オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

球体関節愛花、ZIGEN写真展、ホテルブーケンビリア曙橋、青山通りの夕暮れ

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 球体関節で胴体と四肢が繋がったその女は、裸だった。女のその視線はオレの方を向いている。刺さるように尖ったその目線は、でもどこかに柔らかい感じも併せ持っている気がした。黒々とした髪の毛先が闇に溶け込んでいる。リアルで滑らかな肌の質感と、その滑らかさを突然に破壊する、関節。球体関節が、人の肌のぬくもりを断絶しているかのようだった。
 腹部にも関節があって、そこに見える黒い隙間は何かを吸い込んでしまいそうなくらいに真っ暗だった。作品の名前はEpsilon。股の間には、女であることを示す傷が縦に伸びている。お腹の空洞にもし水を注いだら、その股の傷からは水が出てくるのだろうか。胸の輪郭を浮かび上がらせるやわらかな影。豊かとは言い難い大きさだったが、その胸の輪郭には、安らぎがあった。色が薄く、小さく粒だった乳首がフェチズムを喚起する。
 
 ギャラリーには、球体の関節を身体に備え持ち、いろんなポーズをしている同じモデルの写真がいくつも額装されて飾られていた。Zigenさんに前に会ったのはたぶん5年近く昔のことだったような気がするが、詳しくは覚えていない。どこか郊外のほうであったロケの現場だったような気もするし、家の近所のホームセンターだったような気もする。ギャラリーの一画がバーになっていて、カウンターにはお客さんが座っていて、ドリンクを飲んでいた。まだ日は落ちていなかったが、お酒が飲めるようだった。
 
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 作品名はDzeta。半開きのくち元、髪の間から片目だけ見えている眼。脇腹に浮かび上がる、あばら骨の滑らかな影。半開きのくちからはいまにも言葉が漏れてきそうで、でもたぶんきっとなにも言わないのだろう、そんな感じがした。髪に覆われた顔に浮かぶ表情が、見るものを捉えて離さない。膝をかかえて座り込むその足元には、レースのついたショートストッキングが揺れている。
 
 エロスを超越した何かがそこにあるのを感じたが、それが何なのかが、すぐにはわからなかった。作品を見るという行為は、もしかすると、本質的には、自分との対話をする行為なのかもしれない。作品を見て何を思うのか、何を感じるのか。そんなもののなかに浮かび上がってくるのが、おそらく、自分の本質、なのではないだろうか。人形を模した女の目線に何を感じるのか。人形を模した女のくち元に何を感じるのか。
 
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 そもそも、これはなんのための芸術表現なのだろう。理由なき表現だとか、理由とか意味とかそういうことすらもよくわからない表現だとか、そういうものも世の中には沢山ある。表現する理由、そんなものはどうでもいいことなのかもしれないという気もするし、でも、とても大切なものなのかもしれないという気もする。生活のための表現、それ以外に方法がないからする表現。いろいろな表現の理由がある。球体関節とヌードポートレートによるこの作品展の表現は、なんのための表現なのだろうか。その理由を訊いてみたい気がして、少し迷ったが、なんとなく、それが訊くべきではないないことのように思えて、オレは訊くのをやめてギャラリーを後にした。
 
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 理由なんかないのかもしれないし、あったとしても簡単に説明できるものではないかもしれない。言葉で簡単に表現できるようなものならば、そのまま言葉にしてしまえば済むわけであって、言葉で簡単に説明できないから表現するのであるとすれば、そういう簡単に説明できないようなものを気軽に訊ねるのはコミュニケーションやアートに対するある種の冒涜行為のような気がしたのかもしれない。帰り際に、少しだけZigenさんと話したとき、1杯飲んでっていいよ、と言われたが、帰りも運転があったので、ソフトドリンクがなさそうだったこともあって断ってしまった。炭酸水でもなんでもいいから、1杯飲ませてもらって、さわりだけでもいろいろと訊いてみればよかったのかもなぁ、などと後から思ったりしたが、べつに今すぐに訊かなければならないことではなかったし、Zigenさんの表現の理由がなんであれ、それはオレが何かを表現することの理由とは関係ないわけであって、別にいつか将来、そういう話しを出来る機会があったときにまた訊いてみればいいのだろうと思った。
 
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 ギャラリーを後にすると、街は徐々に暗くなっていって、合羽坂の交差点で外苑東通りへの右折待ちをしていると、バックミラーにビルの向こうに沈もうとしている夕日が映っていた。昔つきあっていたことがある女の子が外苑東通りの先に住んでいて、数年も昔のことだが、よくこのあたりを通っていたことがあった。外苑東通りは市ヶ谷の防衛省のあたりを越えた先で道が狭くなっていて、いつも混んでいたのだが、この間ひさしぶりに通ったら、道路の拡張工事も、もうすぐで終わろうとしているようだった。道路を隔てた信号機の向こうに、ホテルブーゲンビリアと書かれた看板が見える。そこにそんなホテルがあることに初めて気がついたし、行ったことも聞いたこともないホテルだったが、名前が面白くて、なんとなく携帯で写真を取った。ブーゲンビリアといえば、村上龍コインロッカー・ベイビーズのワンシーンにも登場する花だった。確か、ハシが押し込まれたコインロッカーの箱には、ブーゲンビリアが敷き詰められていた、というようなシーンだったと思うが、妙に印象的だったのを覚えている。日常の中でブーゲンビリアという花を見ることはあまりないが、そういえば、ハワイに住んでいる叔母の家の隣の家の庭にも、立派なブーゲンビリアが咲いていた。外苑東通りをこうして通ることはこれからもあるだろうが、ホテルブーゲンビリアに行ったり泊まったりすることは、きっとないのだろうなぁと思った。
 
 帰りしなに小腹が空いて、246沿いの蕎麦屋に入った。以前から知っていた店だったが、わざわざ行くほどではない気がして、もう何年も前から知っていたが、来たのは初めてだった。小諸そばという立ち食いチェーン店を経営する会社が、小諸そばの上位店舗というポジションで出店している店だった。出汁とか、蕎麦とかに、少しだけ小諸そばよりも良いものを使い、おしゃれでモダンな雰囲気を演出しながらも割安な価格を実現しているということで人気の店らしかった。並んでいることも多いとネットには書かれていたが、夕飯には少し早い微妙な時間だったこともあり、並ばずに店内に入ることができた。
 
 店内は外国人が多く、空いていた席に座ると、左にはアジア系のおばさんがひとり、右にはアジア系の男、おばさん、おばさん、欧米系のカップル、という感じの並びで、カウンターはほとんど満席だった。左隣のおばさんは、服装とか雰囲気がなんだか薄汚くて醜い感じがして、べつに何をされたわけではないし、そのおばさんは何も悪くはないのだが、なるべく距離を取りたくて、オレはなんとなく背を向けていた。
「お荷物入れにお使いください」
 店員のおばさんが荷物を入れるカゴを持ってきた。膝に置いていたバックパックをオレは自分の椅子の右隣に置かれたそのカゴの中に入れた。
 
「わたしは嫌なのよね、それに荷物いれるの、ほら、隣の人の靴の踵とかでさ、コートに当たっちゃったりすると汚れちゃうから」
 驚くべきことにオレの左隣の醜いおばさんは外国人ではなくて日本人だったし、用意されたカゴに荷物を入れることを嫌がり、わざわざそれを店員に伝えるという始末で、ただそれだけのことなのに、なんとなくオレは嫌な気持ちになった。程なくしておばさんの鍋焼きうどんが出てきた。鍋焼きうどんを箸で突きながら、おばさんは店員を呼びつける。
「ねぇ、かまぼこが入っていないんだけれど」
 背の高い若い男の店員が現れて、おばさんの鍋焼きうどんを一瞥して、頭を下げてた。しばらくして、小皿にかまぼこが2切れ載せられて出てきた。
「ちょっとサービスしときましたんで、いつもご来店ありがとうございます」
 いかにも申し訳無さそうな声で店員がそう言う。
「あらいやだぁ、いいのにそんなことしなくて、なんだか悪いわねぇもう」
 願い叶ったりとでもいうように、嬉しそうな声でおばさんがそう言って、オレは横でそれを聞いていてまたなんだか気持ちが悪かった。
 
「ちょっとごめんなさいねぇ」
 オレの左斜め前にあった調味料置き場に、オレの方を見ずにおばさんがそう言いながら手を伸ばす。いちいちうるせんだよババアが。声に出さずに心のなかでひそかにオレは毒づいた。
 
 給仕をしている店員のおばさんも、上品さとかおしとやかさとは全く無縁の、がさつでせわしない接客だった。席は狭いし、椅子は後ろに下がらないので机に押し付けられているかのような姿勢を強いられていた。
 
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 注文してあったかしわ天せいろ、600円が出てきた。天ぷらは春菊天あたりが食べたかったのだが、単品では頼めないらしく、そのへんの点でも小諸そばと比べてしまって、オレは少しだけガッカリしてしまった。コンセプトが違うのはわかるし、来店する外国人客とのやりとりなどを考えると、たしかにすべてセットメニューにしてしまうのは悪い方法ではないだろうとは思うが、自由に種物を選べるのもこういうファーストフード系の蕎麦屋の醍醐味だと思う。
 
 つゆは確かに、明らかに小諸そばよりも少しだけレベルが上のものだった。醤油の角が立ちすぎているのが少し気になるのと、甘さが若干だが強すぎる。出汁ではなく、砂糖の甘さだ。でも、そのへんのわけのわからん蕎麦屋のつゆよりは、随分と優秀なつゆだと思った。
 麺は、蕎麦粉の比率が小諸そばよりも多いらしいが、多少はマシかな、という程度で、大きな差は感じられなかった。そんなことより、麺は水切れが悪かったし、少し茹ですぎだった。ぶよぶよとしていて、水っぽい。蕎麦の風味や甘み以前に、これでは、いい蕎麦とは言い難い。
 たしかに、小諸そばの麺とはちがって、ホシの部分も打ち込まれているのが目に見てわかるが、だからと言って大きく風味で秀でているわけでもないわけであり、この麺やつゆと引き換えに、失った小諸そばならではの良さを思うと、残念な気持ちになった。
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 天ぷらも、そう褒められたものではなかった。蕎麦屋を見定めるのには、せいろと天ぷらを頼むことにしているので、かしわ天せいろを注文した。鶏肉は調味液に漬け込んで下処理がしてあって、しっとりと仕上がっていたが、衣はべたべたと脂っぽく、香りもいまいちだった。小諸そばの揚げ置きの天ぷらの方がマシだとも言えるかもしれない。
 本質的に、蕎麦屋の天ぷらというのは、天ぷら屋の天ぷらとは全く別物だと言っても過言ではないものであって、この店みたいに、天ぷら屋の天ぷらを半端に目指そうとすると、得てして残念な結果になるような気がする。
 
 600円という価格でこれが食べられるのは悪くはないが、雰囲気にお金を払っているようで、妙な気分だった。
 
 べつにこういう蕎麦屋が存在していることに大しての不満はないが、たとえば外国の人が来て、日本の蕎麦屋とはこういうものだ、と思われてしまったりするのはなにか残念な気がする。そりゃあたしかに、小諸そばよりも、いろいろと「良い」のはわかる。でも、その良さは、どこか中途半端で、それだったら無くてもいいのかもしれない、と思ってしまうような類の良さでもあった。
 
 もっとも、右隣に座っていた外国人の男が、そばつゆにドボンと練りワサビを放り込んで、濁ったつゆにどっぷりと蕎麦をつけて食べているのを見ていたら、客も客なわけであって、べつにこういう店はこういう店でいいのかもしれない、と思ったりもした。もちろん、本わさびなどではなく、練り物のインチキわさびなので、つゆにドボンとつっこもうと別にそれはそれでいいし、そうやって世の中は上手く回っているのかもしれない。
 
 最後に出された蕎麦湯は、茹で湯をくんだだけのシンプルなもののようで、わりと好感が持てた。そば徳利につゆをわけて出していることは評価に値するような気もする。蕎麦湯につゆを少し溶いて飲むと、出汁の味わいがひろがって、美味しかった。蕎麦つゆだけで味わうと、少し足りなさを感じるが、蕎麦湯で割ったときの味わいはなかなかのものだと思った。
 
 そう、蕎麦湯が美味しいと、結局すべてを許してしまうような気がする。
 横にいるおばさんはあいかわらずなんだか気持ち悪くて顔も見たくなかったし、給仕のおばさんはがさがさと店内を走り回っているし、椅子は狭いし、居心地のいい店とは言い難かったが、べつにそれはそれで良いような気がした。オレが来なければいいだけのことだろう。
 
 店を出ると、なぜかシャンプーのにおいがあたりには漂っていた。近くに美容室でもあるのだろうか。店の前には小さな行列ができていて、街はすっかり暗くなっていた。
 
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 通りの少し先に、路上で野菜や果物を売っているおじさんがいた。確かに安かったし、店舗ではなく路上で売るからできる価格なのだろう。通りすがる人たちが群がっている。ベージュのトレンチコートを着た女が、1個80円のアボカドを買っていた。並べられた果物や野菜の内側には青いザルが置かれていて、その中にはジャラジャラと小銭が入っていた。おじさんの帽子には、市場のIDを示す数字が印字されたプレートがついている。
 
 表現する理由のことをまた考えながらオレはバイクのキーをひねってエンジンに火を入れた。理由はいたるところにあるし、でも、どこにもないのかもしれない、そんな気がした。展示を見て思ったこと、蕎麦屋で思ったこと、渋滞する夕方の道路を車の間をすり抜けるようにして走りながら思ったこと、そういうことを、文章に書きたいと、オレはなんとなく、思った。すこし走るうちに空はすっかり真っ暗になった。東京に、夜が来る。