オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

日常に潜む発達障害的要素

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お酒を飲みながら深夜に書きなぐったらちょっとしたレポートのような日記になってしまった。4500文字…笑

別に発達障害だと診断されたことはないが、自身の言動や生き方を振り返ってみると、明らかにいわゆる「標準」的なそれから大きく逸脱しているケースが多く、ここ最近は、自分はある種の発達障害なのではないか、と考えるようになった。
 
とはいえ、脳生理学的な診断があったわけでもないし、明らかにそう断定できるわけでもないので、そういう性格、そういう個性、というソフトウェア的な個体差、といった見方をすることもできるとは思うのだが、しかし、「ある種の発達障害」という視点で自分を俯瞰視すると、少しだけ、人生が進めやすくなるような気がする。
 
以前同居していた友人も、わたしとそのベクトルは異なるが、発達障害的要素をもっていて、折に触れてそういうテーマで議論を交わしたりはしていた。異常か正常か、という話ではないのだが、敢えて、そういう発達障害的要素を「異常」と呼ぶのであれば、彼の言動や思考構造には、わたしからすれば、社会通年や一般常識からすると「異常」に思えることも多く、彼が自身のことを、ある種の発達障害、といったように呼称することに違和感を覚えることはなかった。しかし、自分のことは、というと、ただの個性、ただの怠惰、という風に評価していたのだが、一歩引いて見てみると、オレもオレとてある種の発達障害、と最近は思えてきた。簡単に言うと、苦手なことやできないことを、努力や意識が足りないから苦手だったり出来なかったりする、とするのがソフトウェア的個体差とみなす考え方、器質的にそういったことが得意なように脳ができていない、とするのがある種の発達障害とみなす考え方だ。前者は、できるのにしていない、と考え、後者は、できない、と考える。もちろん、何でもかんでも発達障害で片付ければいいわけではないし、発達障害にも程度の差はあり、病理と呼称すべきレベルのものから、日常生活でのちょっとした不都合、という軽度なものまである。ある種の発達障害、と書いているのは、そういった含みからで、病理とは呼べないかもしれないが、日常生活での困難がある、というような程度のものを、わたしは勝手にそう呼称している。
それで、その発達障害的要素、というのは、べつに、悪いだけのものでは無いと思うし、大なり小なり、その方向性や程度に差はあれど、ほとんどの人がなんらかの発達障害的要素を持っていると思う。大切なのは、それを俯瞰視して把握できるよう努め 、その特性に合った、その特性を活かした、生き方をできるようにすることだと思う。
 
話は少し変わるが、自分の味覚や嗅覚の過敏さに嫌気が差すことが増えてきた。この味覚や嗅覚というのも、わたしの発達障害的要素の一つだ。適当なものを食べて、適当に美味しいと、まわりのひとたちと同じように思えないのが、けっこう煩わしい。自業自得なのだが、飲食店を経営したことにより、食に対する意識や思考が深まり、本当に美味しいものを本気で追求するようになってしまった。結果として、そのせいで飲食を生業とすることに嫌気がさしたわけだが、意識したことで、味覚や嗅覚が明らかに研鑽され、敏感になった。厳密に言えば、ハードウェア的な意味では味覚や嗅覚はそう大きくは進化してはないのだろうと思うが、味の経験値というデータの蓄積と、食材や調理法などのことを調べたりするようになったことといった具合に味のことを意識するようになったことにより、ソフトウェア的に進化してしまい、結果として、数年前よりも、明らかに味覚や嗅覚が鋭敏になったことを実感している。以前は、なんとなくまぁ美味しいかなと思っていたような食べ物を、いま改めて食べると、味の構造のアラや濁りを感じてしまったりすることが増えた。以前はタバコを吸っていたこともあり、いまよりも嗅覚や味覚が鈍くなっていたというのもあるとは思うが、それにしても、である。気軽な食事で満足できることが明らかに減ってしまった。美味しいと思って食事ができないのは味覚障害なのではないだろうか、と思ったこともあったが、本当に美味しいものは美味しいと感じるので、どうやらそうではないらしい。ところで、よくよく考えると、視覚や聴覚だってそうであるように、嗅覚や味覚も、他人がどういうふうに感じているのかを知ることは難しい。人は得てして、自分以外の皆も同じように感じているのだろうと思いがちだが、実際はたぶんそうでもない。色の見え方だって、音の聞こえ方だって、多分違うし、味の感じ方も、当然、十人十色。自分の味覚や嗅覚が過敏なのは、味や匂いのことを、意識したり考えたりするようになったからだ、と最近までは思っていたのだが、どうやらそうではなかったのかもしれない、という風に思うようになった。
 
スーパーテイスターという概念があるらしい。端的に言うと、味蕾の乳頭の数が、普通の人よりも多い人のことを定義する言葉らしく、アメリカで提唱されているらしい。通常の人よりも味を約3倍くらい強く感じるらしく、塩味や甘みはもちろん、特に苦味を強く感じるらしい。ちなみに、ネットで読んだ文献によると、ベロを食用着色料で青とかに着色して、味蕾の数を数える方法の他、500mlの水に砂糖を3g入れて甘みを感じるかどうか、という方法でも判別できるらしい。実際に砂糖3gの判別法を試してみたところ、本当にわたしがスーパーテイスターなのかどうかはさておいて、明らかに甘みを感じた。この程度の甘さなら、誰だって識別できるだろう、とわたしは思ったが、よくよく考えていると、もしかするとそうでもないのかもしれにない、と思えてきた。五感は人それぞれで、誰しもが同じように感じているわけではなく、500mlの水に3gの砂糖を、甘いと感じないひともいるのだろう。つまり、当然のものとしてわたしが感じ取っている細かな味の差異などは、通常の味覚の人には、そもそもわからないのかもしれない、ということに気がついたのだ。よく言われる、舌が肥えている、というのとはまた違う問題なのかもしれない、ということだ。舌が肥えている、というのは、ソフトウェア的な話だ。美味しいものをたくさん食べてきたことで、美味しい味のデータが蓄積され、また、食に対する意識が高まり、程度の低いものを美味しいと思えなくなることを、舌が肥えていると表現できるだろう。しかし、わたしはそこまで美味しいものばかりを食べて育ったわけでもなければ、高いものばかりを食べて暮らしているわけでもない。舌が肥えている、と言われることに疑問を感じ続けてきていた。
 
わたしは、人工甘味料とか人工調味料とかがとにかく苦手で、なぜ苦手なのかを長年考察してきた。
人工甘味料は、生理的に無理なようで、ジュースなどの少しでも入っていると不味くて飲めない。最近はめっきり甘い炭酸飲料は飲まなくなったが、ダイエットコーラとかそういうような人工甘味料入りのジュースは、ほんとうに味覚が受け付けず、うっかり買ってしまうと、ひとくち飲んで、顔を歪めて、毒づきながらあとは全部捨てることになる。それくらいに人工甘味料が苦手で、少しでも添加されていると違和感を感じる。
人工調味料、いわゆる味の素、アミノ酸グルタミン酸ナトリウム、だが、これも、あまり得意ではない。食べていて、なんだか美味しくないな、と思うと大抵入っている。しかし、こちらは、人工調味料と違って、味が嫌いなわけではない。問題なのは濃度だ、ということが、いろいろと考察した結果わかった。もともと、グルタミン酸ナトリウムという成分は、昆布のうま味の主成分だ。昆布のダシは苦手ではないし普通に美味しいと感じる。ではなぜ味の素が無理なのかというと、結局、濃すぎるからだ、ということがわかった。市販のめんつゆなどには、大抵、味の素が入っている。通常の規定量の水で薄めた時、味の素の味しかしなくてわたしは美味しいとは思えないのだが、それを更に水で薄めて、いい感じのところで醤油で塩分濃度を通常値くらいまで調整してあげると、なぜだか、美味しく感じる、ということが実験の結果わかった。味の素が入っていることが問題なのではなく、味の素は味が濃すぎる、というのが、わたしが味の素が苦手な理由だったと結論づけることができた。
それから、濃すぎる味のものも苦手だ。とんかつソースもあまり使わないし、ガッツリ強烈なにんにく味も得意ではないし、ラーメンのスープなども外で食べると大抵は濃すぎると感じてしまう。世の中の指標で言う薄味が、おそらくわたしにとってのちょうど良い味付けだということが多い。
 
こういった一連の食の話を、しばらく前までのわたしは、ただの嗜好だと思っていた。器質的にもどちらかと言えば味覚は敏感なほうではあるだろうが、それよりも、後天的な食経験や、食という文化を、意識しているかどうか、ということの問題なのだと思っていた。
 
しかし、スーパーテイスターという概念を知り、とても腑に落ちた気がした。
嫌な言い方かもしれないが、わたしが特に美味しいと思わないものをほとんどの人が美味しいと評価する。わたしが60〜80点くらいだな、と思ったものを、ひとはとても美味しい、と評価する。しかし、わたしが100点だと思うものも、人々は、60~80点と同じ「とても美味しい」と評価する。そんな味の違いもわからないのか、と驚き、その相手の味覚がおかしいのではないのだろうか、とさえ思うこともあったが、そう、おかしいのはこちらだった。
 
味蕾が多ければそれだけでいいわけでもないだろうし、わたしよりも敏感な嗅覚や味覚を持つ人は世の中にたくさんいるだろうとは思う。べつに自分の味覚が「神の舌」だとかは思わないが(笑)しかし、生活の中で、たとえば、自称グルメの人が初歩的な味の差異を感じとれなかったりするのを見るとなんだかがっかりしたりとか、味の濁り(香りつけが上手ではない、臭みの処理ができていない、調味料の使い方が間違っている)を必要以上に感じてしまって皆と同じように心から食事を楽しめないことが多かったりとか、味覚が敏感であることでも、それなりに苦労もしている。コンビニに行っても、食べたいものがマジでない、とか。笑
 
飲食店を始めて、食と本気で向き合うようになったからそうなってしまったのだろうか、と考えていたが、どうやらそうではなく、そういう器質的特性だったのだろう、と最近は思えてきた。
 
発達障害の話から、味覚の話へ話題が大きく反れたが、人より秀でいてるものがあれば、人よりも劣るものだってあるわけで、わたしも、味覚が敏感なことと引き換えに、かどうかはわからないが、時間が守れないとか、何かを継続できないとか、そういう欠点もたくさん持ち合わせている。
 
自己の思考や行動の特性を、背が高いとか太っているとか、そういう外見的な器質のことと同じように、ソフトウェア的なこととしてだけ取り扱うのではなく、ハードウェア的なこととして捉えることは、冒頭にも書いたが、もしかすると、人生を、少し、生きやすくしてくれるかもしれない、と最近は思ったりしている。

 

トップの画像はこないだ久しぶりに作った角煮。美味しかった。