オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

食と文化の関係性、真なる狂気と疑似的な狂気、価値としての付加価値の在り方

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 窓の外に広がる喧騒を少しだけ遠くに聞きながら、ほんのり表面がベトつくテーブルトップに肘をついて料理を待つ。化学調味料を使っていない中華料理、という条件でネットで探して出てきた店の中から、カジュアルなランチにふさわしい価格帯の店ということで選んだ店だった。入り口のドアをくぐり2名だと伝えると、1階は満席だからとすぐに2階に案内された。ランチメニューは通常ランチとセットランチがあり、通常ランチの平均単価は700円、セットランチは980円均一で、セットランチはぱっと見からしてお得感がある、ラーメンと半チャーハン、点心3品にサラダとザーサイ、スープと杏仁豆腐、というような盛りだくさんの構成だった。お店のHPには化学調味料不使用などとは一言も書いていなかったが、家庭の味に近い優しい味だというレビューがネットには多く、無化調だと断言しているレビューもあった。中華街・無化調、などで検索するとすぐに店名が出てくるような店で、混んでないわりに老舗だし味も美味しい、というような評価が多く、とりあえずは入ってみたいと思って入ることにした。2階の席は客もまばらで、吹き抜ける少し乾いた秋の風や、少しだけ遠い中華街の喧騒の雰囲気が、なんだか海外でふらっと入った中華料理屋、みたいな気分にさせるような気がした。海外、それはニューヨークでもパリでもどこでもよいのだが、なんとなくスノッブな雰囲気の街並みの中の、その中でも少しだけ下世話な感じの店、そんなニュアンスの海外を思わせる店だった。ランチタイムのピークは過ぎていたが、席についた後も客足は絶えず、それなりの賑わいが続いていた。おかみさんはHPにあった写真よりも疲れて見えたというか、なんだかやれた感じで、バタバタとせわしなく1階と2階を階段を駆け登って行き来して、注文を聞いたり、エレベーターから出てくる料理を客に出したりしていた。手が足りないのか、注文した料理が出始めてもお茶とかお冷とかが出てこなくて、まさかだが飲み物は有料なのだろうかなどと思案していたが、そのうちに大きなピッチャーからどぼどぼと注がれた烏龍茶のグラスが2つ、テーブルに並べられた。注文したのはネギラーメンのセットと、ふわふわ海老卵のセットで、半チャーハンとかふわふわ海老卵とかも、そのうちに次いでどんどんテーブルに並べられていった。ふわふわ海老卵はほんとうにフワフワで、火入れはもちろんのこと、片栗粉とか油とかの加減によるものなんだろうが、家庭ではおいおい再現できないだろうという、プロの味だった。ちなみに結論からいうと、その店は完全な無化調ではなかったが、前述のとおりだが、べつにそんなことはどこにもかかれていなかったのでまぁ構わないし、味は普通に美味しくて、量もたっぷり出し、価格のことも考えると満足度は結構高かった。おかみさんに聞いたわけではないのであくまでも推測に過ぎないが、調理の過程で粉末のピュアな化学調味料を使ってはいないが、基礎調味料や食材などは化学調味料を含むものも使っている、というような感じだろうと、食べてみてわたしは思った。粉末の化学調味料をドバドバ入れている店のような旨みのきつい味もしないし、完全無化調のいまいちな店にありがちな塩気強めの味でもなく、一般的な家庭でも出てきそうな感じのマイルドな味だった。化学調味料はその特性から、口当たりをまろやかにする働きもあり、この店の料理に含まれる程度の量の化学調味料ならば、ストイックな完全無化調の店よりも、むしろ美味しいと感じる場合も多いかもしれないと思った。
 
 外食における価値評価というのは、様々な要素をその基準に含むが故に、時として難しくもある。料理の味がよいだけでは人気店になれない、というようなことをよく言ったりもするが、味は大したことないのに口コミが口コミを呼び人気が出ることもあるし、そもそもその大したことない味だとたとえばわたしが思うような味が、世間では客の心底からの高評価を得ていたりもする。食、というものは不思議なもので、空腹を満たすという、食本来の役割以外にもいくつもの役割があり、それ故にその満足度を測る尺度が一つではなく、なにをもって満たされるのかは、人によっても、状況によっても変わる。個人的な話で恐縮だが、冒頭に記した中華料理店での話からもわかるように、わたしは味覚至上主義のようなところがあり、何を食べても、どこで食べても、よほどのことが無い限り、ほとんどいつだって常に、食べているものを分析するように味わい、至高の美味しさを探し、究極の味覚を求めている、というような節がある。人気だからとか、雰囲気がいいから、というような理由で外食することは皆無に近いし、たとえ付き合いであろうとも、行く価値の無いと思う店には極力行きたくはないと思っている。ここで言うところの、行く価値がないと思う店というものの判別ラインは、わたしの場合はおそらく世の中の多くの人よりも基準が厳しく、ただ空腹を満たすだけの店、つまり、どこで食べても同じような大したことのない味、とかそういうものを、行きたいと思う店からすべて除外してしまう。つまり、撮影の仕事の合間にすばやく空腹を満たさなければならないどうしようもない時とか、そういうときでも無い限り、わたしはファミレスとかチェーンの店とかろくでもなさそうな個人店とかには、まずもって行かない。もちろん、チェーンやファーストフードにも、空腹を満たす以外の理由で行きたいと思う店、つまり、美味しいと思うから食べに行く店も存在する。だが、基本的にはそうではない店のほうが多いから、日常的にコンビニで食べ物を買うこともないし、食事を目的にファミレスのような店に行くこともない。
 
 そんな感じのスタイルの食生活で暮らす中で、新橋にある、とある居酒屋に行く機会があった。そもそもわたしは、居酒屋、というものにも殆ど行かない。大して食事が美味しくないことが多いとか、服や髪につくタバコの匂いが嫌だとか、うるさい空間が嫌だとか、外で酒を飲むと割高になるとか、運転して帰ることができないから面倒だとか、そんなような理由で、ここ数年で指折り数える程度しか居酒屋のような店には行ったことがない。なにが言いたいのかというと、食への向き合い方とか、暮らしのスタイルとかが、わたしの場合のそれがおよそ一般的なものとは言い難いということを言いたいわけで、それがこの話の前提となるということを理解してもらいたいのだが、つまり、食べ物そのものへの評価が、わたしのなかでの飲食店の評価とは殆どイコールである、ということだ。もちろん、雰囲気とか接客とかを完全に無視しているわけではないし、例えばどんなに味が美味しくても度を逸して無愛想な店にはまた行きたいとはあまり思わないが、それでも、雰囲気は抜群にいいが味はたいしたことがない、というような店よりも、雰囲気は良くないが味は抜群は抜群、みたいな店に行きたいと思うし、前者のような店には本当に興味を持てない。今回訪れたその新橋の店は、独自のパフォーマンスが話題を呼び、人気を集めているという店だった。具体的には、マスターの繰り広げる意味不明でカオスな動作や歌や叫び、謎の寸劇や奇異なオーダー方式があきらかに特異で、類を見たことがないスタイルの店だったのだが、解釈や評価が難しい店だと食事をしながら思った。例によって車で来ていて、アルコールは注文しなかったので、シラフのまま料理を突いた。ドリンクは1杯500円のウーロン茶をオーダーした。飲み屋だから仕方がないが、先の中華料理屋で無料で2〜3杯飲んだのとほとんどなにも変わらないウーロン茶だ。料理は、1000円、2500円、3000円、というように価格帯のみが指定されていて、全員で同じものを頼まなければならないので、2500円のコースを注文することとなった。何が出てくるかは出てくるまでわからなかったが、しばらく待つと、漬物、切り干し大根、高野豆腐、蒸したさつまいも、サバの味噌煮、チキンの照り焼き、ナスの煮浸し、カレーライス、というようなどこか懐かしい家庭料理が次々に提供された。マスターが担当しているのは注文聞きとドリンクの提供などのパートと、そしてそれにまつわるパフォーマンスが主で、料理はキッチンにいる初老の女性によって淡々と提供された。この女性は、その風貌や年齢から、マスターの母親かとはじめ思ったのだが、あとで調べたらただの従業員とのことだった。価格にして2500円に税金、の料理としては、はっきり言ってかなり物足りない。もちろん、文句や不満をいうレベルではないし、むしろ、味の仕上がりとしては存外にとてもよかった。謎のパフォーマンスの話ばかりを聞いていたからあまり味に期待していなかったということもあったとはいえ、しかし、料理そのものは予想を遥かに上回るクオリティだった。内容は本当にオーソドックスな家庭料理だったが、ポイントをしっかりと抑えた味付けで、濃いわけではないが輪郭のはっきりとした味に仕上がっていて、素直に美味しいと思えた。漬物の薬味の使い方とか、芋の火入れの加減、高野豆腐のシンプルな味付けなど、確かな腕前だと思った。ただ、素材の原価とか内容を想像してしまうと、それから、いかに美味しいとはいえ技術的な面での再現性を考えると、けっして高級な素材ではないし、自宅でも十分に再現できるような味だったことを考えると、正直なところやはり、この価格で? というような気持ちになってしまいそうになる。だが、食堂として捉えるからそうなわけで、酒場と思えば別に不満には思わないような気もする、のちに考えているうちにそんなふうにも思えてきた。バーでは、ピーナッツ一袋に800円を払うことだってザラにある。外で酒を飲む習慣が無い身としてはすこし割高に感じてしまい、たとえば同じお金で、行きつけの蕎麦屋のしっかりとしたプロの料理を食べられることを思うと複雑な気持ちにはなったが、それでもこの店が人気を集めていて、見ている限りでも1日で10万円以上をゆうに売りあげているのは間違いなかった。
 
 パフォーマンスの内容は、はっきり言って幼稚なものだった。ジェスチャーだけでも伝わるようなわかりやすくて下品な下ネタと、怪奇な動作や叫びや歌で構成されていて、中学生くらいの精神年齢の童心に帰って楽しむことができれば楽しいかもしれない。食卓を囲む場なので、下ネタはトイレ関係のもはなく、性にまつわるものに限定され、しかし、ことによってはハラスメント寸前の、なんでもかんでもセックスに絡めてしまうようなものだった。個人的には、ファニーなものよりも、インタレスティングなもののほうが心から面白いと思うし、より高揚できるたちなので、くだんのパフォーマンスでも、一応は笑えたが、どちらかというと苦笑いと感心に近いような笑いだった。しかし、友人に誘われなかったら自ら来ることは絶対になかっただろうし、結果、こうしていろいろと考察することになっているので、そういう意味では本当に貴重な機会ではあった。ただ、食事の途中くらいまでは、純粋な楽しさよりも、疑念のほうが強かった。この内容でこの値段? 叫んで騒ぐだけ? こんなの誰でも出来るじゃん? そんなような気持ちになってしまい、来たことを後悔しこそはしないものの、素直に楽しいとは思えないでいた。だが、途中から、視察、体験、そういうふうに思うようにしたら、なんだか妙に腑に落ちたような気がした。どんなパフォーマンスであれ、どんな料理と価格であれ、間違いなくビジネス的には成功していて、来客数も多い。本当のところはどうなのかという実情を知る術もないし、別に聞いてもいないのでわからないが、外国人の客も多いし、新橋のビルの地下にある店でふつうの居酒屋を経営するよりも、ビジネス的には成功しているのではないだろうかと感じた。マスターと帰り際に少し話すなかで、べつに狙ってやっているわけでもないし、ネタもワンパターンだし、結果としてこうなったけどほんとうに成り行きでこうなったなぁ、というような話を聞いた。飲食店のあり方に正解はないし、何が良くて何が悪い、何が優れていて何が劣っている、そういうものではないから、この店の在り方について、特段何か主張があるわけではないが、いろいろと考えるいいきっかけになった店だった。
 
 ところで、狂気についても考えたので、そのことも付記しておきたい。飲食店の在り方に狂気に近いパフォーマンスを持ち込むことで人気を博している店、について、ここまでの文では記したわけだが、そのパフォーマンスの狂気は、真なる狂気かといえば、そうではないと思った。これは一般論だが、ひとは、狂気のようなもの、を誰しもが自分の中のどこかに持ち備えていて、ふとした折にそれが露呈してしまったり、ないしは、なんらかの形でそれを開放することがある種のカタルシスとなったりする。マスターのパフォーマンスに、心からの関心を持てなかったのは、おそらくそれが、その類の真なる狂気によるものではなく、擬似的な狂気と、誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、によって構成されていたからなのかもしれないという気がした。誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、というのは、読んで字の如くだが、差別化したり独自性を創出したりする手法として、イージーではあるが時として強いし、誰にでもできるかもしれない、とは言ったものの、実際には誰もやらない以上、真なる意味で誰にでもできるとは言えなかったりもする。飲食店で、奇声をあげて下ネタを叫ぶ、謎のパフォーマンスを展開して素朴で伝統的な家庭料理を出すのは、ある意味ではそれそのものが狂気とも言えるが、パフォーマンスそのものは、やはり擬似的な狂気だと思った。わたしは、他者のうちに秘められた狂気に関心があるが、擬似的なそれにはあまり関心が持てない。それ故に、どこか冷ややかな気持ちでマスターのパフォーマンスを受け止めざるを得なかったような気がする。真なる狂気は、まっとうな社会性からの逸脱と紙一重の際どいところにあるヒリヒリとした危うさがあるから美しいわけであり、演出としての狂気は、仮に「その演出を展開することそのもの」が狂気に類するも際どいものであったとしても、演出そのものにはどうにも魅力を感じえなかった。
 
 いろいろと考えたが、しかし、この店の独自のパフォーマンスが、付加価値としての価値を発揮しているのは間違いなかった。単純に提供される料理と価格のバランスで言えば、例えば冒頭の中華料理屋のほうが、パフォーマンス居酒屋よりも明らかにバランスがよく、納得感のあるものだった。支払う価格、つまり、店の利益率としては、後者のほうが良いわけで、付加価値の創出度合いとしては、パフォーマンス居酒屋のほうが優れているとも言える。もっとも、付加価値にはそもそもいろいろな形態があるし、どのような付加価値が最も望ましいのかはわたしにはわからない。擬似的な狂気と、誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、によって付加価値を創出することが、個人的には魅力的には思えなかったが、それでも、どんな形であれ、事実として、価値としての付加価値を強烈に創出しているのは否めないし、その店を、素直にすごいとは思った。食そのもの、それを取り巻く文化、そして差別化や独自性の獲得に有益に働き、商業的な成功に結びつく、付加価値の創造。切り口がいろいろと多いのでここですべてを語り尽くすことはできないが、このパフォーマンス居酒屋での食事は、思っている以上に、得るものないしはそのきっかけが多く、ひとりあたりの料金で3400円だったので、料理への価格としてはそれなりに払ったとは思ったが、いまとなっては、それでも十分に元は取れたのかもしれないような気がしている。
 
 

さらば、古川橋のホープ軒

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 これが最後の1杯なんだな、そう思いながらきのうの夜のオレは券売機に1250円を入れた。ラーメン750円と書かれたボタンを押して、黒い札とお釣りの500円を受け取る。この店に通い始めたての頃は、ラーメンは750円ではなくて700円だった。初めて来たのがいつだったか、記憶に定かではないが、意識してこの店に通うようになったのは2013年の暮れくらいのことで、もう5年も近く前のことだ。明け方まで仕事をしていた夜、ふと思い立って早朝にラーメンを食べに行くことにして、他の店を検討することもなく、どういうわけか、オレは迷わずこの店を選んだ。その頃オレは25歳で、今よりももっともっとお金がなかったし、当時は日常的に外食する習慣がなかったので、ラーメンなら家で作って食べるのが当たり前というような暮らしをしていた。だから、いくら明け方とは言え、わざわざラーメンを外に食べに行くのは、なんだか特別なことだった。今でこそ、腹減ったしラーメンでも食って帰るか、なんて言って外で食べて帰ったりもするが、その頃は、友人と一緒でも外食せずに家に帰るような暮らしをしていたので、そういう意味でいうと、デスクでも吸っていたタバコをわざわざベランダに吸いに行くとか、そんなような行動と同じで、仕事に一区切りつけたいというか、ちょっとリセットしたいような気持ちで食べに行ったような気がする。そういえば、千駄ヶ谷の本店の方にはその前にも何度か行っていたのだが、その日、空が白み始めた明け方にこの古川橋の店のラーメンを食べてみて、千駄ヶ谷とはちょっと味が違って、古川橋のほうがまろやかで奥行きがある気がした。それ以来、オレはちょこちょこ、この古川橋のホープ軒に通うようになった。そんなわけで、友人とラーメンを食べに行ったりはあまりしないような当時のオレだったが、この店にだけは、折に触れて食べに行くようになった。そして、どういうわけか、決まっていつも真夜中に食べに行っていたのだが、いつも同じおじちゃんがいることに、ある時気がついた。単純に、24時間営業していてありがたいというような意味で夜に食べに行っていただけのことが当初は多かったような気もするが、次第に、そのおじちゃんが出勤している、水曜日を除く、22時以降の時間に限って食べに行くようになった。つい最近まで、おじちゃんの名前さえ知らなかったのだが、おじちゃんはワンオペで一晩を乗り切る凄腕の夜専門の店番で、おじちゃんのシフトは水曜日が休日で、それ以外は毎日22時から朝10時までだったのである。おじちゃんは殆ど毎日出勤しているし、ただオーダーに合わせてラーメンを作るだけではなくて、味を左右する仕込み仕事の多くを担っていて、現に常連客には大将とかマスターとか呼ばれていたし、いわゆる店長のようなポジションだったのかもしれないが、そのあたりのことはいまだよくわからない。おじちゃんが店にいる以外のタイミングで食べに行ってしまったこともあるが、いつもと味がぜんぜん違って、それで、そのおじちゃんがいるときにしか食べに行かないようになった。晴海の壁打ちテニスに行くときに立ち寄ったりすることも多かった。悶々と悩み事があるようなときに壁打ちテニスに行くことが多かったので、必然的に、この店に来るのも、なんとなく悩んでいるようなときが多かったかもしれない。なにかを失ったり、なにかを忘れたかったり、なにかを見つけたりしたようなときに、なんとなく、オレは知らず知らずのうちにこの店に足を運んでいた。そんなこの店も、この5年の間に、いろいろなものが変わった。お店に置いてあるテレビは、昔は骨董品みたいなブラウン管テレビに地デジチューナーを接続したものだったのが、いつの間にか無名の海外メーカー製の液晶テレビに変わり、気がついたら世界の亀山モデルに更に変わっていた。店の外の提灯も、昔は調子が悪いことが多く、カチカチと音を立てて電球が破れかけたボロボロ提灯のなかで点滅したりしていたが、いまはピシッと新しいきれいなものに変わっている。カウンターの内側にあるコインカウンターとか、ネギ削りマシンとかは今でも変わらないが、発注を流す電話をするのにおじちゃんがいちいち十円玉を入れて電話をかけていたピンク色の十円電話は、いつの間にかFAX付きの新しいものに変わっていた。通い始めてずいぶん最初の頃のことだったが、スープの入れ替え時間のことをおじちゃんが教えてくれた。だいたい夜の12時くらいにスープが新しいものに入れ替わるらしい。好みには個人差があるが、できたてのスープは、煮込まれた濃いスープよりもまろやかでやわらかくて、優しい味がするんだ、と、おじちゃんはにっこり笑って教えてくれた。入れ放題の薬味のネギも、たっぷり入れてね、と言っていつもラーメンと一緒に必ず出してくれた。ネギの辛さがあまりキツくないので、水に晒したりしているのかと質問したときも、切って冷蔵庫で晒してるだけ、でも、おいしいでしょ、と笑って答えてくれた。ネギの上にちょこっと辛子を振って食べるのが美味しいんだよ、とも教えてくれた。辛子というのは一味唐辛子のことだが、何箇所かある卓上調味料のセットの中にはなくて、辛子が入ったタッパーが一個だけひっそりとカウンターの上に置いてある。通い慣れていないと、その存在にさえ気づかないかもしれない。おじちゃんの食事は、1日1回は店のラーメンも食べるが、あとはサバの缶詰を食べていて、それが健康の秘訣だともいつか教えてくれた。そういえば卓上にある灰皿は、全部、サバの缶詰の空き缶。それから、注文するときは麺は硬めでオーダーするのが基本で、オレはこの店で普通の茹で加減で食べたことがない。食券の札を出すときに、麺カタで、と必ず伝える。もっとも、おじちゃんは顔で覚えていてくれるので、何も言わなくても、お茶を出しながら、麺カタ? と訊いくれるのだが。お茶も、この手のラーメン屋では今どきはセルフサービスのお冷が置かれていることが多いが、この店では、飲み放題のジャスミン茶をおじちゃんがコップに注いで出してくれる。茶葉から鍋でお店で煮出していて、ふっとリラックスできる、香りの良いジャスミン茶だ。この店に通い始めたばかりの頃は別にそうでもなかったのだが、オレは、2015年くらいから、自覚的に、食、というものに興味を持つようになった。自分で飲食店を始めたということも大きいし、その頃くらいから料理の仕方も変わった。いつからか、化学調味料を自分では使わないようになって、それまでは普通に食べていたようなお店を美味しいと思えなくなったりして、それで、味覚も変わった。化調を嫌だと思うようになってからも、別に無化調ではないのはわかっていたが、それでもこの店のラーメンは、美味しく食べることができた。いつか、そのことをおじちゃんに訊いてみたら、醤油タレには化学調味料が入っているが、それ以外は使っていない、つまり、粉末の化調を入れたりはしていないからだと思うよ、と教えてくれた。美味しいとネットで称賛されているラーメン屋に行ってみたら、大さじくらいの白い粉をスープ1杯ごとに入れているのがカウンター越しに見えて、案の定、食べ終わってみたらしばらく経ってもピリピリと舌がしびれる感じが消えなかったりして憤慨したこともあったりと、化学調味料の味にはセンシティブな方なので、おじちゃんのその話を聴いて、なんだか納得した。煮卵は人気でいつもすぐに売り切れてしまい、仕方がないのでゆで卵を頼んだこともあった。ゆで卵はザルとセットで出されて、ラーメンを待ちながら自分で殻を剥くスタイルだ。切れ端が余ってるからとチャーシューを多めに入れてくれたりしたこともあった。麺カタは茹で時間が1分くらい短いので、他の客よりも早く提供されることも多い。麺カタお先に出しますねー、と言っておじちゃんはいつもオレに丼を差し出してくれた。こうして、長々と、ホープ軒古川橋の思い出を書き連ねて来たが、なんの話なのかと言えば、そのおじちゃんが、故郷へ帰ってしまったのだ。2年くらい前から、そろそろ鹿児島に帰ると思う、というようなことをおじちゃんは話していたのだが、今年が明けてしばらくしたくらいの頃にラーメンを食べに行くと、帰るのが今年の8月に決まったと言われた。おじちゃんは故郷の鹿児島に家族がいて、どういう事情かはしらないが、東京に単身、稼ぎに出てきていたらしい。8月なんてまだまだ先のことだと思っていたのに、いつの間に8月になってしまっていた。何も話さないこともあるし、テレビのニュースで流れる話題のことをちょっと話したりとか、おじちゃんはいつも深夜のテレビでスポーツを観ていて、それでテニスのことを話したりしたこともあったが、話したとしてもほんの数分程度だし、ラーメン屋だから、当たり前だがオレはラーメンを食べたら、だらだらと居座らずに帰る。でも、1回1回は、そんなほんの僅かなものであっても、何十回と食べに来ていたら、けっこうおじちゃんといろいろ話していたんだなぁと今になってみると思ったりする。失恋した夜も、いまいち不本意なセックスをしてしまってなんだか落ち込んでいた夜も、いいことがあった夜も、仕事に行き詰まった夜も、そんなことはこれっぽっちもおじちゃんとは話していないけど、ラーメンを食べに行くと、いつもおじちゃんはそこにいた。おじちゃんの勤務最終日に合わせて、きのうはたくさんの常連のひとたち食べに来ていた。みんな、噛みしめるようにして最後の1杯を食べて、最後はおじちゃんと握手を交わして帰っていく。おじちゃんは、この店でラーメンを作って10年になるらしい。あっという間だったよ、とおじちゃんは笑っていたが、こうして集まっている常連のひとたちも、オレと同じように、オレ以上に、この店におじちゃんが作るラーメンを食べに通いつめていたんだなぁと思うと胸が熱くなり、泣きそうになるのを堪えながらオレは麺を啜った。おじちゃんの作るラーメンはいつだって美味しいが、その美味しさの中にも微妙な振れ幅があって、麺の感じとか、スープの仕上がりとかは、日毎に違う。きのう食べたラーメンは、今まで食べた中で最高の一杯、というわけでは決してなかったが、それでも、まろやかでコクのあるスープはいつもどおりに美味しかった。深夜の1時を過ぎていたが、お店には次々に途絶えることなく、定期的に新しく常連とおぼわしき客たちが現れた。食べ終わった常連客たちは名残惜しそうにおじちゃんと別れの言葉と握手を交わして、店を後にしていく。もやしと麺をめくったら煮卵がでてきて、それを見て気がついたらオレは泣いていた。ラーメンを啜りながら、涙が止まらない。今までの人生で、卵を食べて泣いたことなんてなかった。オレは間違いなくラーメンの分の食券しか出していないし、ここのラーメンには標準では卵はついてこない。厨房の奥で次のお客に出す麺の湯切りをしているおじちゃんの後ろ姿が見える。両肩を動かして、左手に持った平ザルの上の麺に右手の箸を添えて、リズムよく湯切りをしている。この平ザルでの湯切りというのは実は熟練の高度な技術が必要なテクニックなのだが、テボと平ザルとでは茹で上がりがずいぶんと変わる。テボというのは丸くて深みのある麺茹で用のザルで、茹で麺鍋の中でほかの麺と混じり合わないというメリットがあり、食堂とかではよく使われている。時間差で麺を入れることもできるから、客をどんどんさばくことができる上、誰にでも扱える便利さもあるが、鍋の中を麺が泳ぐことができないので、麺にぬめりが残りやすく、テボよりも平ザルのほうが茹で上がりが美味しいことが多い。おじちゃんがオレに出してくれたすべてのラーメンは、当たり前だが、毎度毎度、おじちゃんがこうして平ザルで湯切りをしてくれていたのだ。卵をかじりながら、涙が止まらなくて、オレは泣きながらラーメンを啜り続けた。思えば、ラーメンが食べたいというよりも、おじちゃんに会いに来ていたようなもんなのかもしれない、という気さえもしてきた。落ち込んでいても、嬉しくても、そういうアレコレとは全く関係なく、ニュートラルにいつもどおりに、いつもどおりのラーメンを出してくれる。最近仕事どう? とか、ひどいニュースだねぇ、とか、そういうことをおじちゃんが言って、おかげさまでぼちぼち、とか、ほんとにねぇ、とかオレが答えたりするのだが、どんなに常連になっても、ひとりの客とお店の人、というラインを超えない関係を続けられることも実は嬉しかった。この店に行ってオレが頼むのはどうせ頼むのはいつも同じ麺カタなんだけど、ちゃんと毎回、麺カタでいいのかどうかを訊いてくれるし、頑張ってね、とかそういうことも言ってくれるけど、親しくなりすぎずに、踏み込んでこないニュートラルな距離感でいられるのが逆に居心地がよかった。おじちゃんは、余計なことを言わない、のである。もっとも、そういう余計なことには単に興味がないだけだったのかもしれないけど、そうして、深入りしないような話をしたり、しなかったりして、いつだってラーメンを啜りながらオレののこの店での夜は深けていった。なんだか、いろいろと伝えたいことがたくさんあったような気がしたのに、喋りだしたら涙が止まらなくなりそうで、結局、なにも言えなくて、おじちゃんと握手をして、一緒に写真を撮ってもらって、退職祝いと餞別のプレゼントとして持ってきた日本酒を渡して、オレは店を出た。写真は苦手なんだよな〜とか言いながらおじちゃんは一緒に写真に写ってくれた。帰りの車のなかで、しみじみと、もう5年もこの店に来ていたんだなぁとか、おじちゃんが入れてくれた煮玉子を見つけて涙が止まらなくなってしまったこととかを話していたらまた泣けてきてしまった。撮ってもらった写真を見ると、写真は苦手だとか言いながらもちゃんとおじちゃんはいつもみたいにニッコリ笑ってくれていて、また会えるかもしれないし、もう会えないかもしれないけど、最後の日に来れて本当によかったな、と思った。そして今朝起きて、またきのうのことを思い返していたら、でもなんにも伝えられなかったな、と思えてなんとなくこのままではいてもたってもいられなくなって、朝イチで、仕事の前にお店に顔を出した。一晩ラーメンを作り続けたおじちゃんは疲れた表情を浮かべることもなくいつもどおり、厨房にいた。いままでの感謝とか、いつか鹿児島に遊びに行くからねとか、10年間お疲れ様とか、いろいろ伝えたいことを考えてあったはずなのに、馬鹿みたいだけれど、やっぱり結局、オレはまたなんにも言えなかった。元気でね、じゃ、また、みたいなしょうもない短い言葉しかオレは言えなかったのだが、それ以上なにか言ったらまた泣き出してしまいそうな気がした。おじちゃんに手を振って店を出ようとすると、ありがとうございまーす、と、ラーメンを食べてもいないオレを、いつも通りにおじちゃんは見送ってくれた。朝の店内にはタクシーの運転手が2人いて、それぞれ、黙々とラーメンを啜っていた。何も言えなかったし、おじちゃんだって、いつも通りの、何も変わらない言葉しか言わなかった。でも、仕事に向かう道筋で、この5年のことをいろいろ思い出したり考えたりしていたら、なんとなく、これで十分だし、むしろもう十分過ぎたかもしれないな、という気持ちになってきた。人間同士のコミュニケーションは時としてやっかいで、しっかりと言葉にして相手にわかるように伝えないと伝わらないことも多い。でも、時として、はっきり言葉にして伝えなかったとしても、言葉にして伝えた以上のことが、伝わったりすることもあるのかもしれない。言ってしまえば、ただのサービス煮玉子でしかない。そのへんのラーメン屋でも、スマホの画面の公式クーポンを見せるだけで煮玉子をサービスしてくれたりするとこだってあるし、金額にしたら百円でしかない。それでも、その価値以上の何かが、その煮玉子から、そして短い言葉から、最後に店を出たときの笑顔から、ちゃんと伝わってきた気がしたし、なんとなく、オレの伝えたかったことも、しっかりちゃんと伝わったに違いないような気がした。おじちゃんがいなくなってしまったら、もうこの店に通うことはなくなると思うが、二十代の後半を共に過ごした大切な場所として、心の中にはしっかりと残り続けるような気がする。この投稿を書きながらと校正しながらで3回くらいはまた泣いてしまったのだが、そのせいもあってか、ちょっといつもよりエモーショナルすぎる文章になってしまったような気がしてなんだか気恥ずかしいのだが、まぁ仕方がないか。最後に食べたラーメンと、おじちゃんがくれた煮玉子を、オレは忘れないと思う。何食わぬ顔でひょっこり、麺の中に煮玉子が隠してあるなんて、泣くだろ。ずるいよ。そういえば、さいきんは残すようにしていたが、昔はいつもスープを飲み干していた。きのうは、ひさしぶりに、スープも全て飲んでしまった。

崎山さん、いままで本当にありがとう、鹿児島に帰ってもいつまでも元気でいてね!!!!

 

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黄色い花

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 もう18時を過ぎてしばらく経っていたが、あたりはまだ明るかった。ほんのひと頃前までは、このくらいの時間になると空はもうすっかり暗くなっていたというのに、知らぬ間に日が伸びていたことに気づいて、それで、なんだか少しだけ嬉しくなる。
 東京のど真ん中、そう称しても過言ではない場所にこの公園はある。もちろんおれが生まれる前からこの公園はここにあったし、そのすぐ横の道路を運転して車で通ったことも数え切れないくらいには幾度もある。ゆっくりと足を踏み入れたのは、おそらく随分と久しぶりのことだったが、どういうわけか、ほとんど初めてに近いような感覚だった。公園の真ん中にある時計を見ると18時半を10分ほど過ぎたところだった。なんでもない普通の水曜日だったが、平日だというのに園内にはそこそこの人数の人たちがいた。公園の管理事務所の前にはベンチとテーブルがあって、持参したワインやつまみで40代くらいの男女がアウトドアドリンキングを楽しんでいる。
 管理事務所では無料でピクニック用のラグを貸し出していて、芝生の上にはそれを広げその上で体を寄せ合っているカップルがいた。少し離れたところには眩いくらいに白いドレスに身を包んだ花嫁がいて、花婿とヘアメイクとカメラマンとその助手の総勢4人で、東京タワーを背景に写真撮影をしている。彼らの撮影している写真の背景に東京タワーが入っているのだということに気がつき、そこに東京タワーがあったことを急に思い出してふとタワーのほうを見ると、いつのまにかライトアップが始まっていて、まだ青白い夕空にオレンジと白の光が薄く広がっていた。
 公園にはどちらかというと外国人の姿が目立っていて、軽く辺りを見回しただけでも、イヤホンを耳に差し込んでスマホのゲームに興じている北欧顔の男とか、水筒を手にぶら下げて並んで歩く中国系の顔立ちの老夫婦とか、短パンとTシャツにスニーカーというラフないでたちの背の高い若い北米風の3人組とか、そんなような姿が目に入る。
 結婚式の撮影部隊が芝の広場を横切って歩く。無料レンタルのラグの上で体を寄せ合っていたカップルは並んで寝そべっていて、女の手が男の脇腹のあたりに触れていた。少しずつ空が暗くなってきているのがわかるが、暗くなっているという実感はなんだか乏しく、さっきと比べて暗くなってしまった、という結果としての事実のみから、日が暮れ行くことを知る。撮影部隊は公園を横切ると増上寺の方へ消えて行き、寝そべっていたカップルの女の方が体を起こしてそのへんに置いてあったニットを肩から羽織り、また男のすぐ隣に体を横たえた。二人はなにかを話しているが、なにを話しているのがわからない程度には彼らとの距離は離れていた。
 あたりが暗くなるにつれて、ビルの窓の灯りや、公園の街灯の光が目立つようになる。しばらく前から街灯もビルの灯りもついていたはずだが、当たり前だがあたりが暗くならないうちにその灯りが目立つことはない。増上寺との境に植えられた茂みの向こうからフラッシュの光が漏れてきて、花嫁と花婿の姿をそこで撮影しているのだということがわかる。
 吹く風が少しずつ冷えてきて、半袖の腕を撫でる風が冷たく感じられる。ぴったりとした黒いタイツを履き、白いTシャツと黒いキャップという姿の若い女がおれの前を走って通り過ぎて行く。女はイヤホンをして音楽を聴いていて、そのスニーカーの靴紐の色は明るい蛍光色のオレンジ色だった。東京タワーのライトアップは季節によって色が変わるらしい。夏は暑苦しくないように色が白っぽくなるらしいのだが、5月のいまは、まだ冬と同じ、暖かみのあるオレンジ色にライトアップされている。歩道の敷石の上におれは寝転がった。昼間照りつけた太陽の熱が石に残っていて、背中がほんのり温かい。太陽の姿を空に探すが、もうどこにも見当たらない。激しく赤い夕焼けを披露することなく、きょうの太陽は地平の向こうへと消え去ってしまった。
 木々を揺らす風が音を立て始める。公園の利用の注意事項を案内する機械音声が園内のいたるところにあるスピーカーから響いている。
 体を起こしてあたりをまた眺めていると、管理事務所の近くに、植え込みに咲いている黄色い花の姿を手元のスケッチブックに描いている女の姿が見えた。女が座っているベンチの奥の植え込みにその花は咲いていて、女は日本人だった。俺はなんとなくその姿をしばらく眺めていた。女が描いている花は、多分、バラだとおれは思ったが、おれは花に詳しいわけではないので、それが本当にバラなのかどうかはよくわからなかった。
 よく見ると、女が履いている靴は俺が履いている靴と同じメーカーのスニーカーだった。暗くて色までははっきりと見えないが、多分、型番の数字も同じものだと思った。黒か紺のスウェードレザーのスニーカーで、側面にはメーカーの名前の頭文字のロゴマークが光っていた。俺が履いているのは、それと全く同じ形のサイズ違いで、おれのは紺色だった。暗くなったからか、女は絵を描くのをやめてスケッチブックを肩から下げていた布製のバッグにしまった。鉛筆のキャップがないのか、女は鉛筆をしまうときに、鉛筆の先っぽになにかテープのようなものを巻きつけてから筆箱にしまっていた。夕焼けもないまま、あたりはすっかり暗くなっていて、時計に目をやるともう19時になっていた。また地面に横になって空を見上げると、背中に伝わる地面の熱が、さっきよりも弱くなっていて、もうあまり暖かくはなかった。

 時間も、人生も、いつも気が付かないうちに、過ぎていってしまう。永遠に続くかのように思える時間も、いつかは終わりが来る。終わらない彼と寝てる、そんなフレーズが1980年代のポップソングの歌詞にあった。果てることのない彼、理想の彼、などの意味だとその歌詞は一般的には解釈されているが、その歌が世に出た頃よりもはるか昔の頃から、終わらない何か、というものに人は思いを馳せ続けてきたのだろう。いつの世も、人は、終わらないものを探し続けてきた。この小さな夕暮れのひとときにも、ふと、時間が流れていることを忘れそうになる。少しづつ暮れて暗くなること、時計の針が進んでいくこと、そういう結果としての事実のみによって、ひとはいつも時間の流れを知る。時間の流れる速さは、物理学的には一定速で常に等速だとされている。同じ速さで流れ続けてきた時間のなかで過ごしてきたおれの日々が、いまのおれを、いまのおれたらしめている。夕闇の中で、黄色い花が小さく揺れていた。辺りを見回したが絵を描いていた女の姿はもう見当たらない。おれは体を起こして、ぼんやりと自分の履いているスニーカーを眺めた。

 

売れることは正義、気持ち悪いSNS投稿の考察

Facebookに投稿される、いろいろな人の投稿を見て、気持ち悪いと思うことが増えたような気がする。

すこし乱暴な書き出しになってしまったが、あくまでもこれはわたしの主観であり、ここで特定の誰かに対する批判をしたいわけでもない。SNSなんて、嫌なら見なければいいだけなのだが、SNSを使うことによりもたらさられる利益があるのも事実ではあるし、そうは言っても不思議なもので、気持ち悪いなぁと思いながらも、やっぱり見てしまう。

こうやってわたしがいまブログを投稿することも、もちろん一種のSNSポストではあるわけで、SNSに何かを投稿すること自体を批判したいわけではない。ただ、SNSに散見されるある種のポストを見て、気持ち悪いと思うことが多くなった、というだけだ。

SNSに投稿のされるポストにも、その意図に、いろいろと種類がある。SNSポストの本質である、なにかしらの情報を発信する、ということだって、そうはひとえに言っても、共有したいのか、かまってほしいのか、言いたいだけなのか、など、いろいろと種類がある。SNSに投稿することでなにかが発展する可能性があることも否めないし、わたしの過去の人生においても、SNSに投稿したことが人生を変えたことだって実際に本当に何度もあった。もちろん、なにをもって、有益、有意義、とするのかというのは難しい問題ではある。SNS上には、価値を持つ投稿も多く存在しているが、気持ち悪いと感じる投稿と、そうではないと感じる投稿との間に、明確な線引きがあるわけではもちろんない。

誰がどういう目的でSNSを使おうと別に勝手なのだが、しかし、とにかく気持ち悪いと思うポストも多い。そこで、どういうポストを気持ち悪いと思うのか、なぜ気持ち悪いと思うのか、考えてみた。

前述した通りだが、本論は100%わたしの主観であり、そこにはたとえば絶対的な正しさなどというものは、当たり前だが、かけらも存在し得ない。なにを気持ち悪いと思うのか、なぜ気持ち悪いと思うのか、そういう個人的な感覚を考察してみようとしているだけだということを理解した上でお読み頂きたい。

いろいろと考えてみたのだが、端的な表現で言えなれば、ありふれたマジョリティを見ることと、売れないマイノリティを見ることが、気持ち悪いと、わたしの場合は思うのかもしれない。

ありふれたマジョリティ的なポスト、というのは、「素敵な結婚式でした!」とか、「最高のパーティでした!」とか、「最高の同期に感謝!」とか、たとえばそんなような類のポストのことだ。誤解してほしくないのだが、べつに、誕生日パーティとか結婚式とか同期とかのことを投稿するのが悪いわけではない。ただ、用意されているフォーマットに、テンプレのような言葉や写真を乗せた投稿は、見ていて面白くないし、不快になることが多く、それをわたしは、ありふれたマジョリティと、本論では呼んでみることにした。ありふれたマジョリティか否かの判断のポイントは、無関係な人が見たときに少しでも興味を持てるものかどうか、ということにあるのかもしれない気がする。わたしに関係のある人の投稿だとしても、そういうありふれたマジョリティ的な投稿を、気持ち悪いとわたしは思うが、それは、わたしではない、誰かその投稿とは無関係のひとがそれを見たときにうどう思うか、ということが重要だからだ。幸いながら、わたしが親しくしている人にはそういうような気持ち悪い投稿をするひとはあまりいないのだが、SNS上に散見される、借りてきたような言葉で、テンプレのような体験の感想を述べてわいわい賑わっている写真を投稿する、というような行為をとても気持ち悪いとわたしは感じる。SNSに限ったことではないのかもしれないが、何かを表現するという行為には、たとえほんの数%に過ぎなかったとしても、受け手のことを考える気持ちが欠かせない。だから、不特定多数の相手に対して、最大公約数的な文脈を、たとえほんのわずかだったとても、投稿のなかに内包していなければならないと思う。そういうものが存在しない、たとえばただ内輪の盛り上がりを表現しただけの投稿は、表現とは呼べないし、不特定多数の人が閲覧できる場所に晒すべきではないと、個人的には思っている。SNSの活用方法にルールなんてないし、べつに誰がどんな投稿をしようと、わたしが文句を言う筋合いはないのだが、とりあえず、ありふれたマジョリティがわたしは気持ち悪い。

そしてもうひとつは、売れないマイノリティだ。利益を出しているかどうか、という意味で「売れない」と書いたわけではなくて、人気か不人気か、という意味でここでは「売れない」という言葉を使ったのだが、なにか募集したり呼びかけたりしている人の投稿にも、気持ち悪いと思う投稿が多いような気がする。マイノリティであることが悪いわけではないのだが、不人気なマイノリティは見ていて気持ちが悪いし、できれば見たくない。具体的に言うと、「とっても素敵なお店で楽しい時間を過ごしましょう! どなたでもご参加ください! 」みたいな投稿のことだ。ありがちなのが、投稿者の友達数が1000人を超えていたりと、比較的多く、また、いいねの数がたくさんついているのだが、具体的な参加申請がほとんどなかったり、今回は行けないのでまたの機会に! みたいな、はなから行く気がないだろうと思えるようなコメントが沢山ついている、というような投稿だ。わたし自身は、マジョリティかマイノリティかで分類するのであれば、おそらく、マイノリティに分類されることとなるだろう。マイノリティであるということは、不特定多数の人に共感を得にくい、ということでもある。共感を得るためにSNSにに投稿するわけではないかもしれないが、SNSに何かを投稿するという行為の目的から、誰かに共感してもらうため・そこから広がる関係性などのため、というような要素を排除することはおそらく難しい。誰かに見てほしいと思わないのであれば、誰にも見られない場所に書くべきだろう。つまり、他者が閲覧できる環境にあるSNSの場に投稿する以上は、べつに誰かに見てほしいくて投稿しているわけではない、という言い訳は通用しないということになる。そうである以上、伝える努力、見る人への配慮、というのは、ルールやマナー以前のものとして、大前提としてあるべきだとわたしは考えている。

たとえばいま書いているこのブログだって、そのマイノリティ感あふれるテーマの性質から考えて、また文章の長さから、どうせそう多くの人には読まれないことだろうというのはわかった上で書いているのだが、それでも、第三者が読んだときに、なるべく理解しやすいようにする、ということを前提とした上で書いている。ありふれたマジョリティ、売れないマイノリティ、彼らの投稿に共通するわたしの不快感の原因は、もしかすると、「思考停止」にあるのかもしれない。自分だけの意志や感情が曖昧で、みんなも楽しかったし自分も楽しかった、というようなぼやっとした感想に基づいて投稿されたありふれたマジョリティの投稿、自分がマイノリティであるという自覚に欠如した乱暴な文脈の売れないマイノリティによる投稿、どちらも見ていてとても気持ち悪いのは、思考停止している様子がありありと示されているから、かもしれない。

この考察を書いていて、売れることは正義、なのか否か、ということについても考えた。たとえば歴史の上には、生前は全く評価されずに、死後になって大きく評価された画家がいるが、そんなのはクソクラエだとわたしは思う。生きている間に評価されないのなら、自分のテーマや表現方法を変えてでも、評価されることを少しは考えるべきだったと思う。死後に莫大な金額で作品が売れたとしても、本人の生前の辛い思いが消えるわけではない。表現は、たぶん、目的ではなくて手段だからだ。自分は価値のあることをしているからいつか評価されるはずだ、という考えは間違いだと思う。価値のあることをすることが目的なのではなく、価値を得ることが目的なのではないだろうか。だから、価値のあることをしていると思うのに売れていないのであれば、それが評価されるためにはどうするべきなのか、ということをもっと考えるべきだろう。たとえば、どんなに素晴らしい作品を作っていたとしても、どんなに素晴らしい仕事をしていたとしても、それが誰にも知られていなくて評価されていなければ、意味がない。人生は一度きり、自分がしたいと思うことをするべきだし、嫌だと思うことは避けるべきだと思う。そのための手段として、評価されること、評価されるためにはどうすればいいのかを考えることは、かなりプライオリティの高いことなのではないだろうか、ということに、気持ち悪いSNS投稿について考えている過程で思い至った。

なにをやってもいい、でも、売れることもちゃんと考えような。ということだと思う。ありふれたマジョリティも、売れないマイノリティも、その本質は同じだ。ありふれたマジョリティは突出した個性に欠けるから売れないし、売れないマイノリティはただの不人気な少数派だから売れない。個性は大切だし、人気があるかどうかがすべて、というわけではもちろんないが、売れること、評価されること、というのは、生きていく上で、当たり前だが、とても大切なことだと思う。

お前はどうなんだよ、と言われないように、売れないマイノリティにならないで済むためにはどうすればいいのか、ということを、わたしはいまも日々、必死に考えている。

 

静岡のオススメスポットを本気で紹介Part1

いやー、静岡って素晴らしいっすね。

東京生まれの東京育ちですが、なぞに頻繁に静岡に行っていることでおなじみのわたくし。かなり行っているけど、またまだ新しい場所、新しい美味しさに出会うことが多く、そうして何度でも行ってしまう。みんなにも知ってほしい気もするし、自分だけが知っていたい気もするが、それはさておき、文章にまとめてみた。遊びに行く機会があったらよかったら参考にしてください。

 

わたしはあんまりあちこちの地方には実は行っていないのだが、でもそれなりに国内いろいろな地方に行ってみて思うことが、名物料理とか郷土料理とかよりも地場の食材、ということ。

身も蓋もない言い方だが、その土地特有の調理方法や味付けよりも、その土地特有の食材、の方がオレには魅力的なことのほうが多い。

別にご当地グルメを否定するつもりはないけれど、味の好みの傾向とかの分布を考えると、その土地特有の味よりも、その土地特有の素材、の方が魅力的なのは、ある意味では至極当然のことなのかもしれない。

そこで静岡がすごいのは、食資源の多さ。海と山を両方備えた県ならではの豊富な地場の食材!! ここにしかない鮮度、ここにしかない品質。

そんなわけで、年間を通して無駄に足繁く静岡に通っているわたしの独断と偏見による静岡の魅力をご紹介します。美味しさ・良さは保証するので、ぜひ遊びに行って欲しいです。

 

■南伊豆の天ぷら

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天ぷらの銘店なんて東京に腐るほどあるが、そういう店は決まって値段もべらぼうに高い。ひとり15000円とかするが、でも、ウニとか松茸とか矢鱈に高いモノを揚げているだけのように思えてしまって、あんまりいいと思えないことも多い。現に、個人的には、六本木にある高級有名天ぷらよりも、この伊豆の天ぷら屋の方が美味しく感じた。

かつてはわたしも、海老とか穴子とか、魚の天ぷら種にばかり興味があったのだが、この店に来るようになってから、その考えが変わった。それくらいにこの店の野菜は美味しい。

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南伊豆の地場の野菜をメインで使っていて、そのお陰で、新鮮で香りのよい野菜が、驚きの低価格で食べられる。都内で同じものを食べようとおもったら3倍くらいの価格になるだろうし、それでも、鮮度とか品質とかでは、南伊豆のこの店で食べる野菜に及ばないかもしれない。

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素材の良さ、揚げの技術、接客とか雰囲気、価格。ブツブツと飲食店に対する文句が多いことでおなじみのわたしが、ここまで手放しで良いと思いべた褒めするお店は、そう無い。

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天ぷらは蒸し料理、だということを皆さんご存知だろうか。ここの天ぷらを食べるまで、オレもその言葉が示す意味を知らなかった。

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地方に行くと、たとえ食材のレベルでは分があっても、調理がそれを台無しにしてしまっている店にあたることも多い。たとえば、調味料の選択が、たとえば火の入れ方が、せっかくの素材の良さを台無しにしてしまっていることが、往々にしてあるのだ。それが、このお店は…。褒めちぎり過ぎで流石に嘘くさく聞こえてしまうかもしれないが、調理の技術はもちろん、味付けのセンスも最高で、いつも食べていてニヤニヤしそうになる。サラダにかかっているドレッシング、お通しの塩辛の味付け、味噌汁の出汁加減、そんなような、多くの店がちょっと油断したら手を抜いてしまいそうになるようなところも、きちんと手をかけていて、本当に行く度にいつも嬉しくなる。

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東京にこの店があったらいいのに、という思いと、南伊豆だから実現できているのだろう、という思いが交錯して複雑な気持ちになるが、都内のそのへんのちょっと高い天ぷら屋なんかをらくらくと越えてしまう店だと思う。はっきりいって、ここの天ぷらを食べるためだけにわざわざ伊豆に行く価値さえあると思うし、それでわたしはいつも静岡方面にいく度についつい足を伸ばしてしまう。

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ランチは2000円くらいで揚げたての天ぷらをカウンターで食べられる。

ディナーは完全予約制で4000〜6000円のコース。このコースがまた楽しいのだが…。

車がないとアクセスが辛いのが玉に瑕ではあるが、お酒がなくても充分に楽しめるお店なので、ぜひ行ってみて欲しい。

おすすめはランチの上天ぷらごはん。魚も野菜も楽しめるランチフルコース。

www.facebook.com

https://tabelog.com/shizuoka/A2205/A220505/22029533/

 

 

 

■オクシズの本わさび

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常々思っているが、現代の日本国民はわさびを軽視しすぎているような気がする。たかが薬味かもしれないが、わさびの味の良し悪しで、料理の完成度はかなり変わるような気がする。わたしは、練り物のわさびがとにかく苦手で、安い蕎麦屋とかで出されるインチキわさびはまずもって使わないし、安い寿司屋ではサビ抜きで注文するくらいには練り物のわさびが大嫌いだ。そもそも、あまり意識している人はいないと思うが、練り物のわさびにも、本わさびのみのもの、本わさびを配合しているもの、実質ホースラディッシュというもの、いろいろとあるが、食物油脂がつなぎに使われていたりとか、加工されている時点で揮発性のわさびの香味成分が失われていたりして、たいてい嫌な味がするので、たべるだけでその違いはすぐに分かる。かつてはわたしもそういうことはあんまり気にしていなかった頃があったが、気になるようになると、デタラメなわさびを多さに辟易するようになった。そこそこ高い蕎麦屋とか寿司屋とかで練り物のわさびが出て来ることだってそう珍しいことではないし、安い店とか日常使いの店では、当たり前のようにインチキわさびが出てくる。せっかくの蕎麦とか刺し身とかの香りとか味わいを、偽物のわさびは台無しにしてしまう。辛さだけが強くて、あとに嫌な香りが残るわさびを、オレは生涯この先、好きになれないような気がする。

前置きが長くなったが、そんなわけで、わさびは本わさびに限ると思っているのだが、本わさびでもいろいろと産地があって、産地によって味や香りが違う。

長野、伊豆、鳥取、いろいろとわさびの産地はあるが、その中でもわたしが一番に信頼しているのは、有東木のわさびだ。有東木、と書いて、うとうぎ、と読む。ここは、わさび栽培の発祥の地で、歴史のことは大雑把に略すが、とにかくいろいろと事情があり、かつてはこの地でしかわさびは栽培されていなかった。

静岡の市街地から30キロちょいくらいのところにある小さな集落で、わさびの他にはお茶とかも作っている。信頼している蕎麦屋と寿司屋がこの土地のわさびを使っているが、それだけのことはあるな、とここのわさびを食べていていつも思う。

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鮫皮で丁寧におろしてみると、その風味や辛さのニュアンスは、練り物のわさびとは雲泥の差だ。有東木には、うつろぎ、という自治会によって運営されている飲食施設があって、手打ち蕎麦、わさびご飯、わさびの葉の天ぷら、などを食べることが出来る。

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蕎麦も、そこそこのちゃんとしたレベルの蕎麦がでてくるし、天ぷらも悪くはない。なにより、添えられているわさびが、美味しくて山盛りなので、それだけでも嬉しくなる。さびめし、とメニューには書かれているが、このわさびご飯、白いご飯に鰹節とわさびをのせて醤油をかけただけの食べ物だ。孤独のグルメにも登場したことがあるが、侮るなかれ、これが存外に美味しい。わさびという食べ物が、薬味だったことを忘れてしまいそうになる。でも、この味は、やっぱりチューブのわさびでは味わえないのだ…。

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ということで、ぜひ本物のわさびを味わってみて欲しい。ツーリングにもドライブにもおすすめ。110円の自家製よもぎ餅も甘さ控えめでとても美味しかった。あと、自由に飲めるように置いてあるお茶が、地味にとてもおいしくて、いつもビビる。

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ちなみにオクシズというのは、このあたり一帯の、簡単にいうと、静岡の山奥、のエリアを示す言葉です。

utougi.hiho.jp

www.wasabiya.net

 

■オクシズの温泉

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有東木でわさびグルメに舌鼓を打ったら、さらに山奥に進んでみよう。梅ヶ島温泉、と称される温泉が豊富なエリアにたどり着く。コンヤ温泉、新田温泉、金山温泉、梅ヶ島温泉、の4つの温泉街が含まれる。全てに行ったことがあるわけではないのだが、先日行った、コンヤ温泉の大野木荘がとてもよかった。日帰りで540円だが、いやぁ素晴らしい。泉質も施設も、文句なしだった。

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基本は加温だけのかけ流しなので、もちろん塩素臭かったりすることはないし、温度も最適だし、見晴らしも悪くないし、至福のひとときを過ごすことができた。pH10.3の強アルカリ泉で、低張性だし、長く入っていても肌に負担にならない。設備の良さとか雰囲気とかでは、後述する観音温泉にやや劣るかもしれないが、それでも、日帰り入浴の価格は観音温泉の半額以下だし、文句はまったくない。観音温泉の方がシリカを多く含むからか、より湯あたりが滑らかに思えるが、それでもここのお湯とてかなりのいいお湯なので、騙されたと思って行ってみてほしい。昼間に行くのがおすすめ。森のなかで開放的な気分で入浴できる。掛け値なしで最高。やばい。

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konyaonsen.com

o-nogi.jp

 

■焼津のミナミマグロ

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マグロ、と言われて、マグロの種類のことを思い浮かべるひとはどれだけいるのだろうか。マグロはマグロだと思っていません? ところがどっこい、本マグロ、南マグロ、キハダマグロメバチマグロ、ビンチョウマグロ、という具合に種類がある。ついでに言うと実はカツオもマグロの一種。一般的に、都内のスーパーで流通しているのは、バチマグロ(メバチマグロのこと)が殆ど。デパ地下とかに行くと本マグロもあるが、これが驚くほど高価なのだ。ビンチョウも、ビントロ、という名前でよくトロもどきとして売られているが、個人的にはちょっと脂の感じがあんまりそんなに好きではないというか、食べていて飽きる。関西の方では、バチではなくてキハダが多く流通しているらしい。で、南マグロは?? そう、これが殆ど流通していないのである。なんでも、マグロの流通量のたった2%でしかないらしい。そりゃあそのへんのスーパーでは買えないわけである。そんなこともつゆ知らず、焼津にいくといつも当たり前のように食べていたのだが、そういえば焼津以外では食べたことがなかったことに気がついた。

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この度、お土産で買ってみたのだが、本当に美味しい。本マグロと違い、酸系の風味がなくて、全体的にまろやか。香りも穏やかなので、淡い系の醤油だとなんだか締まらなく感じるかも。脂の質もかろやかで、飽きない。みんな知らないし、そのへんには流通していないミナミマグロ。なぜかといえば、話は簡単、南まぐろは絶滅危惧種に入っていて、漁獲量に制限があるからなのだが、でも美味いものは美味い。流通量を増やしてほしいとは思わないし、絶滅してほしくはないが、食べられる機会には積極的に食べていきたい。漬けも美味い。初めてたべたのは、由比らへんのバイパス沿いの食堂だったなぁ。そこの店もまた行きたい。焼津には、焼津さかなセンターという素晴らしい施設があって、マグロも買えるし、寿司も食える。南まぐろを取り扱っている店もあるので、食べてみて欲しい。

 

www.sakana-center.com

www.uoni.co.jp

www.kanetomo.com

 

 ■さわやかのハンバーグ

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これは難しい店だ。人によっては、わざわざ食べに行くほどではないとか、地元の人は行かないとか、いろいろと賛否両論があるのだが、しかし、美味いかどうかで言えば、オレは美味いと思う。ファミレス形式なのに、炭火焼きだということに注目したい。言わずもがなでげんこつハンバーグが人気なのだが、ソースが選べて、定番はオニオンソース、もうひとつがデミグラスソースなのだが、このソースを使わないだけでおいしさがぐっと上がる。笑

ソースとはべつに醤油を注文できて、わたしはいつも醤油を頼んでいる。それから、黙っていると店員さんが焼きたてにソースをジュワ~と掛けてくれるのだが、これはべつに意味が無いので、かけないでもらうのがおすすめ。焼きたてのハンバーグが提供されたら、中が赤いままの肉をまずはそのまま食べて欲しい。次に塩コショウで自分の好みの味を作る。炭火で焼いた肉の味が一番楽しめる食べ方だと思う。飽きてきたら最後は醤油だ。そうしているうちにいつも肉を全て食べ終わってしまう。ソースの出番がないのである。

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ソースを使わなくなってから久しい。さわやかは醤油だろ、というのが個人的なポリシーですね。

御殿場店が都内からは近くて便利だがめっちゃ混んでいるので長泉らへんの店のほうがおすすめ。

げんこつハンバーグの炭焼きレストランさわやか

 

■用宗のしらす

しらすの漁獲量が駿河湾でNo1らしい。ちいさな漁港の町だが、しらすはここが一番美味しいような気がしている。どんぶりはうすという漁協直営の食堂も安くて人気。わたしはなんとなくいつも、大漁丸というお店でしらすを買っている。1〜3月は禁漁期だが、それが明けると、生しらすを食べまくれる! 湘南エリアでも、相模湾で捕れたしらすを食べることができるが、味はぜんぜん桁違い。江ノ島しらす丼を食べていまいち好きになれなかったひとも、ここのしらすを食べて見てほしい。生しらすは苦い? その考えは間違っている、生しらすは甘い、が正解だ。釜揚げしらすも美味しい。

www.pref.shizuoka.jp

https://tabelog.com/shizuoka/A2201/A220101/22029624/

 

■由比の桜えび

用宗がしらすなら、由比は桜えびでNo1。生の桜えび、美味しいんだよなぁ。生桜えびは苦い? その考えはまちg(略) 生桜えびも甘くて美味しいのだ。こちらは4月まで禁漁期なので、それが明けるのが待ち遠しい。釜揚げも美味しい。しらすと桜えび、どちらも小さな命だが、、美味しいんだよな、、

 

yuikou.jp

 

■由比のバイパス沿いの食堂

南まぐろのところでも触れたが、バイパス沿いのなんでもなさそうな店なのだが、侮れないクオリティ。蕎麦は冷凍麺だし、わさびは練り物だし、なんの期待もせずに入った店なのだが、素材の良さで圧倒される。そうそう、これだよこれ。静岡の真髄はここにある。なんでもないこういう街の店で出て来る海産物が、びっくりするくらい美味しいんだよ。桜えび、しらす、まぐろ、駿河湾の名産を欲張って食べられるわりにアクセスが抜群なので、ランチに困ったらここへぜひ。もっとも、わたしはいつもランチは行きたい店が他に多すぎて、なかなか来れていないのだが…。似たような名前の似たような店が近くにあるがお間違いなく。バイパスを上り方面に向かって2軒目のお店。

https://tabelog.com/shizuoka/A2201/A220102/22031034/

 

 

まだまだあるのだが、長くなったのでとりあえずここまで…。そのうちまた書きます。 

 

 

2月26日のメニュー

きょうの献立メモ
Feb26

 

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◾️水菜のゆず酢漬け
サラダにするには気がひける、でもまだまだ美味しく食べられる、という少しだけしおれてしまった冷蔵庫の水菜を活かしたくて考えたメニュー。
塩水に漬けてしばらく置いてしんなりさせた水菜を、水で洗う。手鍋で米酢と砂糖とみりんと醤油を煮立てて冷まし、水菜と合わせてから、ゆず果汁と薄口醤油で仕上げ。黒すりごまをかけて完成。

 

 

◾️大根の紫蘇きんぴら
大根が余っていたのと、ご飯のおかずになるような少し濃いめの味付けのものが作りたくて考えたメニュー。
拍子木切りにした大根を水にさらして、よく水を切る。米油を引いて加熱したフライパンに大根を入れて、酒、みりん、砂糖で炒める。様子を見て醤油を入れ、さらに火にかける。片栗粉をちょっと入れて煮立て、大根にタレが絡むようにする。ごま油をひと回し足らす。火からおろし、炒りごまと刻んだ紫蘇をまぶして完成。サラダ菜などの上に盛り付ける。
ゴマと紫蘇の相性があんがい良い。大根の甘さがかっこう侮れないので、砂糖、みりん、は控えめにする。醤油を入れてから煮過ぎない。片栗粉は入れるときにダマにならないように気をつける。葉っぱとの相性が良い味付けなので、葉っぱと一緒に食べると美味しい。白米とも合うと思う。

 

 

◾️白菜ミルフィーユ蒸し
なんとくもう一品増やしたいなぁと思ってたら白菜と豚肩ロースがあったので作った。レシピはデタラメ。
肩ロースは醤油、砂糖、酒で漬け込んだ。白菜、豚肉、と交互に挟んで、ラップでくるんと包んで、耐熱皿に乗っけて、レンジの200wモードで30〜40分くらい加熱する。中心に一応温度計を刺して、きちんと火が通っていることを確認する。豚肉は中心温度63度で30分、がひとつの基準らしい。
肉に味をつけないと、豚くさい仕上がりになってしまうことを、以前に作ったときに学んだので、今回は気をつけてみた。基礎調味料以外に、なにかハーブとか、香りのしっかり出るものを漬け込み調味液に入れてもよかったかも。

仕上げに醤油を全体に垂らして、なんとなく彩りが悪かったので糸唐辛子を散らした。

 

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◾️野菜と鶏もものスープ
子供の頃によく行っていた中華料理屋に久し振りに行って、いつもそればかり食べていた「塩鶏そば」を食べたら、なんかあんまり美味しくなかったのがキッカケ。たしかにわかりやすい味なのだが、砂糖と化学調味料を使い過ぎている気がした。そこで、砂糖にも化学調味料にも頼らない鶏スープを作ろうと思って考えたメニュー。とはいえ、鶏ガラから炊くのは流石にちょっと面倒だったので、鶏もも肉を使うことにした。鶏もも肉は脂肪分が多いので、適当に調理してもしっとり美味しく仕上がりやすいが、その分アクや臭みも出やすいので、そのあたりを意識して調理した。ネギ、生姜、塩、砂糖を揉み込むようにまぶして、ポリ袋に入れてしばらく放置する。塩は肉の0.8%を目安にしている。よくわからないがなんとなく砂糖も同じ量を入れている。大きめの鍋に水を張り、大根の皮とか人参の切れ端とかネギの青いところとかを適当に入れて沸騰させる。1時間以上つけ置いたもも肉を平たくなるように入れて、まずは下ゆで。軽く下ゆでしたらザルに上げて、フライパンに油をひかずに、皮目から焼く。表面に軽く焦げ目がつくくらいまで焼いてから、また茹で鍋に戻しす。余計な脂を洗い落とすようなイメージ。それから、木製のまな板にのせて、肉1枚を三等分くらいに切る。樹脂のまな板は熱いものを切ると反るのでこういうときは使わないようにしましょう。
スープの方は、水に玉ねぎ、人参、生姜、長ネギ、塩、を入れて、鶏肉な仕込みと並行して圧力鍋で煮込んで置いたものを使う。野菜からかなり甘さが出るので砂糖とかみりんは不要。なるべく弱火でグツグツじっくり煮るのが美味しくなるコツな気がする。アク取りは適宜する。
ということで、洗って切ったもも肉を圧力鍋の野菜スープに入れたら、そこから更に圧力をかけて煮込む。最後に塩、醤油、薄口、などで味を整えて完成。
ふだんはコショウをかけてから食べるのだが、今回のスープは、臭みとか雑味とかにかなり気を使ったので、コショウなしでも美味しく食べられた。

 

 

◾️感想

全体的に茶色っぽい色の料理が多かった気がした。

彩りがもっと欲しいなぁ、とも思ったけど、べつに無理してカラフルにする必要もないのかもしれないなぁ、とも思った。べつに魚料理が嫌いなわけではないのだが、ついつい肉ばかり選んでしまう。なぜだ?? と思ったが、たぶん、魚の方がいろいろとシビアだからかも知れない。火加減とか焼き方とか味の染み込ませ方とか、どうしても大鍋でドーン、というスタイルではうまくいきにくいから、それでついついこういう食卓だと肉料理を作りがちなのかもしれない。

 

#みんしょくとは??
#大暴走
#やりたい放題

球体関節愛花、ZIGEN写真展、ホテルブーケンビリア曙橋、青山通りの夕暮れ

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 球体関節で胴体と四肢が繋がったその女は、裸だった。女のその視線はオレの方を向いている。刺さるように尖ったその目線は、でもどこかに柔らかい感じも併せ持っている気がした。黒々とした髪の毛先が闇に溶け込んでいる。リアルで滑らかな肌の質感と、その滑らかさを突然に破壊する、関節。球体関節が、人の肌のぬくもりを断絶しているかのようだった。
 腹部にも関節があって、そこに見える黒い隙間は何かを吸い込んでしまいそうなくらいに真っ暗だった。作品の名前はEpsilon。股の間には、女であることを示す傷が縦に伸びている。お腹の空洞にもし水を注いだら、その股の傷からは水が出てくるのだろうか。胸の輪郭を浮かび上がらせるやわらかな影。豊かとは言い難い大きさだったが、その胸の輪郭には、安らぎがあった。色が薄く、小さく粒だった乳首がフェチズムを喚起する。
 
 ギャラリーには、球体の関節を身体に備え持ち、いろんなポーズをしている同じモデルの写真がいくつも額装されて飾られていた。Zigenさんに前に会ったのはたぶん5年近く昔のことだったような気がするが、詳しくは覚えていない。どこか郊外のほうであったロケの現場だったような気もするし、家の近所のホームセンターだったような気もする。ギャラリーの一画がバーになっていて、カウンターにはお客さんが座っていて、ドリンクを飲んでいた。まだ日は落ちていなかったが、お酒が飲めるようだった。
 
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 作品名はDzeta。半開きのくち元、髪の間から片目だけ見えている眼。脇腹に浮かび上がる、あばら骨の滑らかな影。半開きのくちからはいまにも言葉が漏れてきそうで、でもたぶんきっとなにも言わないのだろう、そんな感じがした。髪に覆われた顔に浮かぶ表情が、見るものを捉えて離さない。膝をかかえて座り込むその足元には、レースのついたショートストッキングが揺れている。
 
 エロスを超越した何かがそこにあるのを感じたが、それが何なのかが、すぐにはわからなかった。作品を見るという行為は、もしかすると、本質的には、自分との対話をする行為なのかもしれない。作品を見て何を思うのか、何を感じるのか。そんなもののなかに浮かび上がってくるのが、おそらく、自分の本質、なのではないだろうか。人形を模した女の目線に何を感じるのか。人形を模した女のくち元に何を感じるのか。
 
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 そもそも、これはなんのための芸術表現なのだろう。理由なき表現だとか、理由とか意味とかそういうことすらもよくわからない表現だとか、そういうものも世の中には沢山ある。表現する理由、そんなものはどうでもいいことなのかもしれないという気もするし、でも、とても大切なものなのかもしれないという気もする。生活のための表現、それ以外に方法がないからする表現。いろいろな表現の理由がある。球体関節とヌードポートレートによるこの作品展の表現は、なんのための表現なのだろうか。その理由を訊いてみたい気がして、少し迷ったが、なんとなく、それが訊くべきではないないことのように思えて、オレは訊くのをやめてギャラリーを後にした。
 
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 理由なんかないのかもしれないし、あったとしても簡単に説明できるものではないかもしれない。言葉で簡単に表現できるようなものならば、そのまま言葉にしてしまえば済むわけであって、言葉で簡単に説明できないから表現するのであるとすれば、そういう簡単に説明できないようなものを気軽に訊ねるのはコミュニケーションやアートに対するある種の冒涜行為のような気がしたのかもしれない。帰り際に、少しだけZigenさんと話したとき、1杯飲んでっていいよ、と言われたが、帰りも運転があったので、ソフトドリンクがなさそうだったこともあって断ってしまった。炭酸水でもなんでもいいから、1杯飲ませてもらって、さわりだけでもいろいろと訊いてみればよかったのかもなぁ、などと後から思ったりしたが、べつに今すぐに訊かなければならないことではなかったし、Zigenさんの表現の理由がなんであれ、それはオレが何かを表現することの理由とは関係ないわけであって、別にいつか将来、そういう話しを出来る機会があったときにまた訊いてみればいいのだろうと思った。
 
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 ギャラリーを後にすると、街は徐々に暗くなっていって、合羽坂の交差点で外苑東通りへの右折待ちをしていると、バックミラーにビルの向こうに沈もうとしている夕日が映っていた。昔つきあっていたことがある女の子が外苑東通りの先に住んでいて、数年も昔のことだが、よくこのあたりを通っていたことがあった。外苑東通りは市ヶ谷の防衛省のあたりを越えた先で道が狭くなっていて、いつも混んでいたのだが、この間ひさしぶりに通ったら、道路の拡張工事も、もうすぐで終わろうとしているようだった。道路を隔てた信号機の向こうに、ホテルブーゲンビリアと書かれた看板が見える。そこにそんなホテルがあることに初めて気がついたし、行ったことも聞いたこともないホテルだったが、名前が面白くて、なんとなく携帯で写真を取った。ブーゲンビリアといえば、村上龍コインロッカー・ベイビーズのワンシーンにも登場する花だった。確か、ハシが押し込まれたコインロッカーの箱には、ブーゲンビリアが敷き詰められていた、というようなシーンだったと思うが、妙に印象的だったのを覚えている。日常の中でブーゲンビリアという花を見ることはあまりないが、そういえば、ハワイに住んでいる叔母の家の隣の家の庭にも、立派なブーゲンビリアが咲いていた。外苑東通りをこうして通ることはこれからもあるだろうが、ホテルブーゲンビリアに行ったり泊まったりすることは、きっとないのだろうなぁと思った。
 
 帰りしなに小腹が空いて、246沿いの蕎麦屋に入った。以前から知っていた店だったが、わざわざ行くほどではない気がして、もう何年も前から知っていたが、来たのは初めてだった。小諸そばという立ち食いチェーン店を経営する会社が、小諸そばの上位店舗というポジションで出店している店だった。出汁とか、蕎麦とかに、少しだけ小諸そばよりも良いものを使い、おしゃれでモダンな雰囲気を演出しながらも割安な価格を実現しているということで人気の店らしかった。並んでいることも多いとネットには書かれていたが、夕飯には少し早い微妙な時間だったこともあり、並ばずに店内に入ることができた。
 
 店内は外国人が多く、空いていた席に座ると、左にはアジア系のおばさんがひとり、右にはアジア系の男、おばさん、おばさん、欧米系のカップル、という感じの並びで、カウンターはほとんど満席だった。左隣のおばさんは、服装とか雰囲気がなんだか薄汚くて醜い感じがして、べつに何をされたわけではないし、そのおばさんは何も悪くはないのだが、なるべく距離を取りたくて、オレはなんとなく背を向けていた。
「お荷物入れにお使いください」
 店員のおばさんが荷物を入れるカゴを持ってきた。膝に置いていたバックパックをオレは自分の椅子の右隣に置かれたそのカゴの中に入れた。
 
「わたしは嫌なのよね、それに荷物いれるの、ほら、隣の人の靴の踵とかでさ、コートに当たっちゃったりすると汚れちゃうから」
 驚くべきことにオレの左隣の醜いおばさんは外国人ではなくて日本人だったし、用意されたカゴに荷物を入れることを嫌がり、わざわざそれを店員に伝えるという始末で、ただそれだけのことなのに、なんとなくオレは嫌な気持ちになった。程なくしておばさんの鍋焼きうどんが出てきた。鍋焼きうどんを箸で突きながら、おばさんは店員を呼びつける。
「ねぇ、かまぼこが入っていないんだけれど」
 背の高い若い男の店員が現れて、おばさんの鍋焼きうどんを一瞥して、頭を下げてた。しばらくして、小皿にかまぼこが2切れ載せられて出てきた。
「ちょっとサービスしときましたんで、いつもご来店ありがとうございます」
 いかにも申し訳無さそうな声で店員がそう言う。
「あらいやだぁ、いいのにそんなことしなくて、なんだか悪いわねぇもう」
 願い叶ったりとでもいうように、嬉しそうな声でおばさんがそう言って、オレは横でそれを聞いていてまたなんだか気持ちが悪かった。
 
「ちょっとごめんなさいねぇ」
 オレの左斜め前にあった調味料置き場に、オレの方を見ずにおばさんがそう言いながら手を伸ばす。いちいちうるせんだよババアが。声に出さずに心のなかでひそかにオレは毒づいた。
 
 給仕をしている店員のおばさんも、上品さとかおしとやかさとは全く無縁の、がさつでせわしない接客だった。席は狭いし、椅子は後ろに下がらないので机に押し付けられているかのような姿勢を強いられていた。
 
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 注文してあったかしわ天せいろ、600円が出てきた。天ぷらは春菊天あたりが食べたかったのだが、単品では頼めないらしく、そのへんの点でも小諸そばと比べてしまって、オレは少しだけガッカリしてしまった。コンセプトが違うのはわかるし、来店する外国人客とのやりとりなどを考えると、たしかにすべてセットメニューにしてしまうのは悪い方法ではないだろうとは思うが、自由に種物を選べるのもこういうファーストフード系の蕎麦屋の醍醐味だと思う。
 
 つゆは確かに、明らかに小諸そばよりも少しだけレベルが上のものだった。醤油の角が立ちすぎているのが少し気になるのと、甘さが若干だが強すぎる。出汁ではなく、砂糖の甘さだ。でも、そのへんのわけのわからん蕎麦屋のつゆよりは、随分と優秀なつゆだと思った。
 麺は、蕎麦粉の比率が小諸そばよりも多いらしいが、多少はマシかな、という程度で、大きな差は感じられなかった。そんなことより、麺は水切れが悪かったし、少し茹ですぎだった。ぶよぶよとしていて、水っぽい。蕎麦の風味や甘み以前に、これでは、いい蕎麦とは言い難い。
 たしかに、小諸そばの麺とはちがって、ホシの部分も打ち込まれているのが目に見てわかるが、だからと言って大きく風味で秀でているわけでもないわけであり、この麺やつゆと引き換えに、失った小諸そばならではの良さを思うと、残念な気持ちになった。
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 天ぷらも、そう褒められたものではなかった。蕎麦屋を見定めるのには、せいろと天ぷらを頼むことにしているので、かしわ天せいろを注文した。鶏肉は調味液に漬け込んで下処理がしてあって、しっとりと仕上がっていたが、衣はべたべたと脂っぽく、香りもいまいちだった。小諸そばの揚げ置きの天ぷらの方がマシだとも言えるかもしれない。
 本質的に、蕎麦屋の天ぷらというのは、天ぷら屋の天ぷらとは全く別物だと言っても過言ではないものであって、この店みたいに、天ぷら屋の天ぷらを半端に目指そうとすると、得てして残念な結果になるような気がする。
 
 600円という価格でこれが食べられるのは悪くはないが、雰囲気にお金を払っているようで、妙な気分だった。
 
 べつにこういう蕎麦屋が存在していることに大しての不満はないが、たとえば外国の人が来て、日本の蕎麦屋とはこういうものだ、と思われてしまったりするのはなにか残念な気がする。そりゃあたしかに、小諸そばよりも、いろいろと「良い」のはわかる。でも、その良さは、どこか中途半端で、それだったら無くてもいいのかもしれない、と思ってしまうような類の良さでもあった。
 
 もっとも、右隣に座っていた外国人の男が、そばつゆにドボンと練りワサビを放り込んで、濁ったつゆにどっぷりと蕎麦をつけて食べているのを見ていたら、客も客なわけであって、べつにこういう店はこういう店でいいのかもしれない、と思ったりもした。もちろん、本わさびなどではなく、練り物のインチキわさびなので、つゆにドボンとつっこもうと別にそれはそれでいいし、そうやって世の中は上手く回っているのかもしれない。
 
 最後に出された蕎麦湯は、茹で湯をくんだだけのシンプルなもののようで、わりと好感が持てた。そば徳利につゆをわけて出していることは評価に値するような気もする。蕎麦湯につゆを少し溶いて飲むと、出汁の味わいがひろがって、美味しかった。蕎麦つゆだけで味わうと、少し足りなさを感じるが、蕎麦湯で割ったときの味わいはなかなかのものだと思った。
 
 そう、蕎麦湯が美味しいと、結局すべてを許してしまうような気がする。
 横にいるおばさんはあいかわらずなんだか気持ち悪くて顔も見たくなかったし、給仕のおばさんはがさがさと店内を走り回っているし、椅子は狭いし、居心地のいい店とは言い難かったが、べつにそれはそれで良いような気がした。オレが来なければいいだけのことだろう。
 
 店を出ると、なぜかシャンプーのにおいがあたりには漂っていた。近くに美容室でもあるのだろうか。店の前には小さな行列ができていて、街はすっかり暗くなっていた。
 
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 通りの少し先に、路上で野菜や果物を売っているおじさんがいた。確かに安かったし、店舗ではなく路上で売るからできる価格なのだろう。通りすがる人たちが群がっている。ベージュのトレンチコートを着た女が、1個80円のアボカドを買っていた。並べられた果物や野菜の内側には青いザルが置かれていて、その中にはジャラジャラと小銭が入っていた。おじさんの帽子には、市場のIDを示す数字が印字されたプレートがついている。
 
 表現する理由のことをまた考えながらオレはバイクのキーをひねってエンジンに火を入れた。理由はいたるところにあるし、でも、どこにもないのかもしれない、そんな気がした。展示を見て思ったこと、蕎麦屋で思ったこと、渋滞する夕方の道路を車の間をすり抜けるようにして走りながら思ったこと、そういうことを、文章に書きたいと、オレはなんとなく、思った。すこし走るうちに空はすっかり真っ暗になった。東京に、夜が来る。