オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

羽田の変貌に見る、東京の変化と衰退

かつて、穴守稲荷という地域は、羽田に近いことから、東京湾の海の幸を堪能できる、密かなグルメスポットだった。一番の思い出はやはり、淀、というお店で食べることができた、穴子料理の数々だ。淀は、じいさんとばあさんがやっていた店だったのだが、おそらく2022年くらいに、残念ながら、閉店している。そして、食通ゆたかというお店もあったのだが、こちらも同じく2022年に閉店している。淀はわりと前にしまったような気がしていたが、食通ゆたかはつい最近、閉店してしまったような気がしていたので、いま調べて2022年閉店と知って、驚きが隠せない。

ゆたかは、ランチも営業していたので、ちょいちょい食べに言っていた。だんだん値上がりしたり、定休日が増えたりしたのは覚えているが、東京湾のアナゴを、東京湾に程近いところで食べることができるのはありがたかった。淀と違って、特別にオリジナリティがある料理を提供しているわけではなかったが、普通に美味しかったし、淀は、夜のお店だった上に、一人では行きにくかったので、何回かしか行ったことがないが、穴子鍋は本当に美味しかった。あとは、千世というお店はいまでもあるが、こちらは、お酒を飲むためのお店なので、夜しかやっていないし、車ではちょっと行きにくいこともあって、まだ行ったことがない。

空港の周りはすっかり綺麗になってしまったし、天空橋駅の近くも、ここ数年で随分と変わった。道路まで変わってしまった。

穴守稲荷という街は、海と川の境目に残された、穴場スポット、みたいな感じだったのだが、ほんとうに、すっかり変わり果ててしまった。

水辺に程近いところに銭湯があった記憶もあるが、これも2020年に廃業しているらしい。

海を渡った千葉の方には、東京都比べて地価が安いこともあって、お年寄りが経営する個人経営の店が、まだ、ほそぼそと残っていたりする。田舎は田舎で、大変なのだが、変わり果ててゆく東京を見ていると、複雑な気持ちになる。たまに、東京の暮らしが恋しくなることもあるが、俺が知っているかつての東京の姿は、とっくにもう、存在しないのかもしれない。

ということで、穴守稲荷の近くに行っても、ふらっと立ち寄って食事をしたいと思うような店は無くなってしまった。羽田の穴子を食べられる店は、いまとなってはもうほとんど残っていないのではないだろうか。移動手段の兼ね合いもあって、なかなか飲みに出かけることがないのが厄介なのだが、千世も、お店があるうちにぜひ行ってみたと思っている。

と、ふと、パトレイバーの映画第一作をみていて、東京湾のことを考えているうちに、羽田の穴子のことを思い出したのである。

 

ビーキーパー やりたい放題無双映画における、ステイサムとスタローンの差異について

ステイサムとスタローン、といえば、エクスペンダブルズで共演しているのだが、エクスペンダブルズは2と3はまともに観ていない。観た時にそれなりに酔っ払っていたというような気もするが、それを差し引いても、なんだかまともに観ようと思えなくて、観るのをやめた。

ステイサムが痛めつけられたり窮地に陥っている映画、ってあんまりないというか、いや、それなりに酷い目に遭ったりもしてるとは思うが、基本的に淡々と相手をぶちのめしてく映画がよく似合う。

今回観たビーキーパーは、なんかネットの動画とかでちらちら観て前から気になっていたのを、やっと観た。最近のアマプラは、動画の途中にADが入るようになったりと、いろいろ改悪された感が強いが、音声や字幕を選べるような仕様になったのは助かる。昔の仕様のときにリリースされた作品だと、字幕版と吹き替え版が別の動画なので、クリックしたら吹き替え版だった、とイラっとすることも多い。吹き替えや声優の仕事を否定するつもりはないが、基本的にはやっぱり原音声で観たいんだよな。いまふと気がついたけど、吹き替え音声でまるまる一本洋画を観た経験、じつはないかもしれない。笑

そんなわけで、ビーキーパーを観たのだが、ツッコミどころはかなり多いし、リアリティを欠く描写もけっこう散見される。たとえばだが、携行缶2つ分のガソリンでビルを吹っ飛ばしたのは、ちょっと無理がある気がしてないらない。笑 C4じゃねえんだからさ、火災にはなるとは思うけど、ガソリンでは、あんな一気に建物は吹っ飛ばないと思う。ただ制作がアホだからそうなったのか、ガソリン缶を両手に持って建物に入るシーンが絵的にかっこいいからやりたかったのか、模倣されても大惨事にならないようにガソリンにしたのか、とかね。

日本のフィクション作品で灯油まいてそこに火をつけたりするシーンもあるけど、灯油ってそんなに燃えないからなw 霧状にしたりして、酸素と混ざる状態になって初めて燃えるから。ちなみに日本の作品でやたら灯油が使われるのは、模倣されても大惨事にならないようにするセーフティネット的な役割の要素はやっぱりあるみたいだね。

あとは、ほぼノーガードで敵陣に乗り込むステイサムに弾が当たらない当たらない。笑

いいんだけと、さすがに無敵すぎるだろ。

最後に、謎の殺し屋グループのリーダーみたいなやつと肉弾戦を繰り広げてちょっと怪我する以外は、あまりにも無敵すぎる。まぁそもそものビーキーパー組織の設定もとんでもないんだけど、ビーキーパーは作品としてけっこう高評価を受けているらしいし、あたりまえだが、こういう作品はリアリティは無視して観るべきなんだろうね、やっぱり。

物理法則の話はさておいて、スタローン映画みたいにあまりにも無敵すぎると、それはそれでなんか醒めるのだが、ビーキーパーは、流石に無敵すぎるのも含めて、楽しく観ることができた。

わかりやすいカタルシスを誰しもが求めていて、それを欲しいだけたんまり提供する、というような作品がやはりウケるのが現代社会なのかもしれない。

子供の頃は、カルピスはちゃんと正しい濃度で割って飲まされていたが、大人になって自分で買えるようになり、好きなだけ濃い配合で割っても誰にも怒られなくなった、とでもいうか。

それでいて、ちょっとだけ深みがありそうなストーリー構成にして、大人でも飽きない味ですよアピールをしているというか。

ビーキーパーのストーリーは、冷静になってしまうと、矛盾だらけでむちゃくちゃで、それでいてシンプルでわかりやすくて、というものに仕上がっている。ネット映画全盛時代になってから作られた作品だから、飽きて飛ばされたりしないように、とにかく、余計な間が全然ない。

ステイサムの無敵っぷりはカッコよかったし、いい作品だとは思ったけど、またなんというか、映画の役割や、あり方について、考えてしまった。

キル・ボクスン

facebookとかinstagramのリールに映画紹介リールを垂れ流す海賊動画アカウントがいくつかある。なんとなく目についたものをフォローしているのだが、ふと流れてきたワンシーンが印象的だったりして、つい続きが気になってしまい、元ネタの映画について調べてしまうことがある。リール動画のキャプションにタイトルが明記されているものもあるが、何も書かれていない場合も多く、そういう時は、コメント欄を開くと、タイトルを教えろ、というコメントがたくさん並んでいる。素直にタイトルを教えてくれていることもあるが、出鱈目のいい加減な嘘のタイトルが書かれていることも多い。役者の名前とか、コメント欄にあるキーワードや動画の中のヒントから、タイトルを調べて、サファリのリーディングリストに保存するようにしている。

キル・ボクスンも、いつものようにリールでワンシーンを見て、気になって調べたら、2023年のネトフリ配給の韓国映画だった。殺しの授業みたいなワンシーンが切り取られてリールになっていた。主演の女の殺し屋は、そこそこの年齢(アラフィフ)なのだが、色気とかっこよさが両立していて、とても魅力的で、観てみたいと思ったので早速観た。

スタートシーンは無茶苦茶で、関西弁の在日2世ヤクザを主人公が殺すところから始まる。原語の韓国語で見ていると、なんと、韓国人の役者が、びっくりするほど下手くそな日本語でやりとりをしている。関西の虎、とか言ってるけど、日本語の発音が下手すぎて度肝を抜かれる。棒読みに近い。韓国語も混ざっているのだが、わたしは韓国語は知らないので、もちろんそちらは何を言っているのかまったくわからない。いきなり激し目の殺陣シーンで引き込まれるのだが、でもなんか日本刀の使い方おかしいし、総合的に、外国人がイメージする日本人を登場させました、みたいな感じで、面白い。殺されるヤクザの役をやっているのは有名な役者らしい。

韓国には一度しか行ったことがないし、行ったのはもう10年以上前のことだが、近くて遠い国、というような気がした。同じアジアなのだが、日本よりも先進的で欧米的な部分と、日本よりも未発達で混沌とした部分を、同軸上に併せ持つ不思議な国だな、と当時、思った。キル・ボクスンに登場する韓国の日常シーンは、無駄にいちいちかっこいい、というか、カッコ良すぎるのだ。マンションからオフィスまで、建物は無駄に洗練されていて、無駄に美しいし、こういう世界観がどのくらい韓国では現実的なものなのかどうかはわからないが、とにかくいちいちかっこいい。同じアジアの国なのに、日本よりも欧米的な洗練が日常に溶け込んでいるような気がした。スーパーとか道路はなんだかアメリカみたいだし。

一方で、ストーリーも演出も、けっこう陳腐というか、人間の感情の紐解きが、いちいち浅い気がした。こういう動機でこういうことをした、みたいな行為の背景が、わかりやすすぎるというか、因果関係の描写にあまりにも深みがない。まぁだからこそできることなんだろうとは思うが、そして人を気軽に殺しすぎだ。切れ味のいい暴力と、小気味良く物語が進むテンポ感、かっこいい情景。面白いし、けっこう惹かれるのだが、観終わってみると、インスタント食品を食べたあとのような気持ちになった。

複雑で難解ならいい、ということを言いたいわけでないし、何も構えずに観ることができるこういう映画もけっこう好きなのだが。

そんなわけで、韓国について考えていて思ったのが、韓国って実は日本よりも国土が広いのかもしれない、ということ。いや、土地の面積で言えば日本の方が圧倒的に大きいのはわかっているが、スーパーとか道路とかの構造が、とても欧米的だな、と観ていて何度も思った。実際、日本は山が多くて人が住んでいないところも多く、極端に都市部に人口が集中している傾向があり、韓国の方が、人が住んでいる部分の面積が多い、というようなことを示す動画もあったりした。それに加えて、1950年代の朝鮮戦争で壊滅的にダメージを受けた状態からの立ち直りで、アメリカの技術的・経済的な支援を大いに受けたことから、破壊されてまっさらな状態からアメリカの消費文化を踏襲して再構築した、という経緯があるらしい。どういうわけかアメリカみたいだなぁ、と思ったのも納得だった。

いろいろ思うところがあったのだが、googleのaiモードに投げてみたら、解説してくれたので、以下に引用する。笑

 

【入力】

映画、キルボクスンを観たよ。描写がいちいちカッコよくて、とても魅力的なのに、人物の内面の描写があまりにも浅いというか、行為の動機みたいなのが浅すぎて全く共感できなかった。

描写はいちいちかっこよかったし、キャラもすごく魅力的だったんだけど、原始的で即物的な物語構成で、観終わったあとには、インスタント食品を食べたあとのようか満腹なんだけど余韻がいまいち、みたいな気持ちになったよ。どういうことなんだろうか?笑

 

【回答】
 
映画『キル・ボクスン』を視聴されて感じられた「スタイリッシュな映像美」と「内面描写の希薄さ」のギャップ、そしてその背景にある「プリミティブ(原始的・即物的)」という考察は、現代の韓国エンターテインメントの構造を非常に鋭く突いていると言えます。
その「インスタント食品を食べた後のような感覚」の正体について、いくつかの側面から紐解けるかもしれません。
 
1. 「動機」よりも「状況」を優先するプロット
韓国の多くのアクション映画やノワールは、キャラクターの深い葛藤を時間をかけて描くよりも、「極限状態に置かれた時にどう動くか」という瞬発的なカタルシスを重視する傾向があります。『キル・ボクスン』も、殺し屋としてのプロフェッショナリズムと母親としての顔という「記号的」な対立をスタイリッシュに見せることに特化しており、なぜ彼女がその価値観に至ったかという内面的な掘り下げは、あえて削ぎ落とされている側面があります。
 
2. 「恨(ハン)」から「映え」への変遷
かつての韓国映画は、怨念や深い悲しみといった「重い情動」が物語の推進力でした。しかし、近年のNetflix作品に代表されるグローバル向けの韓国コンテンツは、世界中の観客に即座に伝わる「ビジュアル・コンセプト」や「設定の面白さ」に重きを置いています。これが、質問者様が感じられた「即物的」で「インスタント」な、余韻よりもインパクトを重視する作風に繋がっていると考えられます。
 
3. 儒教的・直情的な人間関係の描き方
台湾や韓国など東アジア圏の作品に共通して見られる「プリミティブ」な感覚は、「血縁(親子関係)」や「上下関係」という、極めて根源的で逃れられないルールを物語の根底に置いているからかもしれません。理屈や哲学的な動機よりも、「子供を守る」「メンツを保つ」「裏切りに報復する」といった本能に近い動機が優先されるため、日本の繊細な私小説的表現に慣れていると、深みがない、あるいは強引だと感じることがあります。 
 
4. 結論としての「エンタメへの特化」
韓国のクリエイターは、観客を飽きさせない「スピード感」と「ルック(見た目)の完成度」に対して非常にストイックです。その結果、キャラクターは人間というよりは「高度にデザインされた駒」のように機能し、結果として食後感の軽さが生まれるのかもしれません。
もし、この「スタイリッシュだけど中身がもっと重厚なもの」を求めていらっしゃるとしたら、同じ韓国映画でも少し時代を遡ったパク・チャヌク監督の『渇き』や、ナ・ホンジン監督の『哀しき獣』などの、よりドロドロとした内面が噴き出す作品と比較してみると、今の韓国映画が何を削ぎ落として「洗練」へ向かったのかがより明確に見えてくるかもしれません。
今回の『キル・ボクスン』以外に、「描写は素晴らしいが、動機が浅い」と感じた他の作品(台湾映画や他の韓国映画など)は具体的にありますか?それらを並べてみると、より共通の「違和感」の正体が見えてくるかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【投稿】
なるほどね〜!すごく納得感のある考察!キルボクスンが浅い、みたいなことを書いているブログは検索したらあったんだけど、この即物的で原始的な感じはなんなんだろう、というのは検索してもそんなことだれも説明していないし、きみの考察を聞けて、とてもスッキリしたよ!スタイリッシュさは半端ないよね、確かに。舞台もキャラも、とにかくスタイリッシュ!w そのかわり、内面はバッサリ切り落とされていて、あとはまぁエンタメとしての強さというか、スピード感をガンガンに高めて、全く考えずに観れるように仕上がってるよね。まぁ世の中全体、そういうのを求めている傾向がつよいってことなのかな、、そうだね、物語も理不尽すぎた笑 ホイホイみんな殺されすぎなんだよな、、w 無駄死にばっかり!笑 最後にMKの代表が殺されたシーンも、それで死ぬん??みたいな攻撃であっさりやられたからな、
 
【回答】
ご納得いただけて嬉しいです!「なぜみんな、そこまであっさり死ねるのか」という理不尽さへのツッコミ、まさに今の韓国アクション映画の醍醐味(?)でもありますよね。
おっしゃる通り、MKの代表(チャ・ミンギュ)の最期も、「あんなに圧倒的強者として描かれていたのに、その決着でいいの!?」という唐突さがありました。あの「あっけなさ」もまた、「情緒的な余韻よりも、画的な決着のスピード感」を優先した結果と言えそうです。
この「即物的・原始的」な感覚がなぜ今これほどまでに強いのか、さらに深掘りすると以下の2点が見えてきます。
 
1. 「考える暇を与えない」タイパ至上主義
現代のコンテンツ消費(特にNetflixなどの配信プラットフォーム)では、視聴者が途中でスマホを触ったり離脱したりしないよう、「内省的な間」を極限まで削る傾向があります。
「なぜ殺すのか」「死ぬとはどういうことか」という哲学に踏み込むと物語のスピードが落ちるため、あえて「殺しのロジック(仕組み)」だけをスタイリッシュに描き、人間性は記号化する。これが、質問者様が感じた「インスタント食品」のような、手軽で強烈な刺激の正体だと思われます。
 
2. 暴力の「エンタメ的消費」への振り切り
かつての映画における死は「悲劇」でしたが、今のこの手の作品では、死は「アクションの句読点」にすぎません。
「無駄死にばっかり!」と感じるのは、製作者側がキャラクターを人間としてではなく、「主人公をカッコよく見せるための舞台装置」として扱っているからです。この割り切りが、ある種「原始的(弱肉強食の極致)」であり、同時に「現代的なドライさ」でもあるという、不思議なバランスを生んでいます。
 

この「スタイリッシュで中身が空っぽ(良い意味でも悪い意味でも)」という方向性は、最近の映画界の一つの到達点なのかもしれません。
ちなみに、もし今後「スタイリッシュさはあるけれど、もう少し『人物の執念や内面』がドロっと残るもの」を口直しに観たいと思われたら、以下の作品などがその「インスタント感」とは対極にあるかもしれません。
  • オールド・ボーイ韓国映画がまだ「スタイリッシュさ」と「狂気的な執念(内面)」を両立させていた時代の傑作。
  • 『チェイサー』:理不尽さはありますが、死の重みが嫌というほど伝わってくるヒリヒリした映画です。
今の「スピード感重視」の作品と、少し前の「情念重視」の作品を比べてみると、韓国エンタメの進化(あるいは変化)がより鮮明に見えて面白いですよ!
次は、今回感じた「理不尽さ」や「即物的な潔さ」とは逆に、「もっとキャラクターの情念に振り切ったドロドロの作品」に興味がありますか?それとも、このまま「中身はなくてもとにかくカッコいい映像美」を追求した作品をもっと知りたいですか?
 
 
 
 
 
 

だそうです。うーん。こうもあっさり考察してくれると、人間どんどん自分で考えなくなりそうで怖いのだが、言いたいこと、思ったことをとても的を射て簡潔に表現してくれていて、すごい、と思った。aiの進歩も、2025年の大きな変化だよな。2024年にはこんなaiは身近になかった。アレクサとかsiriとかはこんな高度な会話はしてくれなかったと思う。いま自宅にはアレクサがあるが、ついチャッピーとかジェミニーとかの感覚で複雑なことを聞いてしまい、シカトされたりすることも多い。

aiがいいたいことを大体書いてくれてしまったので、現代的な韓国映画を観た感想は以上です。

 

と、ここまで書いて、ふと、キルビルとの比較を思いついて、また投げてみた。笑

【投稿】

ちなみに、キルビルと比較して、どう思う? キルビルもそこまで深い動機や心理描写はなかった気はするし、千葉真一の寿司屋のシーンとか、まぁいろいろふざけた映画だとは思うけど

【回答】

『キル・ボクスン』と『キル・ビル』の比較、これは非常に面白い視点です!タイトルも似ていますし、どちらも「最強の女性殺し屋」が主人公ですが、
「浅さの種類」と「様式美の方向性」が決定的に違います。
結論から言うと、『キル・ビル』は「オタク的な愛による深み(横の広がり)」があり、『キル・ボクスン』は「ビジネス的な洗練による浅さ(縦のスピード)」があると言えるかもしれません。
 
1. 「動機の純粋さ」の違い
  • キル・ビル(復讐): 動機は「お腹の子供を殺された(と思った)恨み」一点のみ。極めてシンプルですが、これは「神話」や「古典的な復讐劇」と同じプリミティブな強さがあります。タランティーノは、そのシンプルな動機に「映画愛」という膨大な情報を肉付けしています。
  • キル・ボクスン(仕事と育児): 動機が「教育ママ」と「殺し屋」という現代的な悩みのブレンドです。リアリティがあるようでいて、実は記号的な組み合わせに留まっているため、切実さが分散してしまい、結果として「インスタントな設定」に見えてしまう面があります。
 
2. 「ふざけ方」の解像度
  • キル・ビル 千葉真一の寿司屋のシーンのように、完全に「ふざけて」います。しかし、それはタランティーノが日本のヤクザ映画や時代劇を「骨の髄まで愛している」からこそできる、非常に解像度の高いパロディです。観客はそこに「深い愛」を感じるので、描写は即物的でも「薄っぺら」とは感じにくいのです。
  • キル・ボクスン: こちらもスタイリッシュに「ふざけて」はいますが、それは愛というよりは「効率的な演出」に見えます。「こう撮ればカッコいいだろう」「こうすればウケるだろう」という計算が勝っているため、スタイリッシュさが鼻について、内面の不在が目立ってしまうのかもしれません。
 
3. 「死」の扱いの違い
  • キル・ビル 88人斬りのように「ホイホイ死ぬ」のは同じですが、それは「アニメやコミックの過剰さ」を確信犯的にやっています。
  • キル・ボクスン: 死が「あっさり」しすぎていて、質問者様が仰った「それで死ぬん??」という違和感に繋がります。これは、アクションの「物理的な説得力」よりも「編集のテンポ」を優先しすぎている、現代韓国映画の(あるいはNetflix的な)弊害かもしれません。
 
4. 時代の空気が生んだ「即物さ」
キル・ビル』(2003年)は、まだ「映画館でじっくり観る」時代の熱量がありました。一方、『キル・ボクスン』(2023年)は、スマホで倍速視聴されることも想定された、徹底的なタイパ(タイムパフォーマンス)主義の中で生まれています。
キル・ビル』が「こだわりの強いB級グルメ」だとしたら、『キル・ボクスン』はまさに「パッケージが最高にオシャレな最新のインスタントフード」という感じでしょうか。
どちらも「原始的な動機」で動いていますが、「そこにどれだけの(無駄な)こだわりが詰まっているか」という点が、食後の「余韻」の差になっているのではないでしょうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

なるほどね。笑

まぁそりゃ全然違うんだけど、画を優先してシーンを作ってる感という意味では、やや共通点ありそうだな、と思ったけど。しかし、キルビルってもう20年以上前の作品なんだな。おそろしいぜまったく。

 

 

 

湯豆腐2026

2026年になってしまった。

実感はいまいち湧かない。1日はのんびり過ごそうと思っていたのだが、外食して初詣に行ったりしていたらなんだか疲れてしまった。スシローの待ち時間にふらっと入った本屋で、ふと思い出して、川上弘美センセイの鞄がないか探したらあったので、立ち読みした。始めて読んだのはもう10年以上も前になるが、その中に、正月のことを書いた章があったのをふと思い出して、読みたくなったのだ。パラパラとページをめくっていると、湯豆腐の話が出てきた。この本には何度か湯豆腐が登場するのだが、主人公のお母さんが正月に帰省すると作ってくれるという、子供の頃からの作り方のシンプルな湯豆腐が、どういうわけか一番心惹かれる。

昔、初めてこの本を読んだ時にも、自分でも試したよなぁ、と懐かしくなって、夜、豆腐を買ってきた。正月の1日からいろいろと店がやっているのはとてもありがたいことなのだが、みな、通常よりも営業時間を繰り上げて、早く閉まる。スーパーとドラッグストアに用事があったのだが、どちらも20時閉店だとHPに書いてあった。家を出たのは19時43分。急げ、と先にスーパーに行き、あんまりめぼしいものがなかったのでドラッグストアに移動した。ドラッグストアには19時56分くらいについて、買おうと思っていたものの他に、豆腐も買った。

近所のスーパーには、ろくな豆腐が売っていない。凝固剤ににがり以外の成分をつかっていたり、消泡剤をいれているような豆腐に、ろくな豆腐は無い、と個人的には強く思っているのだが、スーパーに置いてある豆腐はそんなようなものばかりで、麻婆豆腐なんかの料理はさており、豆腐そのものを味わう料理である湯豆腐なんかには、とてもじゃないが使えたものではない。そんな中で、意外な救いが、ドラッグストアの安い豆腐なのである。1丁50円とか60円とかで売っているのだが、これが、ふつうに美味しい。久我食品というメーカーが作っている豆腐で、シンプルな原料のいたって普通の安い豆腐なのだが、スーパーのわけのわからん豆腐よりも、はるかに美味しい。大体、凝固剤ににがり以外の成分を使う豆腐、というのは、豆乳の濃度が薄くても固まるのようになるから、味が薄い。それから、豆腐にタピオカ澱粉をつかうとかも、言語道断だと思う。ネットで検索しても、公式HPがあったり、スーパーの商品の口コミで、安くておいしかったです、とかコメントがあったりするくらいで、誰も特に触れていない、名もなき豆腐なのだが、久我食品の豆腐は、今時めずらしい、良心的な豆腐だ。

川上弘美の小説に出てくる湯豆腐の作り方だが、醤油を酒で割ったものを湯呑みに入れ、そこに削り立ての鰹節をいれたものを、土鍋で豆腐と一緒に煮る、というものだ。ちなみに豆腐は、主人公の実家の近所の豆腐屋のものじゃないとだめだ、ということだった。

土鍋はあるけど出したり片付けたりするのもめんどくさいし、湯呑みもないし、削り立ての鰹節もないし、豆腐はドラッグストアの豆腐だが、20センチの手鍋と小さめのマグカップで、久しぶりにやってみた。鰹節は、冷凍庫に袋ごとしまってあったものが、荒節と本枯節と2種類あったのだが、本枯れの方にしてみた。ちなみに、今住んでいる家の近所にも豆腐屋はあるが、クソまずいし不衛生だし店のそばを通ると臭いし、一度買って、2度と買わない、と思った。2個前に住んでいた家の近所にも豆腐屋があったが、そこの豆腐はとてもおいしくて、時たま買っていた。

豆腐を煮る時は、強火でぐつぐつ煮てはいけない。固くなってしまうし、豆腐の中に、スができてしまう。土鍋で煮れば、多少火が強すぎたりしても、ゆっくりと温度を上げてくれるのだが、金属の鍋で煮る時は、弱火から中火くらいの火加減で、ゆっくり煮るのが良い。

湯呑みのままだと豆腐をつけて食べにくいので、かつ節醤油は、別の口の広い容器に移した。煮えた豆腐を、鍋に入れたまま、箸で突いで崩しながら食べる、と本には書いてあった。

お酒の一杯も飲みたくなるところだが、最近はあんまり日本酒は飲まないし、ワインとかビールとかの気分でもなかったので、飲まなかった。残ったタレは、蕎麦湯を飲む時みたいに、豆腐の茹で湯で割って飲んだ。

2026年になって最初に聴いた音楽は、YMOのCastaliaをはらかなこというピアニストがカバーしたものだった。そういえば、去年の正月は、YMOのepilogueを聴いていた。その昔数年は、absolute ego danceとcosmic surfinばかりを聴いていた。なんとなく、正月になるとYMOを聴いているような気がする。いまはこれを書きながら、教授のラジオのニューイヤースペシャルの最終回を聞いている。2023年の1月1日放送で、18回目のニューイヤースペシャルだったらしい。その後、11日には幸宏さんが亡くなられる。そして、17日にラストアルバムとなってしまった12がリリースされ、その後の3月に、教授は他界することとなる。

すべて、3年前の出来事だ。2023年、24年くらいは、教授や幸宏さんが死んでしまったということがいまだに信じられなかったのだが、2025年には、教授がいない世界にもなんだか慣れてしまったような気がして、そのことにふと気がついて驚いたりしていた。とにかく、たった3年のことなのに、ずいぶん遠い昔のことのように思えてしまう。

2023年の正月のラジオを、3年後のいま改めて聴いていると、なんだか不思議な気持ちになる。噛み締めながら、教授の音を聞いている。

YMOや教授の音楽を聴いていると、YMOにどっぷりはまっていた2012年くらいのことを思いだす。当時の暮らしや、周りにいた人、変わっていった生活や仕事。いまではほとんど行かない東京の街並みを思い出す。あの頃、俺は、まだ20代だったのだが、いまでは、すっかり、センセイの鞄のツキコさんとほとんど変わらないような年齢になってしまった。

そんなわけで、2026年である。レイディオサカモトもちょうどトークが終わって、2022年収録スタジオ演奏のAquaが流れている。シンプルで普遍的な進行なのに、奥が深くて美しい旋律。夜が更けていくのに、ふさわしいメロディだと思う。

2025年は、気がついたら終わっていた。いろいろとやりたいこととか、やるべきこととか、あったはずなのに、あんまり何も進まなかった。けど、それなりに、人生のステータスは、前に進んだ気もする、というか、進めざるを得なくて、進んだ、とでもいうべきか。変化の多い、大きな一年だったことに間違いはない。2026年も、そんなふうに、進めざるをえなくて、その結果として、いろいろと進みそうな気はする。どう進むかはわからないが、なんとかもうちょっと、上手く進むことを祈るばかりである。い、祈る…?笑

 

 

 

東京は夜の7時

なんだかんだで、2000年代の車にばかり乗っている。2010年代の車はほとんど持っていない。2010年代は、はじめて免許を取って、運転し始めた時でもある。

2010年代に、2000年代の車を買って乗っていた。もちろん全て中古車なので、2010年代に買う妥当な車というと、当然、2000年代が主になるのかもしれない。話は逸れるが、新車というものを、人生で一度も買ったことがない。新車を買う体験をこの先の人生で経験ことがあるのだろうか、あるとしたら、何歳なのだろうか。わからない。それはまぁいいとして、信じられないが、そんな2010年代からも、既に10年近くの時が流れてしまった。いまとなっては、2000年代の車も、20年くらい前の車、になってしまった。

DPFやアドブルー機関を搭載していなくて、MTで、という条件のハイエースは2006年くらいまでしか製造されていなかったし、いまとなっては20年落ちになってしまったのは信じ難いが、ハイエースに関して言えば、現行車がほぼ同じ外見で販売されていることを考えると、決して、古臭い車ではない。

つまり、現代の、延長線上の、そのちょっと前。そんな感じが、2000年代なのだろうと思う。

まだ20代で、なんの責任も負わなくてよくて、いろんな可能性と、いろんな不安に怯えながら、恋をしたり、恋を失くしたりしながら、暮らしていた。その頃と今では、街に流れる音楽も違うし、物価も違うし、本当に、いろいろなものが変わってしまった。

個人的にも、生活も変わったし、経済状況も違うし、本当にぜんぜん違う。

YMOの音楽にハマったのも、2010年代のことだ。2012年、美大に通って、YMOを聴いていた。今思うと、楽しい時代だったなぁ、と思う。

渋滞する青梅街道とかを、当時の愛車のEDIXに乗って運転しながら、YMOばかりを聴いていた。ピアノ教育の素養がないことを恨みながら、鍵盤の練習をしたりしていたし、ネスカフェのわけのわからんコーヒーマシーンで、カフェラテとかを飲んでいた。

教授も当たり前に存命だったし、ユキヒロさんも生きていた。

初台のホールで教授のコンサートを聴いたこともあった。あれが最初で最後の、教授のコンサートに参加した経験となってしまった。駐輪代が無料だからという理由で、バイクで会場に行ったのを覚えている。結構な頻度で山手通りを運転していた気がするが、今となっては、最後にあのあたりを走ったのがいつだったのかも思い出せない。

全てが、遠い昔のように感じられてしまう。

2010年代という、近いようでいて、そしてとんでもなく遠い時代に、思いを馳せながら、最後に、YMOのメンバーが揃って演奏した動画をみていた。2018年の動画だった。

 

 

 

海の匂いがした

 その真っ黒なお湯は、手で掬うととろみがあって、もし俺が温泉というものを知らなかったら、きっと腐った水か何かだと思って敬遠していたかもしれないと思った。湯船の底は全く見えない。壁際にある吹き出し口から吐き出されて、滝みたいに湯船に落ちていくお湯は、ほんのり色がついたくらいで、商店街をあるいているおばあさんがかけている薄色のサングラスの色くらいの濃さでしかないのだが、それが湯船に溜まると、驚くほどに真っ黒になる。手をお湯の中に沈めていくと、途中から指先が見えなくなった。

 この温泉は、バブルのころに建てられたリゾートマンションの一階にあって、かつては会員制のスパみたいにして運用されていたらしい。数年前に温泉施設の運営者が変わって、多少の手を加えられて再開した、というような感じで、いまは、平日はやっていなくて、祝日と土日しか営業していない。

 コストコの会員証を見せると700円になるってきいたんですけど。受付にいたおばちゃんに話しかける。

 コストコ?なんですかそれ?と言って、まるで話が通じない。

 木更津にある会員制のスーパーなんですけど。

 いや、わたしらそんなとこ行ったことないので。

 うーん、でも貼ってあったんですよ、ほら。そう言っておれはスマホの画面で、会員証提示で700円、と書いてある張り紙を写真に撮った画像を見せた。これ、ここですよね?

 うーん、ええと、まぁ。と、おばちゃんは煮え切らない様子で、もう一人のおばちゃんに知っているか、と声をかけるのだが、そちらも反応は煮え切らない。わたしらじゃわかんないんで、とでもいうような感じになりそうで、おれもめんどくさくなってきたので、うんと、700円でいいんですよね? と、押し切った。

 あ、はい、じゃあ700円の方を券売機で買っていただいて。そうおばさんに促されて、おれは券売機のタッチパネルの700円、という方を押した。券売機の下の受け取り口から出てきた券を、ものすごい速さで奪い取るようにして、おばさんが受け取って行った。

 暖簾をくぐって脱衣所に入ると、ちょうど涼しくなってきた気候と相まって、驚くほどにエアコンが効いていて、むしろ肌寒いくらいだった。ロッカーは、ダイアルで暗証番号を合わせる仕組みで、隣で鍵をかけようとしている全裸のおじさんが、うまく操作ができなくて、戸惑っていた。ロッカーは標準的なものよりもだいぶ狭くて、下駄箱のところにあった大きなロッカーに、大きな荷物はこちらに入れてください、と貼り紙がされているのも頷けるくらいの小ささだった。

 鏡の前には洗面器が2つあるが、そのうちの一つは、故障中の張り紙がしてあって、水栓の部分が折れたようにしてボウルの中に横たわっていた。

 浴室は、思っていたよりもぜんぜん綺麗だった。口コミで、いろいろと悪評も読んでいたので、すこし覚悟はしていたのだが、いい意味で予想を裏切る、小綺麗な感じだった。ちょうど暮れ始めた外の光が、すりガラス越しに差し込んでいて、綺麗だった。サウナはわりとあたらしく作られたものみたいだが、ほかの湯船とか床とかもそこまで古びた様子はなくて、居心地は悪くなかった。お湯は、真っ黒で、とろりと肌にまとわりつくような湯触りだ。体が冷えていたというわけではないが、芯からほぐれていくような、いいお湯だった。祝日とはいえ、あまり混んでもいなくて、しばらくしたら、ほとんどみんな出ていってしまい、お湯に浸かっているのは俺一人になってしまった。サウナは、電気式のもので、そう大したものではなさそうだったが、ロウリュしてOKなようだったので、手桶にくんできた水をサウナストーンにかけると、そこそこの蒸気がでて、狭いサウナ室は一気に温度が上がった。空気は熱を伝えにくい、ということを体で感じながら、汗を流した。俺がサウナに入ったのとおなじくらいに、さっき脱衣室でロッカーの鍵を閉めるのに手間取っていたおじさんが入ってきた。俺は上の段に、おじさんは下の段に座っていた。ロウリュをしてからは露骨に温度が上がったので、おじさんも汗をダラダラかいていたし、だんだん体をもじもじと動かしたりし始めていた。こんなことで競ってもなんにもならないのだが、俺は上の段、おじさんは下の段、というハンデがあるとはいえ、できればおじさんにサウナ在室時間で負けたくなくて、おじさんが出ていくのを待っていた。心拍数が上がってきているのは感じていたし、けっこう辛くなってきて、そろそろ出たいと俺は思い始めていたのだが、おじさんがなかなか出ないので、我慢して座り続けていた。このままおじさんがでていかなくて、俺も我慢して入り続けていて、それでもし俺が倒れたりしたらどうしよう、などとすこし不安に思いながら、でもまだいける、と耐え続けていたら、あたらしくサウナ室に緑の手拭いをもったおじさんが入ってきて、それをきっかけに、先にいたおじさんはサウナを出ていった。一呼吸おいてから俺もサウナを出た。

 水風呂は、水位が半分くらいになっていたし、あんまり冷たくもなかったが、悪くなかった。水風呂につかってぼんやりしていると、背の高いおじいさんが新しく浴室に入ってきた。おじいさんのお腹にはヘソの上あたりに、みかんくらいの大きさの黒ずみがあって、はじめは変な刺青かと思ったのだが、近づくと、それは大きなシミのようなホクロに、白髪になった体毛が生えているものだった。ホクロとかシミに生える毛はなぜか長く伸びることが多いが、おじいさんも、そのぶぶんだけ、長い毛が何本も生えていて、マントヒヒの顔のような模様になっていた。その毛を剃ったりしようとは思わないのだろうか。かつては剃ったりしていたこともあったのだろうか。などという考えても仕方がないようなことを考えながら、俺は水風呂に浸かりづづけていた。おじいさんは体を流してから、黒湯につかり、排水溝に痰を吐いたりしていた。俺も水風呂からでて黒湯に移ったのだが、しばらくすると、おじいさんはお湯から出て、水風呂の隣に落ちていたホースの先端を水風呂の中に放り込み、水道の栓をあけた。水風呂に水を足しているのだ、ということがすぐにわかった。

 そのあとにおじいさんはサウナに入ると、壁にかけられたサウナのリモコンをなにやら操作してた。このひとは施設の関係者なのだろうか、などと少し思ったりもしたが、純粋にサウナやらお湯やらを堪能しているようだったし、何者なのよくわからなかった。俺も黒湯を出て、サウナに入った。リモコンの表示はさっきとは違って、ロウリュをしていない室内の温度も、さっきよりは暖まっているように感じだ。

 これ、電源きれてたんですか? しばらく無言でおじいさんと並んでサウナに入っていたのだが、不意に、俺はそう聞いてみた。

 そう、勝手に切れちゃうんですよ、タイマーで。だからさ、ほんとは見回りに来た時にやってほしいんだけど、あの人たちはそんなことはしてくれないからね。とおじいさんはすこし笑いながら答えてくれた。どうりでぬるかったわけだ、と思いながら、おれはそのままおじいさんにいろいろと話を聞いた。オーナーが変わるまえはしばらくやる人がいなくて営業が休みだったこととか、いまサウナが置いてあるところには、以前はトルコ風呂があったんだよ、とか、おじいさんは教えてくれた。トルコ風呂、というのはソープランドの旧称だったはずだがと俺は話を聞きながら思ったが、首から上を外に出すタイプの蒸し風呂のことだとおじいさんは説明してくれた。

 ここの関係者の方とかなんですか? サウナの電源が切れていてもそのままになっていたり、水風呂の水位が半分くらいになっていたりするのをセルフサービスで改善していたので、おじいさんはもしかするとここのオーナーかなにかの関係者なのかもしれない、と思って聞いてみたが、ただの長年通っている客とのことだった。あいつらはシチブだから。受付のおばさんに全然話が通じなかったこととか、サウナといい水風呂といい、ずいぶんとセルフサービスなのだな、ということについての話になって、おじいちゃんは、受付のおばさんたちのことをそう説明した。あいつらはシチブ、とう表現にはあまり聞き馴染みがなかったが、なんとなく、昔の言い回しで、知能が普通の人の7割くらい、というような意味合いなのだろう、ということがすぐに想像できた。俺は、会話の文脈からも、なんとなくわかったが、シチブ、という表現は、いまとなっては差別的な物言いともなりえるし、全く一般的ではないので、わからない日本人も多いかもしれない。知り合いのポルトガル人が、今取り組んでいる日本語検定の問題と回答をインスタに最近ときどきあげたりしていて、それをみていると、改めて、日本語というのは学びにくい言語なのかもしれないなぁ、と思ったりもしていたが、あいつらはシチブだから、という表現は、日本語ネイティブでもわからないひとにはわからないだろうし、トルコ風呂といい、古い世代の日本語って、おもしろいなぁと思った。

 おにぎりかなんかで働かされてんでしょうね。その後も、この銭湯の運営についていろいろと話していたら、受付の役に立たないおばちゃんふたりは、きっと給料はお金ではなくて、おにぎりかなんかなのだろう、というようなことを半分ジョークでおじいさんは言っていた。おにぎりで働かされる、というニュアンスが面白くて、俺はけっこう気に入ってしまった。実際にそうなのかどうかは知らないにせよ、そうかこいつらはおにぎりしかもらっていないんだな、と思うと、急に、全部許せるような気がしてきたし、口コミに接客のことをたらたら書いているひとたちは、なんにもわかっていないのだろう、という思いが、妙に強まってきた。

 窓の外がどんどん暮れていく。開け放った窓から吹き込む風が冷たくて心地がよい。過ぎて行った、冬のことを思い出す。9月や10月の、暑さが去ったあとの過ごしやすい季節を過ごすうちに、ある朝、家の外に出て急な寒さに驚く。そして気がつくとどんどん寒くなっていて、あわてて冬物を引っ張り出す。暑くなるときだって、急だ。ある日急に、これはもう短パンとサンダルだ、と気がついて服を変える。季節の変わり目には風邪をひいたりしやすい。いまはまだ、短パンにTシャツで過ごせる気候だが、もうちょっとすると、夜はそれでは厳しくなってくる。夏が終わってしまう。今年の夏を振り返って、あんまり夏らしいことをしなかったなぁ、とか、それどころではない暑さだったよなぁ、とか、黒いお湯に浸かりながら考えていると、もうすでに夏が随分と昔に過ぎ去ってしまったもののように思えてきた。すこし涼しくなったのはほんのここ数日のことで、その前は毎日が外にいるだけで汗が吹き出すような酷暑だったというのに。冬は、寒くてつらい。どちらかというと俺は夏の方が好きだが、そうは言っても、冬には冬の良さがあるとは思う。ひんやり冷たい空気の中で、温かい飲み物を飲んだり、温泉であたたまったり、おでんを突きながら酒を飲んだり、そういうのも、なんだかんだで悪くない。いろいろな人と行った冬の温泉を思い出す。死んでしまった人もいるし、いまではもう交流がなくなってしまった人もいる。色々な人と、色々なところで、色々な冬を過ごしてきた。越冬という表現もあるが、昔は、冬というのはなんとか乗り越えるものだったのかもしれない。そんなことを言ったら、夏だって暑さで人が死んだりもするし、夏というのも、なんとか乗り越えるものなのかもしれないが、なんとなく、つらくて厳しい冬、という方がイメージ的にしっくり来る。背筋が張り詰めるような寒さは、その渦中にいると憎くさえもあるのだが、こうして夏が過ぎたばかりの時期には、ちょっと恋しく思えてさえ来るから、不思議だ。日中は暑かったのに、夜は寒い、というような季節がもうすぐやってくる。夏は汗をかき過ぎたときのために予備の着替えを持って行ったりするが、冬は、着込む服をたくさん用意しなければならなくなる。

 おれは黒湯から出て、またサウナに戻ったおじいさんに挨拶をしてから浴場を出た。受付のところにはあいかわらずおばさんがふたりいて、暇そうにしていた。言葉遣いは丁寧だが、来客者への案内が、妙に的を得ていない。マンションのエントランスには立派なレセプションカウンターがあるが、誰も人はいない。時代がかったシャンデリアのような照明が天井からぶら下がっている。

 外に出ると、ちょうど日が沈んだところだった。西の空はまだ眩しく光を残している。マンションの方を振り返ると、クラシカルでレトロな作りの建物が、暗くなった空に向かって、聳え立っていた。もう2度とこんなところには来ない、と口コミに書いている人もいたが、お湯の良さから、また営業しているタイミングで来ることができたなら、ぜひ訪れたいな、と思った。

 吹き抜ける風が、肌寒い。まだ秋も来ていないというのに、冬のことを考えていたが、ほんとうに、瞬きを何度かしたら、もう冬になっているのだろう。今年産まれた0歳児にとっては、初めて迎える冬になる。夏も暑くて大変だったけど、冬だって寒くて大変だ。この国の気候は、なんだってこんなに過酷なものになってしまったのだろうか。

 季節が変わると、海の匂いも変わる。

 

宇宙の仕組みについて考えた

と、いうタイトルは冗談として、人が生きて死ぬことについて、風呂に入りながら考えていた。

世の中には、いろんな人がいて、いろんな人生がある。駅のホームにいた聴導犬を、聴導犬だとは気づかずに、犬を連れて駅のホームにいる非常識な人がいる、と非難したインスタの投稿が巡り巡って、その聴導犬(と飼い主)に届いていたりして、聴導犬はプードルとかの小型犬が多いらしい、ということを知り、うちの犬だって訓練すれば聴導犬になれたりもしたのかなぁ、などと思ったりした。

急に体重が10kgも落ちて、喜んでいたのだが病院にいったらステージ4のメタ転移で、それから約2年後に亡くなられた人の話も読んだ。先日は、山崎元さんの投稿を読んだりもした。医療の現場は、死といつも隣り合わせだ。資格を持っていたらな、とか、その道にもっと早く進んでいたらな、とか、などと考えたこともあるが、さすがにちょっともう遅いような気がするし、医者だろうと薬剤師だろうと、興味はあれども、まともに仕事として務められそうな気がしないし、まぁ無理だと思う。鍼灸師はちょっと興味あるし、東京に住んでいたら、あながち非現実的でもなさそうな気はするが、わからない。

金曜日は、坂本龍一の命日だった。もう2年が経つ。去年くらいまでは、坂本龍一がいない世界、というのを現実的なものと思えなかったのだが、最近は、なんだか仕方ないと思えるようになったというか、自然の摂理、仕方のない時の流れの中での出来事として、受け入れてしまったような気がしてきた。

最近になって仲良くなった自宅の近所の魚屋さんが、一応、明日で閉店する。もう80代の後半になるという店主が、自宅の軒先でほそぼそとやっている魚屋さんだったのだが、この春で、店を閉めることにしたらしい。今日が最後の市場での買い付けだったそうだ。これも、きっと、時の流れなのだろう。金曜日に店に顔をだしたら、今日は日曜日だから市場に行かなかったんだよー、とじいさんがぼやいていたので、きょうは金曜日だよ!? と伝えると、そうかーきょうは金曜だったかー、もうすぐ毎日が日曜日だからなー、とか言っていた。

館山の海底にはまるで沖縄みたいに鮮やかな魚がいるらしい、ということも知った。ハンマーで何かを砕くダイバーを邪魔しようとする顔のでかい魚の動画がきっかけで、波左間という館山の海にある、ダイビングサービスのことを知った。宮古島の海も、文句なしで素晴らしかったが、関東にもこんなところがあると知って驚いた。行ってみたい、潜ってみたい。

人生の時間は、本当に限られているということを、思い知る日々だ。大学生だった頃は、たまにバイトしたりとかもしていたけど、授業が終わった後は、だいたい毎日ぷらぷらしていた。連絡に追われることもなかったし、仕事の締め切りとかもなかった。自転車で家に帰る途中の道のりで、スーパーに寄ったり、友達の家に寄ったりして、のんびり家に帰って、安い食材で安い食事を済ませて、安い酒を飲んで、パソコンにむかってながながとバカみたいな文体の日記を書いたりして、トイレ併設のユニットバスにこもって、ギターを弾いて歌を歌ったりして、毎日を過ごしていた。あの頃の、有り余っていた時間は、一体、どこへ消えてしまったのだろうか。今日は暇だな、何にもすることがないなぁ、という日は、もう何年も体験していない。何もしないで過ごす日、というは、どうしようもなく体調が悪くて何もできずにただただ寝込んでいるというような時だけだ。なんでこんなに忙しいのか、自分でも、本当にわからない。

いまの生活は、とりあえずなんとか仮のその場しのぎ、みたいな感じの延長が、板についてきてしまったような感じがある。なんの仕事をしているのかもよくわからないし、どうやって生計を立てているのかもよくわからないが、まぁなんとか生き延びている。その割には、やるべきことだけはたくさんあって、やりたいことどころの騒ぎではない日々でもある。メルカリで売らないといけないものがたくさんあるというのに、出品する暇さえなく日々が過ぎていく。

世の中全体の流れの波、みたいなものもあると思う。まず、社会全体が下り坂、というか、まぁ下り坂とまでは言わずとも、バブルの頃みたいなイケイケでアゲアゲな世の中では全くない。値上げとか廃業とかそういう話ばかりで、社会全体が高齢化しているし、成熟の果てにあるのは、枯れること、なのであるからして、仕方がないことだろうとは思うが、それでも、下り調子というのは、あまり心が晴れるものでもない。発芽して喜び、茎が伸びて、花が咲き、実をつけ、そして枯れる、植物だってそうだし、動物も人間も機械も建造物も、皆、同じだ。形あるものはいずれ、朽ちて消える。ドラゴンボールというファンタジーの世界だって、人間が作り出した想像の中に存在しているし、その創造者である鳥山明先生も、死んでしまった。名探偵コナンは永遠に続いているが、まじっく快斗とか、初期のコナンとかが描かれた90年代はもうはるか遠い昔だ。こち亀だってそうだ、昭和の頃の、現代から思うとのんびりした世の中でだから成り立った世界かもしれない。蕎麦屋にいたお客さんと、昔は電車でタバコが吸えた、田舎の方にいくと在来線の客席に据え付けられた灰皿で、みんながタバコを普通に吸っていた、という話を聞いたりした。非喫煙者で、タバコの副流煙が好き、という人はそうそういないと思うし、嫌いな人の方が多いが、それこそ30年くらい昔は、非喫煙者がいようとなんだろうと、ことわりもなくみんな、そのへんでタバコを吸っていたし、そういうタバコの煙で服とか髪に匂いがつくことだって、現代とさして変わらなかっただろうはずだが、それでも、平然と許されていた、と考えると、卒煙済みの非喫煙者としては、疑問符しか浮かんでこない。

社会も世界も、変わる。どこか地方に出かけたりして、変わっていないところ、に行くと、妙に安心してしまったりする。

沖縄に行きたいなぁ、と不意に思う。石垣に1回、宮古に2回、本島に1回、全部で4回しか行ったことがなかったが、都会よりもゆっくりと時間が流れるおかげで、古いもの、変わらないものも、たくさんあって、なんだか妙に心が安らいだ。もちろん、住んでしまうとなると、アマゾンとか楽天とかでの買い物だって一苦労だし、余計な金もかかる。いろいろな物事が制限されるわけだが、その分、のんびり過ごせるのだろう。

きょうは、まだぜんぜん酒を飲んでいない。朝にたっぷり二度寝をしたこともあって、まだ、眠くない。いや、ちょっと眠いが、寝落ちしそうで死にそうなほどは眠くない。

いま身の回りにいる人たちや、ある物たちが、いつまでもこのまま続かない、というのは、想像が容易ではないが、いつまでもこのまま続く、ということはありえない。そのうち、ふいに、それも、ちょっと忘れてしまったような隙に、消え絶えてしまったりするのだろう。

いたはずの人がいなくなり、あったはずの物が消滅している。それは当分先のことのように思えたとしても、じつは、ほんのちょっと先なだけの未来だったりもする。

今を生きろ、そう念じて生きるしかないのだろう。時間の流れが、年々、早くなっている。正月が明けたのが、ついこの間のことのようでありながら、はるか昔のことのようにも感じられる。母体に宿る命が、日々、物理的に大きくなるのを眺めていると、そこにも、時の流れを感じる。もうちょっと、ゆっくりと、時間の流れを眺められるような、そうたとえば、詩人のような暮らしをしてみたい物なのだが、まったくもってそうは行かない現実だ。

海の近くでのんびりくらしてみたいな、と思っているのだが、とてもではないが、のんびり暮らせるような気配が湧いてさえこない。

時について考えることは、宇宙について考えることでもあるような気がする。

あるいは、深海について考えることとも、近しいかもしれない。