オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

食と文化の関係性、真なる狂気と疑似的な狂気、価値としての付加価値の在り方

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 窓の外に広がる喧騒を少しだけ遠くに聞きながら、ほんのり表面がベトつくテーブルトップに肘をついて料理を待つ。化学調味料を使っていない中華料理、という条件でネットで探して出てきた店の中から、カジュアルなランチにふさわしい価格帯の店ということで選んだ店だった。入り口のドアをくぐり2名だと伝えると、1階は満席だからとすぐに2階に案内された。ランチメニューは通常ランチとセットランチがあり、通常ランチの平均単価は700円、セットランチは980円均一で、セットランチはぱっと見からしてお得感がある、ラーメンと半チャーハン、点心3品にサラダとザーサイ、スープと杏仁豆腐、というような盛りだくさんの構成だった。お店のHPには化学調味料不使用などとは一言も書いていなかったが、家庭の味に近い優しい味だというレビューがネットには多く、無化調だと断言しているレビューもあった。中華街・無化調、などで検索するとすぐに店名が出てくるような店で、混んでないわりに老舗だし味も美味しい、というような評価が多く、とりあえずは入ってみたいと思って入ることにした。2階の席は客もまばらで、吹き抜ける少し乾いた秋の風や、少しだけ遠い中華街の喧騒の雰囲気が、なんだか海外でふらっと入った中華料理屋、みたいな気分にさせるような気がした。海外、それはニューヨークでもパリでもどこでもよいのだが、なんとなくスノッブな雰囲気の街並みの中の、その中でも少しだけ下世話な感じの店、そんなニュアンスの海外を思わせる店だった。ランチタイムのピークは過ぎていたが、席についた後も客足は絶えず、それなりの賑わいが続いていた。おかみさんはHPにあった写真よりも疲れて見えたというか、なんだかやれた感じで、バタバタとせわしなく1階と2階を階段を駆け登って行き来して、注文を聞いたり、エレベーターから出てくる料理を客に出したりしていた。手が足りないのか、注文した料理が出始めてもお茶とかお冷とかが出てこなくて、まさかだが飲み物は有料なのだろうかなどと思案していたが、そのうちに大きなピッチャーからどぼどぼと注がれた烏龍茶のグラスが2つ、テーブルに並べられた。注文したのはネギラーメンのセットと、ふわふわ海老卵のセットで、半チャーハンとかふわふわ海老卵とかも、そのうちに次いでどんどんテーブルに並べられていった。ふわふわ海老卵はほんとうにフワフワで、火入れはもちろんのこと、片栗粉とか油とかの加減によるものなんだろうが、家庭ではおいおい再現できないだろうという、プロの味だった。ちなみに結論からいうと、その店は完全な無化調ではなかったが、前述のとおりだが、べつにそんなことはどこにもかかれていなかったのでまぁ構わないし、味は普通に美味しくて、量もたっぷり出し、価格のことも考えると満足度は結構高かった。おかみさんに聞いたわけではないのであくまでも推測に過ぎないが、調理の過程で粉末のピュアな化学調味料を使ってはいないが、基礎調味料や食材などは化学調味料を含むものも使っている、というような感じだろうと、食べてみてわたしは思った。粉末の化学調味料をドバドバ入れている店のような旨みのきつい味もしないし、完全無化調のいまいちな店にありがちな塩気強めの味でもなく、一般的な家庭でも出てきそうな感じのマイルドな味だった。化学調味料はその特性から、口当たりをまろやかにする働きもあり、この店の料理に含まれる程度の量の化学調味料ならば、ストイックな完全無化調の店よりも、むしろ美味しいと感じる場合も多いかもしれないと思った。
 
 外食における価値評価というのは、様々な要素をその基準に含むが故に、時として難しくもある。料理の味がよいだけでは人気店になれない、というようなことをよく言ったりもするが、味は大したことないのに口コミが口コミを呼び人気が出ることもあるし、そもそもその大したことない味だとたとえばわたしが思うような味が、世間では客の心底からの高評価を得ていたりもする。食、というものは不思議なもので、空腹を満たすという、食本来の役割以外にもいくつもの役割があり、それ故にその満足度を測る尺度が一つではなく、なにをもって満たされるのかは、人によっても、状況によっても変わる。個人的な話で恐縮だが、冒頭に記した中華料理店での話からもわかるように、わたしは味覚至上主義のようなところがあり、何を食べても、どこで食べても、よほどのことが無い限り、ほとんどいつだって常に、食べているものを分析するように味わい、至高の美味しさを探し、究極の味覚を求めている、というような節がある。人気だからとか、雰囲気がいいから、というような理由で外食することは皆無に近いし、たとえ付き合いであろうとも、行く価値の無いと思う店には極力行きたくはないと思っている。ここで言うところの、行く価値がないと思う店というものの判別ラインは、わたしの場合はおそらく世の中の多くの人よりも基準が厳しく、ただ空腹を満たすだけの店、つまり、どこで食べても同じような大したことのない味、とかそういうものを、行きたいと思う店からすべて除外してしまう。つまり、撮影の仕事の合間にすばやく空腹を満たさなければならないどうしようもない時とか、そういうときでも無い限り、わたしはファミレスとかチェーンの店とかろくでもなさそうな個人店とかには、まずもって行かない。もちろん、チェーンやファーストフードにも、空腹を満たす以外の理由で行きたいと思う店、つまり、美味しいと思うから食べに行く店も存在する。だが、基本的にはそうではない店のほうが多いから、日常的にコンビニで食べ物を買うこともないし、食事を目的にファミレスのような店に行くこともない。
 
 そんな感じのスタイルの食生活で暮らす中で、新橋にある、とある居酒屋に行く機会があった。そもそもわたしは、居酒屋、というものにも殆ど行かない。大して食事が美味しくないことが多いとか、服や髪につくタバコの匂いが嫌だとか、うるさい空間が嫌だとか、外で酒を飲むと割高になるとか、運転して帰ることができないから面倒だとか、そんなような理由で、ここ数年で指折り数える程度しか居酒屋のような店には行ったことがない。なにが言いたいのかというと、食への向き合い方とか、暮らしのスタイルとかが、わたしの場合のそれがおよそ一般的なものとは言い難いということを言いたいわけで、それがこの話の前提となるということを理解してもらいたいのだが、つまり、食べ物そのものへの評価が、わたしのなかでの飲食店の評価とは殆どイコールである、ということだ。もちろん、雰囲気とか接客とかを完全に無視しているわけではないし、例えばどんなに味が美味しくても度を逸して無愛想な店にはまた行きたいとはあまり思わないが、それでも、雰囲気は抜群にいいが味はたいしたことがない、というような店よりも、雰囲気は良くないが味は抜群は抜群、みたいな店に行きたいと思うし、前者のような店には本当に興味を持てない。今回訪れたその新橋の店は、独自のパフォーマンスが話題を呼び、人気を集めているという店だった。具体的には、マスターの繰り広げる意味不明でカオスな動作や歌や叫び、謎の寸劇や奇異なオーダー方式があきらかに特異で、類を見たことがないスタイルの店だったのだが、解釈や評価が難しい店だと食事をしながら思った。例によって車で来ていて、アルコールは注文しなかったので、シラフのまま料理を突いた。ドリンクは1杯500円のウーロン茶をオーダーした。飲み屋だから仕方がないが、先の中華料理屋で無料で2〜3杯飲んだのとほとんどなにも変わらないウーロン茶だ。料理は、1000円、2500円、3000円、というように価格帯のみが指定されていて、全員で同じものを頼まなければならないので、2500円のコースを注文することとなった。何が出てくるかは出てくるまでわからなかったが、しばらく待つと、漬物、切り干し大根、高野豆腐、蒸したさつまいも、サバの味噌煮、チキンの照り焼き、ナスの煮浸し、カレーライス、というようなどこか懐かしい家庭料理が次々に提供された。マスターが担当しているのは注文聞きとドリンクの提供などのパートと、そしてそれにまつわるパフォーマンスが主で、料理はキッチンにいる初老の女性によって淡々と提供された。この女性は、その風貌や年齢から、マスターの母親かとはじめ思ったのだが、あとで調べたらただの従業員とのことだった。価格にして2500円に税金、の料理としては、はっきり言ってかなり物足りない。もちろん、文句や不満をいうレベルではないし、むしろ、味の仕上がりとしては存外にとてもよかった。謎のパフォーマンスの話ばかりを聞いていたからあまり味に期待していなかったということもあったとはいえ、しかし、料理そのものは予想を遥かに上回るクオリティだった。内容は本当にオーソドックスな家庭料理だったが、ポイントをしっかりと抑えた味付けで、濃いわけではないが輪郭のはっきりとした味に仕上がっていて、素直に美味しいと思えた。漬物の薬味の使い方とか、芋の火入れの加減、高野豆腐のシンプルな味付けなど、確かな腕前だと思った。ただ、素材の原価とか内容を想像してしまうと、それから、いかに美味しいとはいえ技術的な面での再現性を考えると、けっして高級な素材ではないし、自宅でも十分に再現できるような味だったことを考えると、正直なところやはり、この価格で? というような気持ちになってしまいそうになる。だが、食堂として捉えるからそうなわけで、酒場と思えば別に不満には思わないような気もする、のちに考えているうちにそんなふうにも思えてきた。バーでは、ピーナッツ一袋に800円を払うことだってザラにある。外で酒を飲む習慣が無い身としてはすこし割高に感じてしまい、たとえば同じお金で、行きつけの蕎麦屋のしっかりとしたプロの料理を食べられることを思うと複雑な気持ちにはなったが、それでもこの店が人気を集めていて、見ている限りでも1日で10万円以上をゆうに売りあげているのは間違いなかった。
 
 パフォーマンスの内容は、はっきり言って幼稚なものだった。ジェスチャーだけでも伝わるようなわかりやすくて下品な下ネタと、怪奇な動作や叫びや歌で構成されていて、中学生くらいの精神年齢の童心に帰って楽しむことができれば楽しいかもしれない。食卓を囲む場なので、下ネタはトイレ関係のもはなく、性にまつわるものに限定され、しかし、ことによってはハラスメント寸前の、なんでもかんでもセックスに絡めてしまうようなものだった。個人的には、ファニーなものよりも、インタレスティングなもののほうが心から面白いと思うし、より高揚できるたちなので、くだんのパフォーマンスでも、一応は笑えたが、どちらかというと苦笑いと感心に近いような笑いだった。しかし、友人に誘われなかったら自ら来ることは絶対になかっただろうし、結果、こうしていろいろと考察することになっているので、そういう意味では本当に貴重な機会ではあった。ただ、食事の途中くらいまでは、純粋な楽しさよりも、疑念のほうが強かった。この内容でこの値段? 叫んで騒ぐだけ? こんなの誰でも出来るじゃん? そんなような気持ちになってしまい、来たことを後悔しこそはしないものの、素直に楽しいとは思えないでいた。だが、途中から、視察、体験、そういうふうに思うようにしたら、なんだか妙に腑に落ちたような気がした。どんなパフォーマンスであれ、どんな料理と価格であれ、間違いなくビジネス的には成功していて、来客数も多い。本当のところはどうなのかという実情を知る術もないし、別に聞いてもいないのでわからないが、外国人の客も多いし、新橋のビルの地下にある店でふつうの居酒屋を経営するよりも、ビジネス的には成功しているのではないだろうかと感じた。マスターと帰り際に少し話すなかで、べつに狙ってやっているわけでもないし、ネタもワンパターンだし、結果としてこうなったけどほんとうに成り行きでこうなったなぁ、というような話を聞いた。飲食店のあり方に正解はないし、何が良くて何が悪い、何が優れていて何が劣っている、そういうものではないから、この店の在り方について、特段何か主張があるわけではないが、いろいろと考えるいいきっかけになった店だった。
 
 ところで、狂気についても考えたので、そのことも付記しておきたい。飲食店の在り方に狂気に近いパフォーマンスを持ち込むことで人気を博している店、について、ここまでの文では記したわけだが、そのパフォーマンスの狂気は、真なる狂気かといえば、そうではないと思った。これは一般論だが、ひとは、狂気のようなもの、を誰しもが自分の中のどこかに持ち備えていて、ふとした折にそれが露呈してしまったり、ないしは、なんらかの形でそれを開放することがある種のカタルシスとなったりする。マスターのパフォーマンスに、心からの関心を持てなかったのは、おそらくそれが、その類の真なる狂気によるものではなく、擬似的な狂気と、誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、によって構成されていたからなのかもしれないという気がした。誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、というのは、読んで字の如くだが、差別化したり独自性を創出したりする手法として、イージーではあるが時として強いし、誰にでもできるかもしれない、とは言ったものの、実際には誰もやらない以上、真なる意味で誰にでもできるとは言えなかったりもする。飲食店で、奇声をあげて下ネタを叫ぶ、謎のパフォーマンスを展開して素朴で伝統的な家庭料理を出すのは、ある意味ではそれそのものが狂気とも言えるが、パフォーマンスそのものは、やはり擬似的な狂気だと思った。わたしは、他者のうちに秘められた狂気に関心があるが、擬似的なそれにはあまり関心が持てない。それ故に、どこか冷ややかな気持ちでマスターのパフォーマンスを受け止めざるを得なかったような気がする。真なる狂気は、まっとうな社会性からの逸脱と紙一重の際どいところにあるヒリヒリとした危うさがあるから美しいわけであり、演出としての狂気は、仮に「その演出を展開することそのもの」が狂気に類するも際どいものであったとしても、演出そのものにはどうにも魅力を感じえなかった。
 
 いろいろと考えたが、しかし、この店の独自のパフォーマンスが、付加価値としての価値を発揮しているのは間違いなかった。単純に提供される料理と価格のバランスで言えば、例えば冒頭の中華料理屋のほうが、パフォーマンス居酒屋よりも明らかにバランスがよく、納得感のあるものだった。支払う価格、つまり、店の利益率としては、後者のほうが良いわけで、付加価値の創出度合いとしては、パフォーマンス居酒屋のほうが優れているとも言える。もっとも、付加価値にはそもそもいろいろな形態があるし、どのような付加価値が最も望ましいのかはわたしにはわからない。擬似的な狂気と、誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、によって付加価値を創出することが、個人的には魅力的には思えなかったが、それでも、どんな形であれ、事実として、価値としての付加価値を強烈に創出しているのは否めないし、その店を、素直にすごいとは思った。食そのもの、それを取り巻く文化、そして差別化や独自性の獲得に有益に働き、商業的な成功に結びつく、付加価値の創造。切り口がいろいろと多いのでここですべてを語り尽くすことはできないが、このパフォーマンス居酒屋での食事は、思っている以上に、得るものないしはそのきっかけが多く、ひとりあたりの料金で3400円だったので、料理への価格としてはそれなりに払ったとは思ったが、いまとなっては、それでも十分に元は取れたのかもしれないような気がしている。