に、セックスはセックスに過ぎないということを知ることになる。ほかのことだってそうだ。美味しい食べ物、美しい景色、素晴らしい音楽や映画や小説、速い車、良い仲間。世界が広がれば広がるほどに、レベルの高いモノやコトを経験できる。でも、本質的には、車は車だし、景色は景色、そして、食べ物は食べ物なのであって、簡潔な表現でいえば、どんなに満たされたとしても、同時に、どこかに満たされなさを感じてしまわなくなることはない。完璧に満たされることなどないのはわかっているし、満たされることがあるとすればそれは死ぬときだとオレは思っているが、世界を知れば知る程に、満たされることから遠ざかるような錯覚を覚えてしまう。目的地への距離が遠ければ遠いほど、その旅路は非現実的なものとして捉えられる。目的地までの距離が5万キロだろうと、4万9千キロだろうと、たいした違いではない。だが、千キロの距離と、2千キロの距離とでは倍も変わってしまう、そんなようなことなのかもしれない。歳を重ねて、知見が広がり、目標や目的への具体性が増すことで、余計にわからなくなるのだ。自分にとってのファーストプライオリティがなんなのか、なにを再優先にすれば自分は幸せになれるのか。そういうことが、わからなくなる。

 セックスを夢見る童貞は、セックスさえできれば幸せになれる、セックスさえできればすべてが手に入ると思っているが、経験してしまうと、もっとセックスを経験したくなり、そのうちに、セックスですべてを満たすことができないことを知る。どんなにお酒を飲んで騒いでも、どんなに映画で感動したり笑ったりしても、どんなにのめり込むように小説を読んでも、それは同じだろう。

 

 月並みな言い方だけれど、そんなわけで、28歳も頑張ります。世界が自分の力だけではどうにもならないことだらけで出来ているとしても、自分の力でなんとかなることは頑張りたいし、結果として示したい。頑張るぞ。まだ知らぬよろこびを知るためにも…。

 

 

 

 

 

 

S660に乗った話

先日、S660を乗り回す機会を頂いたので、遠慮無く乗り回してきた。借りていた時間は5時間くらいだったのだが、ほとんど休まず、ずっと乗り回していた。高速乗ってないし、近場を走り回っていただけなのに、返却したら走行メーターは90キロくらいになっていた。笑

 

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いやはや、しかし、楽しくていい車だった。

まぁ荷物はほとんど積めないし、2人で出かけると本当に何も積めなくてびっくりした。

ボンネットのなかに申し訳ない程度のトランクスペースがあるが、取り外した屋根を収納したらもう何も入らない。笑

シートの後ろもスペース皆無なので、助手席のひとに膝の上に抱えてもらうしかない(実際そうした)

カメラバッグくらいは積めるだろうと思ったら、ほんとうにそんなスペースさえ無かったのである。

 

とはいえ、キビキビ走るし、グイグイ曲がるし、乗る喜び、走る喜び、みたいなのがすごくて、こりゃあみんな欲しくなるわなぁ、と思ったし、ホンダがホンダらしいものを作ってくれたということただそれだけで、素直に嬉しかった。

まぁいまおれがこれを買えるかっていうと難しいし、これはセカンドカーどころか3台目クラスだよなぁ、とディーラーのK氏とも話していたのだけれど。もはやバイクみたいなもんだよね、ここまでくると。

S2000はまだトランクあったからな…w

しかし、S2000よりもいいなぁと思ったのが、扱いやすいエンジン特性。

今回は嬉しいことにMTモデルを借りれたのだけど、乗り心地はまるでCVT

それはシフトチェンジが上手いからではなくて、エンジン特性がびっくりするくらいフラットだったから。

まぁ逆に、高回転でドカーンのVTECに慣れていると、物足りなさは否めないのだが、4000〜5000程度が一番美味しいところ、とのことで、その辺を意識すると、ちょい物足りないながらも美味しく走れる、というか、そもそもこれ660ccなんだったよね、ってなる。

つまり、軽自動車であるということを忘れてしまえるくらいの完成度、っていうことになるわけだ。

たしかに、乗ってるとき、物足りなさみたいなのはなかったわけではないけれど、軽だから仕方ない…みたいな諦めをほとんど感じなかったので、そう考えるとすごい。

CTVのほうが、メーカーの考える一番美味しいところを使ったシフトになっているらしいので、つぎはCVTも乗ってみたいかも。MTもシンプルで楽しかったけどね。

ちなみに買うとなる220万くらいらしい。笑

ぽんっと買って、適当に保管できる場所があるような生活したい。

まぁその前にとりあえずマイカーのシビックの足回りブーツの交換で4万、タイミングベルトとポンプ交換で10万と、さらには10月に車検と、いろいろ控えてるのでそんな金あるわけもないのだけど…。

 

深夜ブログ

2月29日、何年に一回の日なのかとかはよく知らないけれど、とりあえず、珍しい日なのは俺にだってわかる。しかし、2月29日に生まれてしまったひとは、いつ誕生日を祝ってもらうのだろうか、という話は当然のようにこの世の中では何万回と繰り返されてきているのだろうけれど、でもそう考えるとそもそも誕生日というのはその限られた1日しかないわけであって、毎年祝うのは単にそれをなぞっているだけ、つまりレプリカのようなもの、と考えると、べつに全く同じ日ではなくてもいいのかもしれないという気がしてきた。

 

深夜4時に帰宅して、ふと鏡をみると、なんだか自分の顔がとても消耗しているように見えた。何に消耗しているのかは知らないし、まぁそれなりに充実感のある日々を過ごしているとは思うが、とはいえ、なんというか枯れてる感じがしていて、はぁ俺もいつのまにかやつれた大人の仲間入りかぁ、とふと思った。

 

ブログに書くような話はこれといってないのだが、深夜なのでなんとなくいまブログを書いている。

 

お店を始めて、まかないも兼ねて以前よりも料理をすることが増えた。最近は鶏胸肉の研究をしている。いかに柔らかく、いかに美味しく、鶏胸肉を調理するか、という課題に勝手に一人で燃えている。

 

小説が読みたい。何を読もう。

 

真夜中の首都高速を眺めながら、弱い明かりの許で、静かに小説が読みたい。

 

椅子を買わなくては。

 

何を読もう。

 

深夜が、朝に、変わる。

 

明日、俺は、どう生きる。

 

なーんつて。

 

どうでもいいけどあした8時起きなんだよな。辛いいいい。

 

はぁ。

 

 

 

もう2月

も半ばを過ぎていてビックリだ

ブログのことは完全に忘れていたし、仕事ブログのことも完全に忘れている。

まだあんまり儲かってはいないが、日々ほんとうにいろんなことがあって忙しくて、とりあえず退屈はしないので良い。

そろそろいったんちゃんと休みたいような気もするけど、どうせ日頃から息抜きはたくさんしてるし、まぁべつに平気といえば平気な気もする。

きょうもよく働いたと思う。

最近はといえば、ビールを飲まなくなった。

代わりに、日本酒ばかりを飲んでいる。
ビールと違って、胃が冷えなくて、よい。


眠い、、

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真夜中の、キッチン

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深夜のキッチンが好きだ。

家族が寝静まったあとのキッチンで、物音を立てないように、なるべく静かに、こそこそと、ひっそり、料理をする。

一人暮らしのときはべつにこっそりじゃなくて堂々と深夜に料理してたけど、家族の寝静まった実家で真夜中に料理するほうが、なんだか、いいかもしれない、ような気がする。

上の画像はあんまり関係ないけど、テレビをつけたらやっていた1992年のスペインの映画。コメディらしい。
なんかよくわからないけどいろいろと無茶苦茶でおもしろい。

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さっき生姜のスープが飲みたくなって作った。

◆生姜とネギの卵スープ◆
生姜、ネギ、卵、調味料

・生姜を千切りにする
・テフロン鍋にごま油をひいて生姜を軽く炒める
・そのまま鍋に水を入れて、沸かす
・ネギ、酒、醤油、ウェイパー、昆布出汁などを適当に入れる
・火を止めて水溶き片栗粉をいれて混ぜる
・溶き卵をいれて火加減しながらふんわりするように混ぜる
・お好みでコショウを振って完成

控えめに言ってすごく美味しかった。
疲れた胃に優しい味わい!
生姜はよいですね。

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スペインの夕焼け、見てみたいなー。

しかしこの映画、ほんとうにめちゃくちゃですごい。

深夜の牛飼い場で全裸で闘牛してたら監視員が来たのでそのまま裸で逃げ出して、女の家で服を借りて、セックスを迫ったら追い出されシーンをいま見た所。

スペイン人の知り合いいないけど、スペインの人ってほんとうにこんなノリなのだろう? 笑

「闘牛とセックスにはニンニクが一番」ってさっき言ってた。

展開がいちいちすごすぎる。

あとホセ・ルイス、いちいちおっぱい触ってる。

あと「こんなの久しぶりだわ…パンティ脱ぐ?」「いや、このままでいいよ」「ああっ、来てちょうだい!」「駄目だ、立たない」みたいな展開を経た上で結局おばさんとセックスしてるときに、「なんでも買ってあげるわ」って言われたラウルくん、「バイクを…バイクを…ああっ…ヤマハの…600を…」って言いながらセックスして、その次のシーンでは喜びの叫び声をあげながらバイクで爆走して、べつの若い女の子に会いに行っていた。

闘牛場で全裸で遊んでたのもラウルくん。ラウルくんやばいな。

そして、「ハムはセックスに効くんだ」といまラウルくんまた言ってた。