オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

DIVE, that's the way how my year 2018 will going to be

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2018年の抱負なんですけど、ズバリ!

 
「DIVE」
 
抱負と言えるのかどうかはわからないが、個人的な2018年を生きる上でのキーワードは、「DIVE」だと、きょうの夜、新宿の道を運転していたら、なぜか唐突に思いついた。
 
潜る、潜航する、DIVE、
 
どちらかというと2017年は、今まで以上にいろいろなことに手を出して過ごした、いわば、水面上で、全力でもがいていたような1年だった。
飲食店の経営の主体となる立場から身を引き、その後に紆余曲折を経ながらも、飲食に関連する事業になんだかんだで関与し続けてきた。
なかには、ほとんど利益にならない仕事もあったし、しなくてもいいだろうという仕事も生活のためにしたりした、そんなような1年だった。それでも、なんとか生き延びることができて、こうして無事に新しい年を迎えられたわけだが、べつに年の区切りだからというわけではないにしても、2018年は、仕事もそれ以外も、いろいろと生きるスタンスが変わるような気が、いま、なんとなく、している。
 
2017年も、その前の2016年に引き続き、とにかく飲食物との関わりが多い日々だったが、その1年の終わりに、ここ近年の自分の中での議題だった、「食べ物との向き合い方」における、自分にとっての、「あるべきスタンス」のようなものが見えてきた気がした。
 
美味しいもの、というのはオレにとってはとても重要なものであり、また、美味しくないもの、というのは憎むべき対象ですらある。美味しくないと思うものはなるべく食べたくないし、美味しいものを食べるための努力は可能な限りは惜しまない、ということには、いまでも変わりはないのだが、以前にもこのブログに書いた「食はオレのファースト・プライオリティではないらしい」という問題についての、答えがやっと見えてきた気がした。
 
飲食店を経営したり、美味しいものを求めていろいろなお店に行ってみたり、いろいろな人の料理を食べたりした中で、食べ物の世界のことが、少しだけわかった。美味しいものを食べると幸せな気持ちになったり、嬉しくなったりするが、それと全く同時に、たかが食べ物じゃん、という気持ちがどこか自分のなかにあるということに気がついたりする。必要なものだが、目的ではない、ということなのだが、つまり、美味しいもの、というのは、ひとつの「必要因子」に過ぎなかったということに思い至ったのである。ある意味では、「健康」と近いニュアンスなのかも知れない。健康であることは必要かつ大切なことであるが、健康であることそのものを目的として生きているわけではない。言い換えれば、生きていくためには健康であることが必要である、ということになるわけだが、美味しい食べ物も、ある意味では、それと全く同じことだった。標準的な人よりも、食べ物に対する要求や要望が少しだけ多いかもしれないが、オレはべつにグルメでも美食家でもない。美味しいものを食べるためとはいえ、行列に並ぶことは厭うし、すべてを投げ打って美味しいものをたべたりも、多分しない。
 
贅沢な言い方かもしれないが、美味しい食べ物は、オレにとって、当たり前に必要なもの、ということだったのだろう。
 
話が反れたので話題を戻すが、そんなわけで2017年は、なんだかんだで、食と関わり続けた1年で、もちろん2018年も変わらずに継続する部分も多いとは思うが、マクロ的な見方をすると、飲食に関連することは、今後の生き方の主軸ではないと思っている。
 
それではなにが主軸になるのか、ということは、ここで簡単に書けるようなことではないし、自分でも、まだはっきりと明確にはわからない。でも、少しは見えて来ているような気がするし、いろいろなことに手を伸ばしてきた2017年と違い、今年は、すこし潜るように生きる、とでもいうか、跳ぶ前に、そのために、潜る、そんな1年になるような気がしている。一概にすべてがそうなわけではないが、物事との関わり方、他人との関わり方、いろいろと、ちょっと潜る1年なような気がしている。
 
そんなわけで、DIVE、なのだが、この1年は、その先の未来を見据えて動く、そんな1年にしたいと思った。
 
あまり抱負とかを考えたことのない生き方をしてきたというか、自分の人生を自分で定義するようなことに馴染みがなく、オレはこういうふうに生きるんだ、というようなことを殆ど考えたことがなかったのだが、今年はどういうわけか、そういうのとは関係なく、ほんとうに、どういうわけか、ふと、DIVEというキーワードが浮かんできた。
 
20代の最後でもあるし、実りのある1年にしたいと思う。
 

日々の糧について

まだ今年を振り返るのには少し早いが、この一年は、いろいろと変化の大きな年だった。

毎日が暇で家でゴロゴロして過ごしていたかつての日々が信じられないくらいには、毎日が忙しく、目まぐるしく過ぎていく。

少し前だったら、ふらっと休みを勝手に作って旅に出たりも出来たが、最近はその暇もなかなか無い。

でも、相変わらず、自分のやりたいことがなんなのか、自分の理想とするライフスタイルがどこにあるのか、なんとなく、判然としないまま、やっぱり日々が過ぎていく。

幸か不幸か、いろいろと仕事を頂く日々で、ギリギリだけど、なんとか生計は立てられているが、どれもこれも、もしもお金が伴わなかったらやっていないだろうな、と思うことばかり。まぁ仕事なんてそんなもんだし、仕事が仕事である以上、突き詰めて考えればそれは金を貰うためにやっていることだからだが、もちろん、働くからには楽しくやりたいし、実際、働くという言葉で子供の頃に自分がイメージしていたような、オフィスに朝から晩まで詰めて座っているというような姿からは随分とかけ離れた楽しい働き方が出来ているので、日々の仕事に、いまはそう不満はない。

理不尽なことを言ってくるような相手とはあまり一緒に仕事をしないで済んでいるし、極端に嫌な思いをすることも殆どない。寝る時間がとれないとか、休む暇がないとか、体力的にけっこうキツイことはそれなりにあるが、もっと若い頃に経験していたような、苦痛を伴う仕事をする羽目になることは、いまはもう殆ど無い。

それが、ぬるま湯、だからなのだろうか。とも思ったが、つらければそれでいいわけではないし、べつにそういうことでもないと思う。極端につらいこともないが、心からの充足感のようなものも、別に、無い。でも、ある種のヒリヒリとした感じ、能力の限界をギリギリ越えたところでの戦い、そういう感じに欠けているような気がする。

 

全く不安がないわけではないが、金銭的な面でも、なんとかなると思えるところではやりくりが出来ている。

自分に足りないものがなんなのか、自分がいま何を手にするべきなのか、わからない。

 

と、ブツブツぼやきながらも結局、毎日に流されて気がつけば時間は消費されていく。

 

ここ2年くらい、お酒の量が少しひどいような気がしてきた。絶対的な飲酒量で言えばもっとヤバイ人は世の中にはたくさんいると思うが、相対的な話しであれば、かつての自分の飲酒量を随分と上回るアルコールを摂取して暮らしている。

2013年くらいから禁煙に挑戦していたが、なかなか思うように煙草を手放すことが出来ず、一度はやめたりしたものの、また戻ってしまって、結局、完全に禁煙したのは2015年の春先くらいだった。努力や我慢ではなくて、考え方の転換で禁煙したので、ビックリするくらいにあっさりと禁煙できた。それまでの禁煙は、とにかく我慢、ここまで耐えたんだがらもうちょっと、というような苦痛を伴うスタイルでの挑戦だったので、いつも、持ち前の楽観的な性格を発揮して、ま、いま我慢しなくてもいっか、と言ってあっさりと禁煙は中断されていた。

それが、考え方を変えてみただけで、ほんとうに驚くくらいに簡単に禁煙できたわけだが、たぶん、煙草をやめたことと飲酒量の増加には間違いなく関連がある。それまではニコチンやタールの処理に使われていた体力が、アルコールの処理にまわせるようになった、ということなんだろうけど、飲める量が倍以上に増えてしまった。以前は、煙草を吸いながら飲んでいた、というのもあるかもしれないが、いまは、吐きそうになることが全く無くなった。気持ち悪くなったりもしない。流石にフラフラして寝るときもあるが、面白いくらいにどんどん飲めてしまう。それで、休肝日という概念がわからないくらいにはダラダラと毎日酒を飲んで暮らしている。ビールはコスパが悪いからといってハードリカーに手をだすようになったら、単純にアルコール量が増えただけで終わってしまった。

何故、そんなにも酒を飲むのか? たぶん、憂鬱で憂鬱で仕方がないからだと思う。べつに気晴らしがしたくなるような辛いことがあるわけでもなければ、特に憂鬱になるような理由も見当たらない。でも、そんな憂鬱になる理由が見当たらないそのことさえが憂鬱で、精神の制御を自分の外側に、つい、委ねたくなってしまう。

煙草も大麻もアルコールも睡眠薬もセックスも、この手のもののみんながそうだと思うが、自分の精神の制御(もちろん身体の制御も)を自分の手から離してみたくて求めてしまうのだと思う。長年の修行を経た特殊な人間とかだったら、自身だけのスタンドアロンの状態で、精神を高揚させたり、快楽を感じたりすることだって出来るかもしれないが、普通の人間にはそれは無理だ。

自分だけのスタンドアロンでは味わえないものを求めて、人は煙草とか大麻とかアルコールとか睡眠薬とかセックスとか暴力とかスピードとか破壊行為とかを求める。

でも、言ってしまえば、これらのものから得られる快楽なんて、みんな代用品みたいなもんなんだと思う。セックスも大麻もアルコールも、目的には成り得ない。手っ取り早く快楽を手に入れられるので、そりゃそこにそれがあれば誰だって手を出してしまうし、大麻とか睡眠薬とかはさておき(法律というものがこの世界には存在している)アルコールとかセックスがない暮らしは、オレは嫌だ。アルコールに酔うのはなんだかんだで楽しいし、セックスで得られる幸福も重要だ。でも、だからといって、セックスとアルコールだけが歓び、という暮らしはもちろん望んでいないし、そんなものだけで心から喜べる程、人間は単純には出来ていない。

美味しいごはんだってそうだ。自分の外にあるもの、つまりこの場合は食べ物がそれにあたるわけだが、食べ物だって麻薬とかセックスとかと同じで、それに触れることで、それなしでは得られなかった快楽を得ることができる。

しかし、美味しいごはんは生きる目的には成り得ないし、美味しいごはんさえあれば幸せに生きられるわけでもない。

日々の糧、というタイトルで本稿を書き始めた時、糧という言葉の意味を、今一度、辞書で引いてみた。ひとつめの意味が、食べ物、という意味。そして、ふたつめの意味が、そこから転じて、日々をつくるもの、というような意味だった。

オレの日々の暮らしの糧は、どこにあるのだろうか。なにがそれにあたるのだろうか。

快適な暮らしとか、美味しい食べ物とか、溺れるように飲むアルコールとか、素晴らしいセックスとか、そういうもの以外の何かでしか、日々の暮らしの糧を得ることは出来ないような気がする。

文章を書くことは、自分の考えに触れることだと思っている。オレはどちらかというと比較的あたまの回転が速い方なので、時々、文字を打つスピードが、考えるスピードに追いつかなくなることがあるが、それでも、こうして指先でMacBookのキーボードを叩いて文章を打っていると、そのうちに、ぼんやりと考えがまとまってきたりすることがある。

この歳になると、例えば10代の頃のようにああでもないこうでもないと思い悩むことも随分と減ったが、そういえば、あの頃も、いつもパソコンに向かって何かを書いていたような気がする。

ところで、いま、久しぶりにお酒を飲んでいない。なぜならこのあと運転するからなのだが、多分、帰宅したらまた飲むような気がする。どうかお身体には気をつけて欲しい、と他人事のように自分に言いながら、いまは酒を飲んで暮らしているが、これも別に、ぱったり飲まなくなるときがいつかふらっと来たりするような気もする。べつに酒が好きで飲んでいるわけではないのだから。

 

失われゆくもの

いつかは…とは思って覚悟はしていたが、いざ現実になってしまうとやはり悲しいものである。

この場所に通い始めてもう何年になるだろうか。

人生に悩み、恋に悩み、と言うとなんだか大げさだが、そんなふうになんだかモヤモヤしたりしたときには、夜中だろうと雨上がりだろうと、ここに来て、ひたすら壁に向かってボールをうち続けていた日々があった。

都内ではほぼ唯一とも言える、深夜にも打てるコートだった。殆どの壁打ちコートが、近隣住民のクレームの問題から、18時くらいをすぎると使用禁止になってしまうが、そんななか、誰も住んでいないこの陸の孤島のような公園の壁打ちコートは、24時間開放されていた。 

腕が上がる程に、少ない明かりでも安定してボールを打てるようになった。

下手くそだったころは、暗くなると全然ボールが続かなかったが、ある程度の上達を境に、真夜中でも楽しく打ち続けられるようになった。

壁打ちがどれくらいにテニスというスポーツそのものの上達に効果があるのかはわからないが、少なくとも、思っている場所にボールを打ち返せるスキルは、継続して壁打ちをしたことで、確実に向上した。

この公園には、海が見える謎の東屋のようなものがあって、昔はそこにおじさんが住んでいた。初めて訪れたのがいつだったかをはっきりとは覚えてはいないが、インターネットで地図をみて、自転車で来たりしていた高校生1年生くらいの頃だった気がする。たぶん、2004年くらい。その東屋で、夕日の中、高校生のオレは海をみていた。隣の隣のベンチには、夕日に染まったおじさんがいた。おじさんは確か本を読んでいた気がする。キャンプ用品だとかスーパーのかごだとか、そういう生活に使っている道具のなかに埋もれてベンチに座り、本を読んでいた。ホームレスのひとも本を読むのか、とそれを見てその時のオレは思った。どんな本を読んでいたのかが気になったが、たしかわからなかったし、その時わかっていたとしても、詳しくはもう覚えていない。

その後、公園の改修工事でその東屋が閉鎖されてしまい、おじさんはいつのまにかテニスコートの脇に引っ越していた。新たな場所に立派なテントを建てて、そこで暮らしていた。テントの前にはタープのような屋根のついたスペースがあって、そこには調理台や水タンクなどもあって、おじさんは料理をしたりしていた。昼間には自転車で空き缶集めに出かけたりもしていたようだった。おじさんのテントにはラジオもあったし、蚊取り線香もあった。夏の暑い頃には、テントの外にキャンプ用のベンチを夜通し外に出して、おじさんはそこで寝ていた。

自主制作の映画を作ろうと言って、そのロケ地としてこの公園を使ったこともあった。夏の暑い日で、傾きかけた午後の日差しの中にビー玉が輝いていた。出会って間もない、まだ10代だったあの子もいた。

それから、そのもっと前には、ミクシーで出会った、アラバマというハンドルネームの女の子と真夜中にこの公園にきて、ギターを弾いて一緒に歌を歌ったこともあった。ギターにあわせてブルーハーツとかハイロウズとかをふたりで歌ったその翌朝、オレは荷物でパンパンのホンダ・フィットに乗って、栃木の足利市に、2輪の合宿免許に行った。足利では毎日温泉に入って峠道をフィットで攻めてブックオフで買った小説を読んで部屋の暖房をがんがんにかけてベロベロになるまでひとりで酒を飲んでいた。そのアラバマというハンドルネームの女の子とは、その夜以来、会ったことがない。

晴海埠頭客船ターミナルは、中学生のころに、ゆうきまさみの漫画で知った。機動警察パトレイバーの最終局面のワンシーンに登場していた。嵐の中、豪華客船に乗って逃亡しようとする内海をSSSのジェイクが撃つシーンの背景になっていた。漫画の中に登場した施設がこの施設だったということを知ったとき、記憶のなかでモノクロだった円形のベンチの色が、実物では朱色で、そのときの色のインパクトは、けっこう大きかった。

バイク雑誌の編集者をしていたころには、ロケでもよく来ていた。もう何年も前に閉店したが、まだそのころには客船ターミナルにレストランがあって、ロケの昼食をそこで食べたりしたこともあった。

前置きが長くなったが、そんなふうに昔から来ていた、かつては東京港の玄関だった晴海埠頭の公園、晴海ふ頭公園だが、2017年の10月1日をもって休園になったらしい。

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平素より晴海ふ頭公園をご利用いただき、ありがとうございます。
晴海ふ頭公園は、平成29年10月1日より休園となりました。

長らくご愛用いただき、誠にありがとうございました。

 

晴海ふ頭公園は東京2020大会で選手村エリアとして使用されたのち、水辺の魅力を活かした開放的な緑地・広場を配置するなど、皆様に一層親しまれる公園へとリニューアルし、再び開園する予定です。

再開園の時期については決まり次第、別途お知らせいたします。

公園利用者の皆様方には大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解のほどお願いいたします。

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と、公式HPには書いてあったが、この休園というのは事実上の廃園に等しい気がする。

同じような設備はもう戻らないだろうし、壁打ちコーナーも、たぶん、もう出来ないような気が、なんとなくする。

意味もなく広いバーベキュー広場や、枯れた噴水や用水路、謎の橋、そういう無駄なものにに溢れた公園だった。開園したのは1975年らしい。そのころの晴海エリアがどんなふうだったのかは知らないが、たぶん、埋め立てた土地が余っていたんだろうなという気がする。客船ターミナルは91年の5月に供用を開始している。バブル期に設計・建設され、バブルが弾けた直後にオープンした、ある意味で悲劇の施設なのかもしれない。

晴海ふ頭公園の前の道路は、長らく、駐車禁止の規制がなかった。都内では珍しく、車を停め放題の道路だったのだ。車で遊びに来たときはいつも停めていた。真横には白バイの訓練施設があって、訓練する白バイたちを苦い気持ちで眺めながら車を停めていた。

 

ついこの間も、ここに壁打ちに来たような気がしていた。

昨日の夜、帰り道にすこし寄って壁打ちをしようと思ったら、完全に閉鎖されていた。

正直なところ、けっこうショックだった。もうあのコートでは壁打ちも出来ないのかと思うと、寂しいし、悲しい。

さようなら、ありがとう、晴海ふ頭公園。

 

オルガ・キュリレンコが美しい

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設備工事をしたり料理をしたり片付けをしたりしてシャワーを浴びたら眠くなってしまい、22時前に寝てしまい、目が覚めたら深夜だったので、とりあえず映画を観ることにした。

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最近はなんだか妙に忙しくて、随分とブログを書いたりもしていなかったが、映画を観たりもしていなかった。暇そうな暮らしをしている割に、案外、やることがあったり、仕事があったりで、そうやってバタバタと過ごしていると、映画を観る余裕も生活から消えてしまいがちな気がする。そんなわけで、早く寝すぎて目覚めた深夜というエアポケットのような時間は久々に映画を観るのにちょうどいい感じだった。

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例によってプライムビデオを開いて物色していたら、「スパイ・レジェンド」という(まぁひどい邦題)作品を見つけて、いい感じだったのでそのまま観た。

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主役にピアーズ・ブロスナンが起用されていて、幼少期に彼の007シリーズのファンだったわたしとしては、とりあえず観ておきたいところだな、と思ったのと、オルガ・キュレリンコでてるじゃん! というのが視聴の動機。

 

まぁ映画の内容は、いろいろと都合のいいシナリオだなぁ感は否めないものの、サクサクと小気味よく進むし、ちょこちょこ演出もかっこいいので、いい感じ。一番の感想は、オルガ・キュリレンコやばくない?? 美しすぎない?? すごいわぁ…

 

どう形容したらいいのかわからないけど、たぶん、好みのタイプなんだろうなぁw

あと、他にも何作かオルガ・キュレリンコが出てる映画は観ているが、この映画はドンピシャでその魅力がフルに発揮されていた気がした。

 

引退したスパイ、という設定がピアーズ・プロスナンにぴったりだし、昔の恋人の名前がナタリアだし(ゴールデンアイに出てきたのもナタリア)なんか出だしの曲もちょっと007のテーマに似てるし、作品そのものに対する突っ込みはちょいちょいあれど、まぁ嫌な作品ではない。

たぶん、オルガキュレリンコみたさにまた観ると思う。

 

ちなみに、原題は「The November Man」

彼が通った跡には草一つ残らない、というところから、11月、ということらしいが、まぁ確かにそのままじゃ日本では理解されないよなぁ…。

 

 

 

料理ブログ〜鰤の塩焼き、柑橘、マヨネーズ、塩、米炊き、の話〜

久しぶりにけっこう真面目に料理をした。テクニカルな面で、いろいろとアップデートがあった気がしたので、また例によって食い物の話なんですが、ごちゃごちゃと書きます。

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三茶に行った帰りにうっかり立ち寄ったスーパーで、良い鰤を買ってしまったのがことの発端。前からよく買っていたが、小田急OXのふた切れで750円くらいする高い鰤を買った。まぁ、わたしはいつも閉店間際に半額で買っているのだが、とにかくいつも良い鰤が買える。今回の鰤は土佐の「黒門ぶり」というブランド鰤。オ◯ゼキとかで安く売られているそのへんの鰤とは比べものにならない高品質さで、臭みの少なさや風味の良さなど、本当に最高。宮崎の鰤も美味しくて好きだが、高知の鰤も美味しいね。ちなみに、鰤の旬は本来は冬だが、この手の養殖ぶりは、産卵期をコントロールしてずらすなどして、夏でも美味しく食べられるように計算されて養殖されているので、夏の鰤とは思えないくらいにしっかりと良質の脂がのっている。

 

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そんな鰤は塩焼きにした。照り焼きにするのはもったいないくらいの鰤なのよね。生の切り身の表情だけでそれがわかるくらいには良い鰤。
2切れあったので、焼き方を少し変えて比較してみたところ、その焼き上がりに、顕著な違いがあってとても面白かった。

まず、1切れ目は、表面の香ばしさが強い焼き上がりを狙うことを優先し、タンパク質の熱変性の特性を考えると強火を使うのは好ましいことではないと知りながらも、強めの火で両面をサッと焼いて、弱火で仕上げてみた。
素材が良いし、もちろん美味しいのだが、この焼き方だと思っていたよりもずいぶんとパサついた焼き上がりになってしまった。

そこで、2切れ目は、とにかく終始弱火で焼いた。表面の焼き目は確かに1切れ目に比べるとわずかに弱い気がしたが、しかし、フライパンの上で不必要に動かさなければそれでも十分に焼き目はつくし、驚くべきことに、1切れ目に比べて大きく香ばしさで劣るということも無かった。メイラード反応をねらって強火にするのはやはり意味がないのか?? 火力かける時間、という式で考えると、やはり、火力ではなく、時間で熱量をかせぐべき、ということなのかもしれない。

しかし、その焼き上がりの美味しさは、本当に歴然の差。2切れ目は、しっとりととろけるようなテクスチャーに仕上がっていて、この鰤の旨さが最大限に発揮された焼き方だと思った。鰤そのものの風味や香りもかなり違う。たしかに、表面のカリカリ感は1切れ目のほうが良かったが、それに伴うネガのほうが多いので、強火を使う調理は、トータルでは、良い方法とは言い難い。弱火でしっかりと焼き目をつける焼き方を次は模索してみたい。油の量とか、酒の使い方にヒントがあるような気がする。

とはいえ、低温で焼けばジューシー、というのは、たぶんすべての鰤に通じるわけではなく、そのへんの安い鰤だと、どんなに低温で焼いてもこんなにしっとりなめらかには焼き上がらないだろうな…とは思うが。

 

ちなみに、火加減も大切だが、鰤を焼く時の最大のコツは、下ごしらえにある。

パックから取り出したら、両面に塩を振って表面によくなじませて、10分くらい放置しながら両面をキッチンペーパーで挟んで滲み出る水分を吸いとる。そして、焼く直前に、バットに並べて熱湯をかけて、いわゆる霜降りにする。さらに水分をペーパーで吸い取って、さあフライパンへ、というこの下準備で、劇的に臭みが減る。

焼くときは、前述の検証からもわかるように、絶対に強火にしないこと。油は米油か太白胡麻油をうっすらひくのが良い気がする。フライパンに乗せたら、ひっくり返すとき以外は動かさない。焼き目がついたらひっくり返して、鍋肌に料理酒を垂らして蓋をする。

焼き時間の加減は慣れと勘。笑

弱火で焼き目を、という課題をクリアするために、近いうちにまた試したい。

 

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お米も、最近、炊きまくってるので上達した。コツは、水分が残ってるうちにしっかり強めの火にかけて、米に吸われていない水分がなくなったら、火を弱めて、可能な範囲で慎重に火を強くすること、かなと思っている。はじめの炊きが不十分だと、水分がなくなってしまってからでらはもう取り返せないので、それだと妙に固く炊きあがってしまったりする。ふっくら仕上がらないのだ。水分が足りなくなってから強く炊くと、当たり前だか、焦げる。笑

ということで、どれだけはじめに強火で炊けるかと、どこで火を弱めるかが、ポイント。たぶん。

米炊きは毎回が真剣勝負で、どういうわけか、全く同じ炊き上がりというのはまずないので、奥が深い。これからも精進したい。笑

 

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肉厚の原木椎茸は、魚焼きグリルで焼いた。

なかはしっとりジューシーに、表面はかりっと香ばしく焼き上げた椎茸は、あたりまえだが、うーん美味しい美味しい。

ちなみに鰤にも使ったが、柑橘の味比べもした。
かぼす、すたち、へべす、という3種類が手元にあったので、味をしっかり比べてみた。

 

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🍊かぼす(写真左下)
風味が一番強い。えぐみや苦味も強い。強めの食材に合いそう。

 

🍊すだち(写真右)
シャープな酸味。かぼすほど風味は強くないがそれなりに主張は強い。一番幅広く使えそう。

 

🍊へべす(写真左上)
ほかの2品種にくらべて圧倒的にマイルドで、ジューシー。果物感がしっかりある。臭みをマスクしたりするような使い方には向かなそうだが、食材の風味が一番活きる印象。
ちなみに、平兵衛さんという人の庭で栽培されていたからへべすという名前になった日向産の果実らしい。

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鰤の塩焼きと、グリル椎茸とでそれぞれを試したが、今回の食材は、両方ともへべすが一番マッチしたと思った。

鰤も椎茸も、素材に臭みや癖が無いし、それぞれの風味がしっかり自立しているので、ぶつからずに味を引き立てるべべすが優勝だった。

 

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あと、ついに、あの松田のマヨネーズを買ってみた。先日、インスタでも紹介した樋口直哉氏の著書に登場したあのマヨネーズだ。せっかくなら味を比べてみようと思い、辛口と甘口、両方を買ってきた。
開封して、味を見てみると、いままでのマヨネーズではありえない、経験したことのない奥行きのある味わいに、ただただ驚いた。なにこれほんとに美味しい。とにかくさっそくもっと試して見たくなり、思わず、セブンにジャガイモを買いに走り、そのままポテサラを作った。

 

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ポテサラは、マヨネーズの味を活かすためにも、また、マヨネーズに十分に風味があるため、具材はジャガイモだけ。切って茹でたジャガイモに、マヨネーズをなじませ、薄口醤油、塩、オレガノ、ブラックペッパーで味を整える。甘口と辛口と両方を試したかったので2種類作った。
そもそも、辛口と甘口、マヨネーズそのもの味の違いは、辛子の量が違うことらしいが、辛口と言えどもべつに辛いわけではなく、本当に、風味の差、というレベルでの違いだった。慣れないと、ブラインドテストでは両者を比較しなければどっちがどっちなのかわからない気がする。
第一印象では個人的な好みにおける評価では辛口が優位だったが、甘口も美味しいし、悩ましいところではある。

 

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そういえば、塩はさいきんはこれを愛用している。特に高くないわりに、美味しい気がする。

塩の製法にもいろいろと種類があり、とても奥が深い。スーパーの食塩売り場にいくと、本当ピンからキリまでいろいろあるが、とりあえず、価格と品質のバランスが一番良い気がしているのでヨネマースをいつも買っている。通常、キロ200円前後の塩は、ほとんどがイオン膜をつかった製法によるものだ。イオン膜をつかった製法は、海水を電気操作して塩化ナトリウム水溶液を作り、それを煮詰めて塩を作る製法なのだが、日本の海水を使っているので、国産塩! などとこれ見よがしにパッケージに書いてあるのだが、しかし、塩化ナトリウム以外のミネラルが殆ど残らない製法なため、仕上がる塩にはミネラルが入っていたとしても、人口のへんな塩ができてしまう。

ヨネマースはそれに対して、再生自然塩といわれるもので、輸入した安価な天日塩を、にがりと合わせて海水に溶かしてから煮詰めることで、ミネラル分も含む仕上がりになる製法だ。言ってしまえば、精製塩と同様、ある種の工業製品なのだが、しかし、ミネラルを含むかどうかということでは精製塩とは大きく違う。味も、体への影響も。

海水をひたすら煮詰めた天日塩というものもあるのだが、たいてい、かなり価格が高い。ということで、わたしは日々使うのであれば再生自然塩が良いと思っている。伯方の塩とかもこのジャンル。精製塩は辛いだけで美味しくないし、そのくせ再生自然塩とたいして値段も変わらないのでほんとうに選ぶ価値がない。それなのになぜこんなに普及しているのかといえば、1972年に施行された法規制が関係していのだが、この話は書き始めると長いのできょうは書かない。笑

塩を買うときは、裏面を見て、とにかくイオン膜もとかイオン交換膜とか書かれていないものを選びましょう。イオン交換膜で作られた塩が全て悪いわけではないのだが、けっこう複雑な構造の話になっていてややこしい。わたしも、もっと勉強したい。

塩の話は、調味料の話題の中ではかなりファンダメンタルなテーマだし、かつての法規制との関係などもあり、かなり根が深いので、またいつかもっと詳しく書きたい。

 

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話が逸れたが、あとは、おかひじきのおひたし、マッシュルームの味噌汁も作った。
おかひじきは茹で加減を間違えないことがポイント。茹でたりないと硬いし、茹ですぎると食感が悪くなる。
マッシュルームの味噌汁は、想像以上にマッシュルームの出汁が強いので、それに負けないような強い味噌とか出汁を使ったり、ネギなどの薬味をしっかり入れたりするのが良い気がした。

そんなわけで、ひさびさに充実した料理をした。食への向き合い方、取り組み方は、相変わらず、いまだ日々いろいろと模索し続けてしているが、良い材料を、手間を惜しまずに調理して、存分に味わうのって、なんだかんだで至福なのかもしれんな、とか思ったりした。

 

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残った白米は、翌朝、いつもの薬味チャーハンにした。

溶き卵に白だしを少しいれ、冷蔵庫から出したご飯をよくなじませる。

フライパンに油をひいて、投入。弱火で火にかけ続けながら、刻んだ生姜、みょうが、ネギ、などを、いれる。薄口醤油で塩分をととのえて、盛り付けて、鰹節をのせる。ブラックペッパーとゆず七味をお好みで。うーん、美味い。笑

 

 

 

ため息がでる豆腐、言葉を失う納豆

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きのう、いい豆腐と、いい納豆を買った。労働してお金を稼いだので、ささやかな贅沢。笑

 

帰宅してビールをあけて、まずは豆腐から食べた。

なんなんだこの豆腐は。

ほんとうに。

こんな豆腐は、いままで食べたことがなかった。

三之助ブランドで豆腐を製造販売している、もぎ豆腐店の最高級豆腐、只管豆腐。

只管と書いて、ひたすら、と読む。詳しくはHPにも書いてあるが、職人技の真髄を詰め込んだ豆腐。なんというか、進化系の豆腐だ。

わたしは、豆腐の味を確かめるときは、まずは何もつけずに、そしてつぎに塩をふりかけて食べる。何もつけずに食べることで、その豆腐の味の濃さや風味の特性がわかり、塩をつけて食べることで、どういう味わいになるのかを想像することができる。それから、薬味や醤油を試すのだが、この豆腐は、何もつけずに食べたとき、その味に、思わず息を呑んだ。

なんだこれは…。

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まず、食感から違った。見かけは木綿なのに、まるで絹のような、いや、絹を越えたなめらかさ。個体として存在していることが不思議に思えるような舌触り。木綿とは思えないテクスチャー。個人的には木綿のほうが絹よりも好きなのだが、いままで食べたことのある、どんな木綿とも、どんな絹とも違う食感だった。くちのなかでとろけるようにほぐれ、喉を滑り落ちた後に、ほのかでやさしい、しかし、端正な香りが鼻腔に残る。なんだこれは…。ひとりのキッチンで、ほんとうに声に出してそうつぶやいてしまった。もちろん、味もすごい。濃厚なのにしつこくない風味、絶妙な甘み。

たまらずに、すぐにもう一切れを手に取り、塩を振って食べてみる。塩分が加わることで、味の輪郭がよりはっきりする。大抵の豆腐は、うま味や香りとともに、雑味や臭さも感じることが多い。醤油で食べるとマスクされてしまうような味がはっきりと見えてくる。それが、この豆腐は、雑味や臭みが一切なかった。言ってしまえば、味の濃さや強さが、絶妙なのかもしれない。濃いだけの豆腐、というのも多い。もちろん、濃いことは悪いことではないのだが、街の豆腐屋に多い気がするが、香りやうま味も強いが、雑味や臭さがちょっと強すぎると感じてしまう豆腐がある。

この豆腐の凄さは、香りやうま味は十分すぎるほどにあるのに、大豆特有の生臭さのようなものが全く無く、それから、その味に濁りがないこと。こんなに澄んだ味の豆腐は、ほんとうに、初めて食べた。

そして、みょうがと醤油で食べてみる。普通に美味しい。しかし、豆腐の味が繊細なので、薬味の必要性に疑問を感じる。この豆腐に、薬味は要らないかれない。

豆腐といえば…やっぱり鰹節。

荒節と本枯節と両方持っているので順に試してみた。まずは荒節。そりゃもちろん美味しいのだが、わかっていたことだが、荒節の味が強すぎる。ちなみに醤油はヒゲタの単なる普及品。

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そして、いざ、本枯節。切った豆腐に本枯節をひとつまみ乗せて、醤油をかける。

ため息がでた。笑

本枯節の真髄を発揮、とでもいうか、荒節に比べて穏やかで繊細な味わいの本枯節の風味が、このデタラメに美味しい豆腐と、綺麗にマッチして、驚きの美味しさになっていた。

この食べ方が、一番しっくり来たので、残りは全部この食べ方で食べた。あっという間になくなった。

豆腐一丁でこんなに歓びを味わうことができるのなら、安いもんかもしれない。

ちなみに、この豆腐の気になるお値段、584円である。(400g)

スーパーのその辺の豆腐と比べると、驚きの価格だが、一食の価値はあると思うし、奇をてらった妙な豆腐ではなく、その味わいや食感はいささか特殊ではあるが、日常の豆腐の延長線上にある豆腐なので、金さえあれば日常的に食べたいと思うような商品だった。

木綿なのに、絹よりもなめらか。

技術的なことはわからないが、とにかく美味しかった。なんなんだこの豆腐は。

 

一緒に買った納豆は、下仁田納豆。ここの社長の南都隆道さんは、もぎ豆腐店の先代社長の茂木稔さんとは、商売上の弟子、のような関係だったらしい。納豆のパッケージの中には、三之助ブランドの醤油が入っていた。

包装を解くと、納豆たちは、発泡スチロールでも紙でもなければ藁でもなく、経木(きょうぎ)に包まれていた。

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経木をそっとめくり、一粒たべてみる。

ぬおおお…。

いままで食べていた納豆は…? なんだったんだ??

うま味、甘み、香り、歯ざわり。

なにも味をつけていないとは思えないくらいに、しっかりと味のある納豆だった。

こちらも、豆腐と同じく、塩で食べてみる。

雑味がなく、澄んだ味。すごい。豆腐も納豆も、ほんとうに、この人達はなんなんだ…。笑

こんな味の豆腐や納豆が世の中に存在していたのか、と思うと食べていて鳥肌がたった。

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付属しているのは醤油と、粉からし。デタラメなマスタードもどきのからしや、アミノ酸調味料がどっぷりのタレが添付されているそのへんの納豆とは、もうこれだけで風格が違う。笑

逆に言えば、市販の納豆は、醤油だけではうま味が足りないから、いろいろとわけのわからないものがごちゃごちゃ入ったタレを使うことになるのかもしれない。

この納豆は、そのままでも驚くほどにうま味があって、付属の醤油をすこし垂らして食べてみると、それだけで十分すぎるくらいに美味しかった。

納豆の正しいとされる食べ方は、糸を切るようによく混ぜて、糸が落ち着くまで少し時間を置いて、それから食べる、というものらしい。

ものは試しでその通りにして食べてみたら、たしかに、うま味が更に増えたように感じられた。

混ぜてすぐにそのまま食べたときは、逆に味が強くなりすぎて、混ぜずに食べたときのほうが美味しく感じたが、混ぜてしばらく置いてから、醤油を垂らして、辛子をすこし混ぜて食べると、もう、最高の味だった。

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和からし、あまり馴染みがなかったが、ツンとするその辛さはスッキリ尖っていて、なんだかわさびに近い感覚だと思った。

 

この豆腐と納豆の組み合わせは、樋口直哉さんの著書、「おいしいものには理由がある」で読んで知った。(是非読んでほしいオススメの一冊)

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しかし、わたしは情報やストーリーを食べているわけでは無いし、SNSにアップするために食べているわけでもないので、どんなに本でよく書かれていても、食べてみて美味しくなかったらこんなには絶賛していないだろうと思う。

豆腐も納豆も、期待通りの、期待以上の、美味しさだったので、流石は樋口さんだなぁ、と思った。笑

本に登場したほかの食品もまだまだ食べてみたい。

 

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豆腐と納豆を食べおわったあとは牛肉を食べた。前夜に、両面に塩を振ってペーパーで挟んで冷蔵庫に入れて、簡易エイジングしておいたら、びっくりするくらい美味しくなった。

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塩味はついているので、オレガノとブラックペッパーを振って食べた。それから、納豆についていた三之助の醤油と和からしで食べたら、さらに最高だった。簡易エイジングすることで、たぶんだけど、肉の水分が減って、味が濃くなり、なま臭みが減るみたい。下ごしらえって大事だなぁと思った。

 

 

 

 

日常に潜む発達障害的要素

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お酒を飲みながら深夜に書きなぐったらちょっとしたレポートのような日記になってしまった。4500文字…笑

別に発達障害だと診断されたことはないが、自身の言動や生き方を振り返ってみると、明らかにいわゆる「標準」的なそれから大きく逸脱しているケースが多く、ここ最近は、自分はある種の発達障害なのではないか、と考えるようになった。
 
とはいえ、脳生理学的な診断があったわけでもないし、明らかにそう断定できるわけでもないので、そういう性格、そういう個性、というソフトウェア的な個体差、といった見方をすることもできるとは思うのだが、しかし、「ある種の発達障害」という視点で自分を俯瞰視すると、少しだけ、人生が進めやすくなるような気がする。
 
以前同居していた友人も、わたしとそのベクトルは異なるが、発達障害的要素をもっていて、折に触れてそういうテーマで議論を交わしたりはしていた。異常か正常か、という話ではないのだが、敢えて、そういう発達障害的要素を「異常」と呼ぶのであれば、彼の言動や思考構造には、わたしからすれば、社会通年や一般常識からすると「異常」に思えることも多く、彼が自身のことを、ある種の発達障害、といったように呼称することに違和感を覚えることはなかった。しかし、自分のことは、というと、ただの個性、ただの怠惰、という風に評価していたのだが、一歩引いて見てみると、オレもオレとてある種の発達障害、と最近は思えてきた。簡単に言うと、苦手なことやできないことを、努力や意識が足りないから苦手だったり出来なかったりする、とするのがソフトウェア的個体差とみなす考え方、器質的にそういったことが得意なように脳ができていない、とするのがある種の発達障害とみなす考え方だ。前者は、できるのにしていない、と考え、後者は、できない、と考える。もちろん、何でもかんでも発達障害で片付ければいいわけではないし、発達障害にも程度の差はあり、病理と呼称すべきレベルのものから、日常生活でのちょっとした不都合、という軽度なものまである。ある種の発達障害、と書いているのは、そういった含みからで、病理とは呼べないかもしれないが、日常生活での困難がある、というような程度のものを、わたしは勝手にそう呼称している。
それで、その発達障害的要素、というのは、べつに、悪いだけのものでは無いと思うし、大なり小なり、その方向性や程度に差はあれど、ほとんどの人がなんらかの発達障害的要素を持っていると思う。大切なのは、それを俯瞰視して把握できるよう努め 、その特性に合った、その特性を活かした、生き方をできるようにすることだと思う。
 
話は少し変わるが、自分の味覚や嗅覚の過敏さに嫌気が差すことが増えてきた。この味覚や嗅覚というのも、わたしの発達障害的要素の一つだ。適当なものを食べて、適当に美味しいと、まわりのひとたちと同じように思えないのが、けっこう煩わしい。自業自得なのだが、飲食店を経営したことにより、食に対する意識や思考が深まり、本当に美味しいものを本気で追求するようになってしまった。結果として、そのせいで飲食を生業とすることに嫌気がさしたわけだが、意識したことで、味覚や嗅覚が明らかに研鑽され、敏感になった。厳密に言えば、ハードウェア的な意味では味覚や嗅覚はそう大きくは進化してはないのだろうと思うが、味の経験値というデータの蓄積と、食材や調理法などのことを調べたりするようになったことといった具合に味のことを意識するようになったことにより、ソフトウェア的に進化してしまい、結果として、数年前よりも、明らかに味覚や嗅覚が鋭敏になったことを実感している。以前は、なんとなくまぁ美味しいかなと思っていたような食べ物を、いま改めて食べると、味の構造のアラや濁りを感じてしまったりすることが増えた。以前はタバコを吸っていたこともあり、いまよりも嗅覚や味覚が鈍くなっていたというのもあるとは思うが、それにしても、である。気軽な食事で満足できることが明らかに減ってしまった。美味しいと思って食事ができないのは味覚障害なのではないだろうか、と思ったこともあったが、本当に美味しいものは美味しいと感じるので、どうやらそうではないらしい。ところで、よくよく考えると、視覚や聴覚だってそうであるように、嗅覚や味覚も、他人がどういうふうに感じているのかを知ることは難しい。人は得てして、自分以外の皆も同じように感じているのだろうと思いがちだが、実際はたぶんそうでもない。色の見え方だって、音の聞こえ方だって、多分違うし、味の感じ方も、当然、十人十色。自分の味覚や嗅覚が過敏なのは、味や匂いのことを、意識したり考えたりするようになったからだ、と最近までは思っていたのだが、どうやらそうではなかったのかもしれない、という風に思うようになった。
 
スーパーテイスターという概念があるらしい。端的に言うと、味蕾の乳頭の数が、普通の人よりも多い人のことを定義する言葉らしく、アメリカで提唱されているらしい。通常の人よりも味を約3倍くらい強く感じるらしく、塩味や甘みはもちろん、特に苦味を強く感じるらしい。ちなみに、ネットで読んだ文献によると、ベロを食用着色料で青とかに着色して、味蕾の数を数える方法の他、500mlの水に砂糖を3g入れて甘みを感じるかどうか、という方法でも判別できるらしい。実際に砂糖3gの判別法を試してみたところ、本当にわたしがスーパーテイスターなのかどうかはさておいて、明らかに甘みを感じた。この程度の甘さなら、誰だって識別できるだろう、とわたしは思ったが、よくよく考えていると、もしかするとそうでもないのかもしれにない、と思えてきた。五感は人それぞれで、誰しもが同じように感じているわけではなく、500mlの水に3gの砂糖を、甘いと感じないひともいるのだろう。つまり、当然のものとしてわたしが感じ取っている細かな味の差異などは、通常の味覚の人には、そもそもわからないのかもしれない、ということに気がついたのだ。よく言われる、舌が肥えている、というのとはまた違う問題なのかもしれない、ということだ。舌が肥えている、というのは、ソフトウェア的な話だ。美味しいものをたくさん食べてきたことで、美味しい味のデータが蓄積され、また、食に対する意識が高まり、程度の低いものを美味しいと思えなくなることを、舌が肥えていると表現できるだろう。しかし、わたしはそこまで美味しいものばかりを食べて育ったわけでもなければ、高いものばかりを食べて暮らしているわけでもない。舌が肥えている、と言われることに疑問を感じ続けてきていた。
 
わたしは、人工甘味料とか人工調味料とかがとにかく苦手で、なぜ苦手なのかを長年考察してきた。
人工甘味料は、生理的に無理なようで、ジュースなどの少しでも入っていると不味くて飲めない。最近はめっきり甘い炭酸飲料は飲まなくなったが、ダイエットコーラとかそういうような人工甘味料入りのジュースは、ほんとうに味覚が受け付けず、うっかり買ってしまうと、ひとくち飲んで、顔を歪めて、毒づきながらあとは全部捨てることになる。それくらいに人工甘味料が苦手で、少しでも添加されていると違和感を感じる。
人工調味料、いわゆる味の素、アミノ酸グルタミン酸ナトリウム、だが、これも、あまり得意ではない。食べていて、なんだか美味しくないな、と思うと大抵入っている。しかし、こちらは、人工調味料と違って、味が嫌いなわけではない。問題なのは濃度だ、ということが、いろいろと考察した結果わかった。もともと、グルタミン酸ナトリウムという成分は、昆布のうま味の主成分だ。昆布のダシは苦手ではないし普通に美味しいと感じる。ではなぜ味の素が無理なのかというと、結局、濃すぎるからだ、ということがわかった。市販のめんつゆなどには、大抵、味の素が入っている。通常の規定量の水で薄めた時、味の素の味しかしなくてわたしは美味しいとは思えないのだが、それを更に水で薄めて、いい感じのところで醤油で塩分濃度を通常値くらいまで調整してあげると、なぜだか、美味しく感じる、ということが実験の結果わかった。味の素が入っていることが問題なのではなく、味の素は味が濃すぎる、というのが、わたしが味の素が苦手な理由だったと結論づけることができた。
それから、濃すぎる味のものも苦手だ。とんかつソースもあまり使わないし、ガッツリ強烈なにんにく味も得意ではないし、ラーメンのスープなども外で食べると大抵は濃すぎると感じてしまう。世の中の指標で言う薄味が、おそらくわたしにとってのちょうど良い味付けだということが多い。
 
こういった一連の食の話を、しばらく前までのわたしは、ただの嗜好だと思っていた。器質的にもどちらかと言えば味覚は敏感なほうではあるだろうが、それよりも、後天的な食経験や、食という文化を、意識しているかどうか、ということの問題なのだと思っていた。
 
しかし、スーパーテイスターという概念を知り、とても腑に落ちた気がした。
嫌な言い方かもしれないが、わたしが特に美味しいと思わないものをほとんどの人が美味しいと評価する。わたしが60〜80点くらいだな、と思ったものを、ひとはとても美味しい、と評価する。しかし、わたしが100点だと思うものも、人々は、60~80点と同じ「とても美味しい」と評価する。そんな味の違いもわからないのか、と驚き、その相手の味覚がおかしいのではないのだろうか、とさえ思うこともあったが、そう、おかしいのはこちらだった。
 
味蕾が多ければそれだけでいいわけでもないだろうし、わたしよりも敏感な嗅覚や味覚を持つ人は世の中にたくさんいるだろうとは思う。べつに自分の味覚が「神の舌」だとかは思わないが(笑)しかし、生活の中で、たとえば、自称グルメの人が初歩的な味の差異を感じとれなかったりするのを見るとなんだかがっかりしたりとか、味の濁り(香りつけが上手ではない、臭みの処理ができていない、調味料の使い方が間違っている)を必要以上に感じてしまって皆と同じように心から食事を楽しめないことが多かったりとか、味覚が敏感であることでも、それなりに苦労もしている。コンビニに行っても、食べたいものがマジでない、とか。笑
 
飲食店を始めて、食と本気で向き合うようになったからそうなってしまったのだろうか、と考えていたが、どうやらそうではなく、そういう器質的特性だったのだろう、と最近は思えてきた。
 
発達障害の話から、味覚の話へ話題が大きく反れたが、人より秀でいてるものがあれば、人よりも劣るものだってあるわけで、わたしも、味覚が敏感なことと引き換えに、かどうかはわからないが、時間が守れないとか、何かを継続できないとか、そういう欠点もたくさん持ち合わせている。
 
自己の思考や行動の特性を、背が高いとか太っているとか、そういう外見的な器質のことと同じように、ソフトウェア的なこととしてだけ取り扱うのではなく、ハードウェア的なこととして捉えることは、冒頭にも書いたが、もしかすると、人生を、少し、生きやすくしてくれるかもしれない、と最近は思ったりしている。

 

トップの画像はこないだ久しぶりに作った角煮。美味しかった。