オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

2024

 いまだかつて、こんなに気分が晴れない正月はなかったような気がする。正月早々に、大地震があり、空港火災があった、という世情の影響もあるのだが、それがなかったとしても、こんなような感じだったような気もする。なんだか、不完全に燃え尽きたような感じもある。体調を崩しながらもなんとか乗り切った年末が終わって、しかし、それで何かを達成できたというわけでもないので、達成感も満足感もないまま新年を迎えた。美味しいものを食べたいとか、美しいものを見に行きたいとか、そういう気持ちにもあまりならない。欲しいと思うものもそんなにないし、なにかを体験しにいきたいという気持ちもない。

 12月に宮古島に行ったのは楽しかったなー、と思い出すが、あれだって必要に迫られて仕事で行っただけだし、わざわざプライベートですぐに行くかというとなんとも言えない。なにかをしたい、とかそういう気持ちになれないのは、鬱の一種なのだろうか。

 早くも正月3日が終わろうとしている、今日は、食事をしたのと散歩に行ったのと昼寝をしたの以外にはほとんど何もしない1日だった。いい1日だったとは思う。あしたから仕事だ。

 なにかをしたい、という気持ちは、それでもある様な気がする。継続してお金を稼ぎ続けることができることで、嫌ではないこと、を考えなければならない。

 気がついたら今年も終わっているんだろうな。さようなら、2024年。

 

わからない

2023年の23%がもう過ぎたらしい。窓の外から鳥の声が聞こえる。遮光カーテンがかかっているので外の明るさはよくわからないが、時刻はもうすぐ5時半になろうとしていて、おそらく、外はもう明るくなっているのだろう。

何にモヤモヤしているのかはよくわからないが、自分の在り方、いまの選択、そういういろいろなものに違和感と疑問があって、なんだか釈然としない。

他人との関わり合いが嫌なのだろうか。たしかに、幸か不幸か、十年前とかにくらべたら責任もある立場にいるし、暇を持て余したりすることも、ほとんどない。たとえば結婚したら落ち着くのだろうかとか、もっとちゃんと納得のいく仕事が見つかれば幸せになれるのだろうか、とか。いろいろ考えたりするが、半端に自己実現しているいまの現実をぽいっと捨てることもできないし、なにかほどよい転機でも訪れないかなぁ、などと明後日の方向を見つめて、思ってしまったりする。

 明け方の住宅街を、むかしはよく歩いた。午前4時とか5時とかの、まだ街が寝静まっている頃に、酔ったまま白み始めた空の下を歩いたりしていた。誰かと住んでいたりもしなかったし、金もなかったが、迫り来る仕事もなかった。夜明けのホープ軒は、いまでも思い出してしまう。昔を懐かしんでいまを憂いても仕方がないし、何にもならないが、かつて暮らしていた、東京のど真ん中の都市の、明け方の姿を脳裏に思い浮かべてしまう。

 どこに、落ち着くべきなんだろうか。何が、自分にとって正しいのだろうか。

 

 うーん、わからない。

 

3月3日

 ひさしぶりにつらつらと文章などをしたためようと思い、このブログを開いてみたところ、今年の1月に書いた記事があって愕然とした。書いたことを全く覚えていないのである。1月に書いたブログでも、なんだか彷徨っていたが、その様相はあまり変わっていない。そこそこ忙しかった2月が終わり、3月はやや落ち着いている。とはいえ、やることやタスクは山積みで、何も終わっていないに等しいのだが、なんでこんなにも時間が足りないのだろうか。

 都会に行ったり、田舎に戻ったりしながら暮らしていると、都市についていろいろ考えたりする。田舎は、良い。道も空いているし、どこに行っても、全てが、広い。東京での狭ぜましさからは考えられないくらいには、快適に過ごせるようにできている。このくらいが、人間にとっては最低限に必要なスペース感なのではないか、などと考えてしまう。しかし、都会に戻ると、それはそれで、納得してしまったりする。何もかもが狭いし、人も多いが、そこには、やはり、洗練がある。そして、何よりも、そこには、都市、がある。

 ふと気付いたのだが、想像と現実の乖離に悩んでいるのかもしれない。たとえば昔の歌とか小説とか映画とかで描かれているような世界が、目の前の現実には存在していない、そのことに戸惑っているのかもしれない。たとえば、雪降る旅館に泊まって、、みたいな様子を歌の歌詞などに影響されて想像するとする。しかし、いざそれを現実に体験してみると、たらふく食べて満腹で苦しくて寝る、だけだったりする。時間の概念の話も大きいかもしれない。歌や物語の世界では、ある意味で、時間が止まっている。瞬間を切り取っている、というその在り方の特色とも言えるかもしれないが、瞬間が、永遠になり得るのだ。誰も死なないし、誰も歳老いたりしない世界なのだ。しかし、現実はそうもいかない。時間は過ぎるし、歳も取る。祖父母が死に、両親が老人になっていく。宿に泊まっている一晩はあっという間に終わってしまうし、目が覚めて朝風呂なんぞに行っているとあっという間にチェックアウトの時間が迫ってくる。

 憧れであり、理想論でしかないが、なかなか暮れない夕暮れとか、なかなか来ない朝とか、そういうものに、いいなぁ、と思ってしまう。

 さっき、ふと思い出して、南こうせつの房総西線という曲を聴いた。喜多条忠が作詞している。しみる歌詞だった。現実世界ではできない、瞬間を永遠にすること。歌詞ではそれができる。小説でも漫画でもそうだ。

 瞬間を永遠に。なにかのヒントになりそうな気がしてきた。と、酔っ払いながらこれを書いているのだが。

 

 

さ、まよい

 2022年はあっという間に終わり、2023年になっていた。息を吐く暇もないくらいのスケジュールから解放されると、ふと、心の置きどころがよくわからなくなるような気がしてくる。

 自分が何をしているのか、なにをするべきなのか、そんなのずっと迷い続けてきたような気がするが、いま、一段と迷っている。5周年記念おめでとうございます、というメールがタンブラー届いているのをさっきたまたまメールボックスを開いたら見かけた。タンブラーを開設したのは、食に関する仕事を事業として本格化させたことがきっかけだった。その後、ケータリングを本格化させていくことになるのだが、そのくらいの頃から、5年が経った、ということになる。やはり、一番大きなターニングポイントは、なんだかんだ言って27歳の時に店を始めたことだとは思う。その前も今も、やっていることの本質は変わらないのだが、ひとつの大きな区切りであったとは思う。雑誌の編集者とかカメラマンとか病院の事務とかを完全に辞めて、店を作ったのが2015年。それから1年ちょっとで店を辞め、その1年後くらいから料理を仕事にするようになった。それからちょうど5年が経って、いまだに、自分のあるべき姿がわからないでいる。そんなものは昔も今もわからなかったし、これからもわからないのかもしれないが、されとて、同世代の知人たちが、人により歩みは違えども、確実に皆、キャリアを築いて行っているであろう様をSNSなどで横目にすると、複雑な気持ちになる。

 自由である、ただそれだけが取り柄だったはずなのに、いまでは差し迫る日々の業務に押され、そんなゆとりすらも無くなってしまった。それでふと束の間の余裕ができたりすると、こうして、やりどころのない思いに苛まれるのである。自分がやりたいこと、やるべきことに向き合っている、ように見えるだけなのかもしれないが、少なくとも、俺よりはそうだろう、と思うような人のほうが多い。極論を言えば、やるべきことがある人なんて、誰もいない。みんな、用事があって生きているだけだ。とはいえしかし、自分の専門性を決めて、その道を進んでいる人であるように他人のことが思えてしまうことが多い。そういう意味では、俺は、人よりも専門性の高い分野が多いとは思う。いろいろなことに手を出してきたし、いろいろな職能を身につけては来た。専門性の高い機材や資材もいろいろと集めてきた。対応できる振り幅の広さには自信はあるのだが、しかし、そのどれを取っても、最高位の専門性、とは言い難いと思っている。半端な専門家を上回る自信はあるが、どの分野にしても、トップクラスとは言えないと思う。収支的にはなんとかやっていけているし、20代の頃にくらべたら、お金に困ることも随分と減った。だが、正直、この先が見えない。結婚していて守るべき家庭があるわけでもないし、具体的な目標像があるわけでもない。なんとなくの先行きはそりゃあ見えてはいるとはいえ、その先は、というと全く見えていないに等しい。

 あとはもう一つ、やはり、年齢のことも大きい。著名人と自分を比べることからしておこがましいとは思うが、たとえば先日亡くなった、高橋幸宏さんが俺と同じ年齢だったことにしていたであろうことを考えると、俺は何もしていないに等しい。20代の頃は、まだ駆け出し、という人も多いし、なかなか努力が実らずにもがいていた著名人だって多いとは思うが、しかし、30代も半ばになると、そうも言っていられなくなってくるのである。要は、燻っている、ということなのかもしれない。自分のポテンシャルを発揮することができると、より人生の充実感を得やすくなるのではないかと思うのだが、もっともっと、もっともっともっと、ポテンシャルを発揮したいのかもしれない。とは思うものの、そもそもそんなポテンシャルが自分にあるのかどうかもわからないし、俺にできることが世の中に求められていないのかもしれない可能性だってある。嗜好が多様化し、評価の対象が分散した結果、大きく飛び出た才能というものが世の中から減ったような気がする。昔みたいに、飛び出て目立つ人、というのが減ったような気がする。かといって、いまの俺は、何もしていないに等しい。何も成し遂げていないし、やりたいこともやるべきことも、あんまりできていない。

 自分の好きなものを仕事にできている、という人のことをうらやましく思ったりもする。でも、好きの度合いは客観視することができないし、お前には好きなものはないのか、と言われるとそれはそれでよくわからない。それなりに好きなことをしている、という自覚はもちろんあるし、そういう意味ではそう悪く無い日々を送れているとは思うのだが、しかし、これが俺だ、と言えるようなものは、いまだに手に入れていない。

 と、こんなことを書いたことで何になるわけではないのだが、ふと、立ち止まったので、書いてみた。本質的な悩みはこの10年くらいの間、なんら変わっていないような気もするがよくも悪くも、少しずつ、いろいろと変わったり、変わらざるを得なくなったりしてはいる。2023年も1/24が過ぎてしまったが、良い一年になるといいな、と思いながら筆を置きます。

 

きのうボスコさんに習った鶏肉の調理技法

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武蔵小山で、南フランスの家庭料理を食べさせるフレンチ・ビストロを営むシェフ、ボスコさん。

料理や美味しいものへの興味がある人にはとても優しくて、聞けばいくらでも調理の秘密を教えてくれる。やや立ち入った細かいところまで質問しても、惜しげもなく全て教えてくれる。

野菜の扱い方はかなりたくさん教わった。ニンジンの完璧な火入れの仕方なんかは、特に目から鱗だった。

ランチは本格料理がお手頃価格で食べられて、とてもお得なのだが、最近はなかなかタイミングが合わなくて行けていなかった。

きのうはふとタイミングが合って、営業日の前日深夜にfacebookにいつも投稿されるメニューを確認すると、鳥とほうれん草のピーナッツシチュー、というメニューが気になったのでお店に向かった。

 

夏季は前菜としてサラダが出る。オリジナルの自家製ドレッシングは相変わらずバランスが良い。酸味と香りとまろやかさが絶妙にバランスが取れた仕上がりで、素直に美味しい。

 

サラダを食べながらやや待つうちに、メインディッシュが登場した。

シチューには骨つき肉が丸ごと一本入っている。付け合わせのにんじんとズッキーニも美しい。まずは野菜をナイフで切り分け、ソースをつけて食べてみる。完璧な火入れだ。野菜の食感や旨味や香りを完璧に引き出す、素晴らしい仕上がりだった。シチューソースは、鶏の旨味にピーナッツのコクでほどよくクリーミーなのだが、ギトギトしたしつこさは全くない。あたりまえだが鶏は別で火入れしているはずだが、鶏の旨味や香りもしっかりとソースに活きている。肉をナイフで切ると、思っていたよりも硬く、ハッキリとした弾力があった。

噛み締めると濃い旨味が滲み出て、日頃食べているチキンとはなんだか違う感じがした。食べながら、ふたつの仮説を立てた。親鶏を使っているか、あらかじめオーブンで焼いてあるか、おそらくそのどちらかだろうと思ったのだが、食後に聞いてみたらどちらもハズレだった。若鶏を蒸している、が正解だった。たしかに親鶏のようなはごたえと旨味だったのだが、答えを聞くと、親鶏の硬さとはやや違った気もしてきた。蒸すことで、旨味を閉じ込め、しっかりと火が入るので煮崩れなくなくなるのだという。

ここで、いつもながら、ためになるちょっとしたメソッドを教えてくれたのだが、蒸すときは、肉の下にクッキングシートを引いて、滲み出る脂と出汁をそこに貯めておくのだという。火入れは沸騰してから鶏を並べ入れて、蒸して28分。鶏を取り除いたあとに、シートの上に残った汁は、ビニール袋に入れる。そして、氷水に袋ごと漬ける。なるほど! 鶏の脂はチャーハンなどには良いこともあるが、基本的に、そのまま入れてしまうとギトギトにってしまうので取り除きたい。しかし、コラーゲン質を含む出汁はしっかりと使いたい。ボウルにそのまま入れておいておいても、なかなか脂が固まらないのですぐに取り分けることができない。袋に詰めて氷水につけることで、一気に急冷することができて、冷えて固まった脂も簡単に分離できる。考えたら思いつきそうなものだな、意外に思いつかないテクを教えてもらえて、嬉しかった。

 

という話を、備忘録を兼ねて書き記しておきたかった。

歳を重ねて、味のはっきりとした洋食に食指が動きにくくなり、ついつい寿司とか蕎麦とかのさっぱりとしたものを好むようになりがちなのだが、ときたま、美味しい洋食を食べたいという思いがふと強烈に湧き上がる。そんなときにぜひ行きたくなる魅力的な料理をボスコさんは作っている。

フレンチの一種ではあるが、南仏の家庭料理なので、バターや生クリームを、いわゆるフレンチのようにガンガン使ったりはしない油分が控えめで胃もたれしにくい。

 

デザートはバナナのクッキーを注文した。食後に出てくるランチにセットのコーヒーと楽しもうとおもったら、アンズのコンポートを上にのせて出してくれた。さっぱり酸っぱいアンズはとても美味しかった。クッキーそのものは、あまり食べたことのない感じで、食感はややスコーンとかに近い感じだったが、油っぽくなくて、サクサクしてて、ほのかに後味にバナナがいる、甘さ控えめの感じで、こちらもとても美味しかった。