オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

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28歳になった

 

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 カート・コバーンが死んだのは27歳だよな、と相模原の方を車でうろついていた頃に、カーステレオから流れるニルバーナを聴いて考えた。去年の初夏だった。

 

 25歳になったときは、そんなに感慨はなかった。まぁこんなもんか、ほんとうにそんな感じだった。27歳になったときも、それは似たような感じだった。なるべくしてなったような気がした、とでもいうか、26歳になってから1年が経ったので当然のように27歳になった。そんなような感じだった。

 26歳になったときは、すこしだけ特別だった。26歳になる1週間くらい前のオレは、恵比寿の猿田彦珈琲の前で、将来をどうするのか、バイトだけでダラダラと食いつないでいくつもりなのか、学歴がなくても生きてはいけるかもしれないけれど人となりを他人に示すという学歴の効果はそう小さなものではない、おまえは無力で無能だ、そんなような現実を目の当たりにして、返す言葉もなくたじたじとしていた。そして、安直な答えだったかもしれないが、学歴の取得を目指そう、そう考えて26歳を迎えた。その26歳の誕生日から2年が経った。その間にできたこと、できなかったこと。

 

 そんなわけで、タイトルの通りで身も蓋もないが、きのう、28歳になった。四捨五入すると30、そう騒ぎ始めて数年が経つが、いよいよほんとうに30に近づいてきてしまっている。やばい。

 

 ミュージシャンたちがやたらと死にたがることで馴染み深い27歳を、この1年、なんとか生き延びられたわけだが、どちらかというと変化の大きな1年ではあった。でも、やってきたことが、選んできたことが、正しかったのか、間違っていたのか、未だにわからない。たとえば、会社員として就職していたらもっと安定できていたのではないだろうかとか、学費や生活費を借金しまくってでもさっさとフルタイムの学生になっていたほうがよかったのではないだろうかとか、いまでもたまに考えてしまいはする。正しいと思ったことを選んではきたつもりだが、当たり前だが人生はなにひとつとして同じコンディションでもう一度やり直すことはできないし、困ったことに、選んできた道の結果というものは、すぐには出てこない。

 

 ところで、歳を重ねて、知見が広ると、世界との向き合い方も変わってきたりする。たとえば、よろこびの本質が変わってきたような気がしたり、といったようなところで、捉え方や感じ方が変わってきたりするのを感じる。16歳のオレは、人が生きる意味について、真剣に考えていた。誰もが一度は考えるだろうありふれた問いだが、16のオレは、その問いに、納得のいく答えを見つけることができなかった。考えてみると、16のオレは、大抵いつも退屈していた。なんか楽しいこととか無いですかねー? みたいなアホな言葉をバイト先のバックヤードで一回り年上の社員に投げかけたりして、退屈な毎日を過ごしていた。知らなかった世界が、少なくと今よりも多かった分、それなりに、いろいろなよろこびやときめきがありはした。手を繋いでデートしたり、それまで行ったことのなかったような店(居酒屋程度だけれど…)に行ってみたり、ひとりでオフシーズンの離島に行ってみたり、中学生までは触れることのなかった世界に少しずつ踏み入るようになって、確実に世界は広がっていた。それでも、どこかでいつも退屈していて、どこかで世界に対して絶望していた。世界に対する絶望、しかし、恥ずかしい響きである。

 28歳になったいまは、世界に絶望したりしていない。世界に退屈する暇もない。ただ日々に追われて、疲れて、目指すべき目標への道のりの遠さに悲しくなって、酒を飲んで暮らしている。よろこびの本質。30歳に近づくということは、つまり、10代が終わって10年近い年月が流れたということにもなる。知らないことに限りはないし、マクロ的な見方をすれば、世界はオレの知らないことだらけだ。それでも、たとえば、10代の頃にはなかった自由や、10代の頃には知らなかった経験を経ている分、物事の感じ方や捉え方は、確実に変わってしまった。セックスを知らない童貞は、いつかするセックスに憧れて、触れたことのない女の身体に憧れて、胸を躍らせる。しかし、経験してしまえば、それはただの行為に過ぎないことを知ることになる。相手との関係性とか相手との相性による違いはあるし、細かいことを言えば体位の違いとか行為をする場所とか、そういうものでも違いはあるが、本質的に、セックスはセックスに過ぎないということを知ることになる。ほかのことだってそうだ。美味しい食べ物、美しい景色、素晴らしい音楽や映画や小説、速い車、良い仲間。世界が広がれば広がるほどに、レベルの高いモノやコトを経験できる。でも、本質的には、車は車だし、景色は景色、そして、食べ物は食べ物なのであって、簡潔な表現でいえば、どんなに満たされたとしても、同時に、どこかに満たされなさを感じてしまわなくなることはない。完璧に満たされることなどないのはわかっているし、満たされることがあるとすればそれは死ぬときだとオレは思っているが、世界を知れば知る程に、満たされることから遠ざかるような錯覚を覚えてしまう。目的地への距離が遠ければ遠いほど、その旅路は非現実的なものとして捉えられる。目的地までの距離が5万キロだろうと、4万9千キロだろうと、たいした違いではない。だが、千キロの距離と、2千キロの距離とでは倍も変わってしまう、そんなようなことなのかもしれない。歳を重ねて、知見が広がり、目標や目的への具体性が増すことで、余計にわからなくなるのだ。自分にとってのファーストプライオリティがなんなのか、なにを再優先にすれば自分は幸せになれるのか。そういうことが、わからなくなる。

 セックスを夢見る童貞は、セックスさえできれば幸せになれる、セックスさえできればすべてが手に入ると思っているが、経験してしまうと、もっとセックスを経験したくなり、そのうちに、セックスですべてを満たすことができないことを知る。どんなにお酒を飲んで騒いでも、どんなに映画で感動したり笑ったりしても、どんなにのめり込むように小説を読んでも、それは同じだろう。

 

 月並みな言い方だけれど、そんなわけで、28歳も頑張ります。世界が自分の力だけではどうにもならないことだらけで出来ているとしても、自分の力でなんとかなることは頑張りたいし、結果として示したい。頑張るぞ。まだ知らぬよろこびを知るためにも…。