オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

3月3日

 ひさしぶりにつらつらと文章などをしたためようと思い、このブログを開いてみたところ、今年の1月に書いた記事があって愕然とした。書いたことを全く覚えていないのである。1月に書いたブログでも、なんだか彷徨っていたが、その様相はあまり変わっていない。そこそこ忙しかった2月が終わり、3月はやや落ち着いている。とはいえ、やることやタスクは山積みで、何も終わっていないに等しいのだが、なんでこんなにも時間が足りないのだろうか。

 都会に行ったり、田舎に戻ったりしながら暮らしていると、都市についていろいろ考えたりする。田舎は、良い。道も空いているし、どこに行っても、全てが、広い。東京での狭ぜましさからは考えられないくらいには、快適に過ごせるようにできている。このくらいが、人間にとっては最低限に必要なスペース感なのではないか、などと考えてしまう。しかし、都会に戻ると、それはそれで、納得してしまったりする。何もかもが狭いし、人も多いが、そこには、やはり、洗練がある。そして、何よりも、そこには、都市、がある。

 ふと気付いたのだが、想像と現実の乖離に悩んでいるのかもしれない。たとえば昔の歌とか小説とか映画とかで描かれているような世界が、目の前の現実には存在していない、そのことに戸惑っているのかもしれない。たとえば、雪降る旅館に泊まって、、みたいな様子を歌の歌詞などに影響されて想像するとする。しかし、いざそれを現実に体験してみると、たらふく食べて満腹で苦しくて寝る、だけだったりする。時間の概念の話も大きいかもしれない。歌や物語の世界では、ある意味で、時間が止まっている。瞬間を切り取っている、というその在り方の特色とも言えるかもしれないが、瞬間が、永遠になり得るのだ。誰も死なないし、誰も歳老いたりしない世界なのだ。しかし、現実はそうもいかない。時間は過ぎるし、歳も取る。祖父母が死に、両親が老人になっていく。宿に泊まっている一晩はあっという間に終わってしまうし、目が覚めて朝風呂なんぞに行っているとあっという間にチェックアウトの時間が迫ってくる。

 憧れであり、理想論でしかないが、なかなか暮れない夕暮れとか、なかなか来ない朝とか、そういうものに、いいなぁ、と思ってしまう。

 さっき、ふと思い出して、南こうせつの房総西線という曲を聴いた。喜多条忠が作詞している。しみる歌詞だった。現実世界ではできない、瞬間を永遠にすること。歌詞ではそれができる。小説でも漫画でもそうだ。

 瞬間を永遠に。なにかのヒントになりそうな気がしてきた。と、酔っ払いながらこれを書いているのだが。