オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

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売れることは正義、気持ち悪いSNS投稿の考察

Facebookに投稿される、いろいろな人の投稿を見て、気持ち悪いと思うことが増えたような気がする。

すこし乱暴な書き出しになってしまったが、あくまでもこれはわたしの主観であり、ここで特定の誰かに対する批判をしたいわけでもない。SNSなんて、嫌なら見なければいいだけなのだが、SNSを使うことによりもたらさられる利益があるのも事実ではあるし、そうは言っても不思議なもので、気持ち悪いなぁと思いながらも、やっぱり見てしまう。

こうやってわたしがいまブログを投稿することも、もちろん一種のSNSポストではあるわけで、SNSに何かを投稿すること自体を批判したいわけではない。ただ、SNSに散見されるある種のポストを見て、気持ち悪いと思うことが多くなった、というだけだ。

SNSに投稿のされるポストにも、その意図に、いろいろと種類がある。SNSポストの本質である、なにかしらの情報を発信する、ということだって、そうはひとえに言っても、共有したいのか、かまってほしいのか、言いたいだけなのか、など、いろいろと種類がある。SNSに投稿することでなにかが発展する可能性があることも否めないし、わたしの過去の人生においても、SNSに投稿したことが人生を変えたことだって実際に本当に何度もあった。もちろん、なにをもって、有益、有意義、とするのかというのは難しい問題ではある。SNS上には、価値を持つ投稿も多く存在しているが、気持ち悪いと感じる投稿と、そうではないと感じる投稿との間に、明確な線引きがあるわけではもちろんない。

誰がどういう目的でSNSを使おうと別に勝手なのだが、しかし、とにかく気持ち悪いと思うポストも多い。そこで、どういうポストを気持ち悪いと思うのか、なぜ気持ち悪いと思うのか、考えてみた。

前述した通りだが、本論は100%わたしの主観であり、そこにはたとえば絶対的な正しさなどというものは、当たり前だが、かけらも存在し得ない。なにを気持ち悪いと思うのか、なぜ気持ち悪いと思うのか、そういう個人的な感覚を考察してみようとしているだけだということを理解した上でお読み頂きたい。

いろいろと考えてみたのだが、端的な表現で言えなれば、ありふれたマジョリティを見ることと、売れないマイノリティを見ることが、気持ち悪いと、わたしの場合は思うのかもしれない。

ありふれたマジョリティ的なポスト、というのは、「素敵な結婚式でした!」とか、「最高のパーティでした!」とか、「最高の同期に感謝!」とか、たとえばそんなような類のポストのことだ。誤解してほしくないのだが、べつに、誕生日パーティとか結婚式とか同期とかのことを投稿するのが悪いわけではない。ただ、用意されているフォーマットに、テンプレのような言葉や写真を乗せた投稿は、見ていて面白くないし、不快になることが多く、それをわたしは、ありふれたマジョリティと、本論では呼んでみることにした。ありふれたマジョリティか否かの判断のポイントは、無関係な人が見たときに少しでも興味を持てるものかどうか、ということにあるのかもしれない気がする。わたしに関係のある人の投稿だとしても、そういうありふれたマジョリティ的な投稿を、気持ち悪いとわたしは思うが、それは、わたしではない、誰かその投稿とは無関係のひとがそれを見たときにうどう思うか、ということが重要だからだ。幸いながら、わたしが親しくしている人にはそういうような気持ち悪い投稿をするひとはあまりいないのだが、SNS上に散見される、借りてきたような言葉で、テンプレのような体験の感想を述べてわいわい賑わっている写真を投稿する、というような行為をとても気持ち悪いとわたしは感じる。SNSに限ったことではないのかもしれないが、何かを表現するという行為には、たとえほんの数%に過ぎなかったとしても、受け手のことを考える気持ちが欠かせない。だから、不特定多数の相手に対して、最大公約数的な文脈を、たとえほんのわずかだったとても、投稿のなかに内包していなければならないと思う。そういうものが存在しない、たとえばただ内輪の盛り上がりを表現しただけの投稿は、表現とは呼べないし、不特定多数の人が閲覧できる場所に晒すべきではないと、個人的には思っている。SNSの活用方法にルールなんてないし、べつに誰がどんな投稿をしようと、わたしが文句を言う筋合いはないのだが、とりあえず、ありふれたマジョリティがわたしは気持ち悪い。

そしてもうひとつは、売れないマイノリティだ。利益を出しているかどうか、という意味で「売れない」と書いたわけではなくて、人気か不人気か、という意味でここでは「売れない」という言葉を使ったのだが、なにか募集したり呼びかけたりしている人の投稿にも、気持ち悪いと思う投稿が多いような気がする。マイノリティであることが悪いわけではないのだが、不人気なマイノリティは見ていて気持ちが悪いし、できれば見たくない。具体的に言うと、「とっても素敵なお店で楽しい時間を過ごしましょう! どなたでもご参加ください! 」みたいな投稿のことだ。ありがちなのが、投稿者の友達数が1000人を超えていたりと、比較的多く、また、いいねの数がたくさんついているのだが、具体的な参加申請がほとんどなかったり、今回は行けないのでまたの機会に! みたいな、はなから行く気がないだろうと思えるようなコメントが沢山ついている、というような投稿だ。わたし自身は、マジョリティかマイノリティかで分類するのであれば、おそらく、マイノリティに分類されることとなるだろう。マイノリティであるということは、不特定多数の人に共感を得にくい、ということでもある。共感を得るためにSNSにに投稿するわけではないかもしれないが、SNSに何かを投稿するという行為の目的から、誰かに共感してもらうため・そこから広がる関係性などのため、というような要素を排除することはおそらく難しい。誰かに見てほしいと思わないのであれば、誰にも見られない場所に書くべきだろう。つまり、他者が閲覧できる環境にあるSNSの場に投稿する以上は、べつに誰かに見てほしいくて投稿しているわけではない、という言い訳は通用しないということになる。そうである以上、伝える努力、見る人への配慮、というのは、ルールやマナー以前のものとして、大前提としてあるべきだとわたしは考えている。

たとえばいま書いているこのブログだって、そのマイノリティ感あふれるテーマの性質から考えて、また文章の長さから、どうせそう多くの人には読まれないことだろうというのはわかった上で書いているのだが、それでも、第三者が読んだときに、なるべく理解しやすいようにする、ということを前提とした上で書いている。ありふれたマジョリティ、売れないマイノリティ、彼らの投稿に共通するわたしの不快感の原因は、もしかすると、「思考停止」にあるのかもしれない。自分だけの意志や感情が曖昧で、みんなも楽しかったし自分も楽しかった、というようなぼやっとした感想に基づいて投稿されたありふれたマジョリティの投稿、自分がマイノリティであるという自覚に欠如した乱暴な文脈の売れないマイノリティによる投稿、どちらも見ていてとても気持ち悪いのは、思考停止している様子がありありと示されているから、かもしれない。

この考察を書いていて、売れることは正義、なのか否か、ということについても考えた。たとえば歴史の上には、生前は全く評価されずに、死後になって大きく評価された画家がいるが、そんなのはクソクラエだとわたしは思う。生きている間に評価されないのなら、自分のテーマや表現方法を変えてでも、評価されることを少しは考えるべきだったと思う。死後に莫大な金額で作品が売れたとしても、本人の生前の辛い思いが消えるわけではない。表現は、たぶん、目的ではなくて手段だからだ。自分は価値のあることをしているからいつか評価されるはずだ、という考えは間違いだと思う。価値のあることをすることが目的なのではなく、価値を得ることが目的なのではないだろうか。だから、価値のあることをしていると思うのに売れていないのであれば、それが評価されるためにはどうするべきなのか、ということをもっと考えるべきだろう。たとえば、どんなに素晴らしい作品を作っていたとしても、どんなに素晴らしい仕事をしていたとしても、それが誰にも知られていなくて評価されていなければ、意味がない。人生は一度きり、自分がしたいと思うことをするべきだし、嫌だと思うことは避けるべきだと思う。そのための手段として、評価されること、評価されるためにはどうすればいいのかを考えることは、かなりプライオリティの高いことなのではないだろうか、ということに、気持ち悪いSNS投稿について考えている過程で思い至った。

なにをやってもいい、でも、売れることもちゃんと考えような。ということだと思う。ありふれたマジョリティも、売れないマイノリティも、その本質は同じだ。ありふれたマジョリティは突出した個性に欠けるから売れないし、売れないマイノリティはただの不人気な少数派だから売れない。個性は大切だし、人気があるかどうかがすべて、というわけではもちろんないが、売れること、評価されること、というのは、生きていく上で、当たり前だが、とても大切なことだと思う。

お前はどうなんだよ、と言われないように、売れないマイノリティにならないで済むためにはどうすればいいのか、ということを、わたしはいまも日々、必死に考えている。