オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

味のない世界の退屈、嗅覚と風邪のこと

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年明け早々に、といっても3週間近く過ぎていはいたが、まぁ、いきなり風邪をひいた。先週末の大寒波、本当に寒かったし、ちょうど寒波が終わったくらいから体調が崩れ始めた。

 

あまり負荷の多い生活はしていないし、極端に身体が強いわけではないが、比較的体調は崩しにくい方なので、風邪なんてずいぶんとひいていなかった。なんだけど、あっさりやられてしまった。

冷えは万病のもと。まさに、である。

 

喉の違和感が全身のだるさになり、背中と腰が痛み、強張るようになった。けっこうしんどかったのに、熱は出なかった。熱が出ないのは、体力があるから熱は出ないで済んでいる、という説と、熱を出す体力すらもない、という説があるのだが、前者でありたいなぁと思っていたら、どうやら前者であったみたい。数日のうちにだいぶ良くなってきて、もう症状はかなり楽になった。免疫力があるから、発熱せずとも、ウィルスを退治できる、ということらしい。例によって、漢方薬ドーピングはかなりした。作用機序を考えながら実験的にいろいろな処方を混ぜたり量を倍にしたりしながらがんがん飲んで、効果を見ながら次の処方を考える、みたいなことをしていたので、西洋薬はほとんど飲まなかった。

 

それで、回復してきて体調が楽になってきたのはいいのだが、嗅覚がおかしくなってしまっていて、おかげで本当に日々がつまらない。

 

美味しいものを味わって食べる、という喜びが、尽く、奪われてしまったのである。

何を食べても、その食べ物の本当の香りがわからないし、そうなると、味わい尽くすことも難しい。

香りが全くわからないわけではないし、べつに美味しく食事はできるのだが、まぁとにかく、つまらない。

 

と、そこで考えていたのが、もしかすると世の中こんなもんなのかもなぁ、ということ。

タバコをやめてからはなおのことなのだが、どちらかというとわたしは嗅覚が強いほうで、みんなが感じない匂いの違いを嗅ぎわけられたり、嗅覚と関連性の高い味覚においても、味を感じ分けることができたりする。味覚の何割くらいが嗅覚の影響によるものなのかはわからないが、食べ物の良し悪しを決めるのはほとんどが嗅覚、といっても過言ではないくらい、味覚と嗅覚の関係は密接だ。

素材はもちろんだが、出汁とか調味料とか調理法とかに、ぶつぶつ五月蝿く言いながらわたしは日々を暮らしている。チューブ山葵が死ぬほど嫌い、とか、人工甘味料や人口調味料が死ぬほど嫌い、とか、いろいろあるのだが、その執着は、時として、生きにくさにつながる。本当に、そのへんで適当に食べたりできないようになってしまい、最近はけっこう食事に苦労したりしながら生きている。

それが、匂いがよくわからないと、何を食べてもあんま変わらないというか、食べ物の香りに深みを感じられないので、そうなると、味までよくわからなくなってくる、

そんなことを考えていて、はたと思ったが、そう、世の中こんなもんなのかなぁ、である。

 

人よりも優れている、という言い方には抵抗があるが、他にうまい表現が見当たらないのであえて書くと、標準的な人よりも嗅覚が優れているわたしが、風邪で嗅覚が麻痺したことで、世の中のひとの食への感じ方がすこしわかるようになり、その彼らの食への執着の低さに納得した、のだ。

 

たいして美味しくもないものを美味しそうに食べ、ブラインドテストされたら違いなんて全然わからないだろうし、そんな味の違いもわからないやつらが受け売りの評価をべらべらと語り、食べログにあることないことを書く。そういうのがいまは世の中にあふれている。

殆どの人はみんな、味で食べているのではない。ストーリーや情報を食べているのだ。

なぜか、それは、味がわからないからだ。

何を食べても感じ方が大して変わらないのであれば、そりゃ何を食べたって同じだろう。そうなると、良いストーリーの食べ物、良い情報の食べ物、が価値を持つ。

いつもすごく並んでる店、どこどこで修行したシェフの店、誰々が美味しいと言っていた店、世の中のほとんどの人が、そういうのを喜んで食べている。

こいつらは。本当に美味しいモノなんて、たぶん、どうでもいいんだろうなぁ。と、いつも思う。

味覚の評価基準には、絶対的なものと、相対的なものとが混在している。相対的なものは、好みと呼ばれるものの範疇なので、十人十色で当然だ。

しかし、絶対的なもの、は、調理や素材のレベルの話なので、誰にとっても変わらない意味を持つ。麺の茹で加減、麺の茹で方、肉の焼き方、魚の切り方、油の種類と使い方、そういう絶対的な評価でみた時に、不味い食い物が世の中にはたくさんある。だが、それを不味いと思ってか思わずかは知らないが、なんの文句も言わずに、平気で飲み食いているひとたちが世の中にはたくさんいる。

たとえばわたしは、西洋わさびのチューブのわさびが嫌いだが、それ以外にも、本わさび入りのチューブわさびとか、本わさびだけのチューブわさびとか、いろいろある。

当たり前だが、一口食べればそれがどのわさびなのかわかるし、食べ慣れたおかげで最近では、生の本わさびも、その特徴や個性の違いがわかるようになってきた。

安い寿司屋とか、蕎麦屋とかで食事をすると、出されたわさびがどんなわさびなのかが、舐めればすぐにわかる。

このわさびはありえない、嫌なわさびだったら無い方がマシ、と思うことも多いくらいに、どうでもいゴミみたいなわさびを出してくるお店も多い。

しかし、そう思ったような店で、ドボンとそばつゆにそのゴミみたいなわさびを溶かして、美味しそうに蕎麦をすすっているような客が、世の中には沢山いる。

嫌なものを我慢できるのはすごいことだと敬意を感じるが、どうみても、嫌だと思っているようには見えないことも多い。つまり、わかんないんだろうなぁということだが、いままではそういうひとたちをどこかでバカにしていた。しかし、風邪で嗅覚が落ちたことで、なるほど、仕方ないんだな、ということがわかった。

誤解されたくないのだが、わかるのが偉くて、わからないのが駄目、ということを言いたいわけではない。わからないのは仕方がないし、それで本人が困っていないのなら、それでいいと思う。

ただ、わかろうとしているかどうか、というのは実は重要なことなような気もする。

意識の問題だ。食べ物を味わいわけることができるかどうか、というのは言わずもがなだが、それよりも、食べ物を味わいわけられるようになろうとしているかどうか、こそが問題だ。

 

こうして、一時的なものとはいえ、自分でも、いつもの嗅覚と味覚を失ってみて、知った世界があった。

 

以前にこういう風邪をひいた頃には、いまほどは味覚への執着はなかったし、いまほどの経験や知識もなかった。基本の基準は変わらないが、美味しいものを知りたいという意識が、いまよりも少なかった。基準となる味や知識が少なかった、ということでもあるが、美味しさを追求しようという姿勢が、いまとは違った。

飲食店を持ったことで、得たこと、学んだこと、いろいろあったが、一番大きかった学びは、こういう、食への姿勢、なのかもしれない。

これからの人生、業として飲食業を営むことはもうないといまは思っているが、店を経営して得た知見は、けっこう大きかった気がする!!

美味しいとされているから美味しいのではなく、本当に美味しいのかどうか。自分の味覚で、嗅覚で、しっかり味わって見極められる人になりたいし、ありたい。

 

まぁでも、世の中みんながそんなだったら、そのへんのちょっと不味い店はバンバン潰れるだろうし、美味しさは手間と比例する部分も大きいので、美味しい店というのはそうたくさん存在できるものでもないし、安くて不味いものを世の中のみなさんが喜んで食べていても、オレには関係のないことなんだけど。

 

写真は実家に帰ったらあった、イチゴ。初もの!

春になったらイチゴ狩り行きたいなぁ。

あと、3月になったら駿河湾に生しらす食べに行く!! 

と、また食べ物のことを書いているが、美味しいものを味わって食べる喜びの大切さを、久しぶりに風邪になってほんとうに痛感した。逆に言うと、前回風邪をひいたときから、いまの間で、食に対する感覚や意識が、かなり成長していた、ということなんだろうなぁ。すげーな。笑

 

ところで、ここ半年でもう3回くらい伊豆や静岡に行ってるんだけど、静岡、海も山も温泉もあるので、なんだかどんどん好きになってきた。何度か来ていると、どんどんくわしくなってくるので、それはうれしいのだが、初めて来た! という開拓するワクワク感が減るのがすこし寂しかったりもして、なんて。

まぁまたすぐに行くんですけどね。

 

よくいく喜多見蕎麦屋のおっさんに、天城のわさびはダメ。有東木のが一番、って言われたんだけど、確かにそうかもしれん。こんど行ったら比較用に天城のわさびも買ってこようかな。でもそれより、桜海老と鰹節を買いたいよ俺は。あー次行くの楽しみ。