それなりの執着、そのあなたの「それなり」は、どれくらい?
未だ、自分のファースト・プライオリティがわからない。
そんなもの、誰だってわからないのかもしれないし、わかろうとしていないひとだってたくさんいるのだろうとは思うけれど。
飲食に業務として関わるようになって、自分の「食への執着」というものが思っていたよりも強かったということを知った。それなりに美味しければなんでも良い、本当に美味しいものばかりを食べられるほど食に割けるリソースがいまは無いのでそういうのを食べるのは将来もっと稼いだら、そんなようないい加減な思想のもと、割合に適当な食生活をしていたのだが、健康(というよりかは体調を整えること)を考えたりするようになると、食べるものも変わり、そして、同時にそれは本当の美味しさがなんなのかを考えることにも繋がった。
ギトギトでジャンキーなラーメンとかを最近は食べなくなった。それは、食べたいけど健康のために我慢しているのではなく、別に食べたいと思わなくなったから。禁煙とか減酒も同じ。吸いたいと思わないから吸わないし、飲みたいと思わないから毎日は飲まない。
かといって、別にビーガンになったわけではないし、健康だけを信条に食を選んでいるわけではないので、肉だって食べるし、ヘルシーなものばかりを食べているというわけではないが、それでも、身体に入れる必要がないと思うものをあえて食べることが最近は限りなくゼロに近づきつつある。
出汁とか薬味とかお米とかの扱い、肉や魚とか加熱する温度や時間の加減、塩とか油とかの扱い、そういうことに気を使うようになってから、外食していて美味しいと思うことが減って、家庭では手に入りづらい珍しい食材とか、地場の旬の食材とか、そういうものくらいでしか心から驚いたり喜んだりすることが殆どなくなった。それ以外の要素、というと、調理の技術とか、調味料の選び方とか使いかたとかなのだが、どれもそこまで難しいことではない。誰にでもできることばかりではないだろうけれど、簡単なコツと知識、あとは慣れと気遣いがあれば、ある程度のレベルまでに限って言えば、ほんとうになんてことなく美味しい調理ができるようになる。ただ、世間の味覚の需要の傾向、とでもいうか、世の中が求めるおいしいの基準、においては、インパクトが弱いとウケが悪くなるので、強い味、強い旨味が良しとされてしまうことが多い。それは仕方がないことだとは思うが、ときに少し悲しくもある。
と、こんなことを書いているからには、これからオレは食を探求していくのだろうかか、といえば、もちろんそうではない。
食というのはとても大切なものだが、たぶんそれはオレのファースト・プライオリティではないのだろう。
つまり、食への執着、というのは、あくまでもひとつのファクターに過ぎないわけであって、食が最優先、ではないということだが、もっともそんなの誰にしたって同じかも知れなくて、料理人だから食が最優先かとか、自動車工だから車が最優先かとか、そうとは限らないだろうが。だから、オレは、食への、それなりの執着、があるということになるわけだと思うが、たぶん、その「それなり」の度合いがいちいち、少しだけ強すぎる、のかもしれない。というのは、食以外のことでも似たようなスタンスで取り組んでいる、取り組んできた、という物事がけっこう色々あって、それに傾倒しているときはそれが自分のファースト・プライオリティだと勘違いしそうになるが、結局そうではなかったことにしばらくして気がつく、というようなことをいままでに幾度となく繰り返してきた経緯があり、総じて、その「それなり」の度合いがいちいち強すぎたような気は確かにしている。
いまは仕事として食に関わっているが、この先もずっとそうだとは思えないし、こうやっていろいろなものを食い齧っては、これとても単なるひとつのファクター、とか言い続けるような人生の先行きを考えると、我が事ながら、少しだけうんざりする。
飲食店を立ち上げて、点が線になりつつある、と騒いでいたが、甘かった。
結局これも、ただの点、なのか…。
点が線に、線が面に。
そんな日が、果たして、来るのだろうか…?
写真は窓の目の前に山中湖が広がる、の図。
28歳になった
カート・コバーンが死んだのは27歳だよな、と相模原の方を車でうろついていた頃に、カーステレオから流れるニルバーナを聴いて考えた。去年の初夏だった。
25歳になったときは、そんなに感慨はなかった。まぁこんなもんか、ほんとうにそんな感じだった。27歳になったときも、それは似たような感じだった。なるべくしてなったような気がした、とでもいうか、26歳になってから1年が経ったので当然のように27歳になった。そんなような感じだった。
26歳になったときは、すこしだけ特別だった。26歳になる1週間くらい前のオレは、恵比寿の猿田彦珈琲の前で、将来をどうするのか、バイトだけでダラダラと食いつないでいくつもりなのか、学歴がなくても生きてはいけるかもしれないけれど人となりを他人に示すという学歴の効果はそう小さなものではない、おまえは無力で無能だ、そんなような現実を目の当たりにして、返す言葉もなくたじたじとしていた。そして、安直な答えだったかもしれないが、学歴の取得を目指そう、そう考えて26歳を迎えた。その26歳の誕生日から2年が経った。その間にできたこと、できなかったこと。
そんなわけで、タイトルの通りで身も蓋もないが、きのう、28歳になった。四捨五入すると30、そう騒ぎ始めて数年が経つが、いよいよほんとうに30に近づいてきてしまっている。やばい。
ミュージシャンたちがやたらと死にたがることで馴染み深い27歳を、この1年、なんとか生き延びられたわけだが、どちらかというと変化の大きな1年ではあった。でも、やってきたことが、選んできたことが、正しかったのか、間違っていたのか、未だにわからない。たとえば、会社員として就職していたらもっと安定できていたのではないだろうかとか、学費や生活費を借金しまくってでもさっさとフルタイムの学生になっていたほうがよかったのではないだろうかとか、いまでもたまに考えてしまいはする。正しいと思ったことを選んではきたつもりだが、当たり前だが人生はなにひとつとして同じコンディションでもう一度やり直すことはできないし、困ったことに、選んできた道の結果というものは、すぐには出てこない。
ところで、歳を重ねて、知見が広ると、世界との向き合い方も変わってきたりする。たとえば、よろこびの本質が変わってきたような気がしたり、といったようなところで、捉え方や感じ方が変わってきたりするのを感じる。16歳のオレは、人が生きる意味について、真剣に考えていた。誰もが一度は考えるだろうありふれた問いだが、16のオレは、その問いに、納得のいく答えを見つけることができなかった。考えてみると、16のオレは、大抵いつも退屈していた。なんか楽しいこととか無いですかねー? みたいなアホな言葉をバイト先のバックヤードで一回り年上の社員に投げかけたりして、退屈な毎日を過ごしていた。知らなかった世界が、少なくと今よりも多かった分、それなりに、いろいろなよろこびやときめきがありはした。手を繋いでデートしたり、それまで行ったことのなかったような店(居酒屋程度だけれど…)に行ってみたり、ひとりでオフシーズンの離島に行ってみたり、中学生までは触れることのなかった世界に少しずつ踏み入るようになって、確実に世界は広がっていた。それでも、どこかでいつも退屈していて、どこかで世界に対して絶望していた。世界に対する絶望、しかし、恥ずかしい響きである。
28歳になったいまは、世界に絶望したりしていない。世界に退屈する暇もない。ただ日々に追われて、疲れて、目指すべき目標への道のりの遠さに悲しくなって、酒を飲んで暮らしている。よろこびの本質。30歳に近づくということは、つまり、10代が終わって10年近い年月が流れたということにもなる。知らないことに限りはないし、マクロ的な見方をすれば、世界はオレの知らないことだらけだ。それでも、たとえば、10代の頃にはなかった自由や、10代の頃には知らなかった経験を経ている分、物事の感じ方や捉え方は、確実に変わってしまった。セックスを知らない童貞は、いつかするセックスに憧れて、触れたことのない女の身体に憧れて、胸を躍らせる。しかし、経験してしまえば、それはただの行為に過ぎないことを知ることになる。相手との関係性とか相手との相性による違いはあるし、細かいことを言えば体位の違いとか行為をする場所とか、そういうものでも違いはあるが、本質的に、セックスはセックスに過ぎないということを知ることになる。ほかのことだってそうだ。美味しい食べ物、美しい景色、素晴らしい音楽や映画や小説、速い車、良い仲間。世界が広がれば広がるほどに、レベルの高いモノやコトを経験できる。でも、本質的には、車は車だし、景色は景色、そして、食べ物は食べ物なのであって、簡潔な表現でいえば、どんなに満たされたとしても、同時に、どこかに満たされなさを感じてしまわなくなることはない。完璧に満たされることなどないのはわかっているし、満たされることがあるとすればそれは死ぬときだとオレは思っているが、世界を知れば知る程に、満たされることから遠ざかるような錯覚を覚えてしまう。目的地への距離が遠ければ遠いほど、その旅路は非現実的なものとして捉えられる。目的地までの距離が5万キロだろうと、4万9千キロだろうと、たいした違いではない。だが、千キロの距離と、2千キロの距離とでは倍も変わってしまう、そんなようなことなのかもしれない。歳を重ねて、知見が広がり、目標や目的への具体性が増すことで、余計にわからなくなるのだ。自分にとってのファーストプライオリティがなんなのか、なにを再優先にすれば自分は幸せになれるのか。そういうことが、わからなくなる。
セックスを夢見る童貞は、セックスさえできれば幸せになれる、セックスさえできればすべてが手に入ると思っているが、経験してしまうと、もっとセックスを経験したくなり、そのうちに、セックスですべてを満たすことができないことを知る。どんなにお酒を飲んで騒いでも、どんなに映画で感動したり笑ったりしても、どんなにのめり込むように小説を読んでも、それは同じだろう。
月並みな言い方だけれど、そんなわけで、28歳も頑張ります。世界が自分の力だけではどうにもならないことだらけで出来ているとしても、自分の力でなんとかなることは頑張りたいし、結果として示したい。頑張るぞ。まだ知らぬよろこびを知るためにも…。
S660に乗った話
先日、S660を乗り回す機会を頂いたので、遠慮無く乗り回してきた。借りていた時間は5時間くらいだったのだが、ほとんど休まず、ずっと乗り回していた。高速乗ってないし、近場を走り回っていただけなのに、返却したら走行メーターは90キロくらいになっていた。笑
いやはや、しかし、楽しくていい車だった。
まぁ荷物はほとんど積めないし、2人で出かけると本当に何も積めなくてびっくりした。
ボンネットのなかに申し訳ない程度のトランクスペースがあるが、取り外した屋根を収納したらもう何も入らない。笑
シートの後ろもスペース皆無なので、助手席のひとに膝の上に抱えてもらうしかない(実際そうした)
カメラバッグくらいは積めるだろうと思ったら、ほんとうにそんなスペースさえ無かったのである。
とはいえ、キビキビ走るし、グイグイ曲がるし、乗る喜び、走る喜び、みたいなのがすごくて、こりゃあみんな欲しくなるわなぁ、と思ったし、ホンダがホンダらしいものを作ってくれたということただそれだけで、素直に嬉しかった。
まぁいまおれがこれを買えるかっていうと難しいし、これはセカンドカーどころか3台目クラスだよなぁ、とディーラーのK氏とも話していたのだけれど。もはやバイクみたいなもんだよね、ここまでくると。
S2000はまだトランクあったからな…w
しかし、S2000よりもいいなぁと思ったのが、扱いやすいエンジン特性。
今回は嬉しいことにMTモデルを借りれたのだけど、乗り心地はまるでCVT笑
それはシフトチェンジが上手いからではなくて、エンジン特性がびっくりするくらいフラットだったから。
まぁ逆に、高回転でドカーンのVTECに慣れていると、物足りなさは否めないのだが、4000〜5000程度が一番美味しいところ、とのことで、その辺を意識すると、ちょい物足りないながらも美味しく走れる、というか、そもそもこれ660ccなんだったよね、ってなる。
つまり、軽自動車であるということを忘れてしまえるくらいの完成度、っていうことになるわけだ。
たしかに、乗ってるとき、物足りなさみたいなのはなかったわけではないけれど、軽だから仕方ない…みたいな諦めをほとんど感じなかったので、そう考えるとすごい。
CTVのほうが、メーカーの考える一番美味しいところを使ったシフトになっているらしいので、つぎはCVTも乗ってみたいかも。MTもシンプルで楽しかったけどね。
ちなみに買うとなる220万くらいらしい。笑
ぽんっと買って、適当に保管できる場所があるような生活したい。
まぁその前にとりあえずマイカーのシビックの足回りブーツの交換で4万、タイミングベルトとポンプ交換で10万と、さらには10月に車検と、いろいろ控えてるのでそんな金あるわけもないのだけど…。
深夜ブログ
2月29日、何年に一回の日なのかとかはよく知らないけれど、とりあえず、珍しい日なのは俺にだってわかる。しかし、2月29日に生まれてしまったひとは、いつ誕生日を祝ってもらうのだろうか、という話は当然のようにこの世の中では何万回と繰り返されてきているのだろうけれど、でもそう考えるとそもそも誕生日というのはその限られた1日しかないわけであって、毎年祝うのは単にそれをなぞっているだけ、つまりレプリカのようなもの、と考えると、べつに全く同じ日ではなくてもいいのかもしれないという気がしてきた。
深夜4時に帰宅して、ふと鏡をみると、なんだか自分の顔がとても消耗しているように見えた。何に消耗しているのかは知らないし、まぁそれなりに充実感のある日々を過ごしているとは思うが、とはいえ、なんというか枯れてる感じがしていて、はぁ俺もいつのまにかやつれた大人の仲間入りかぁ、とふと思った。
ブログに書くような話はこれといってないのだが、深夜なのでなんとなくいまブログを書いている。
お店を始めて、まかないも兼ねて以前よりも料理をすることが増えた。最近は鶏胸肉の研究をしている。いかに柔らかく、いかに美味しく、鶏胸肉を調理するか、という課題に勝手に一人で燃えている。
小説が読みたい。何を読もう。
真夜中の首都高速を眺めながら、弱い明かりの許で、静かに小説が読みたい。
椅子を買わなくては。
何を読もう。
深夜が、朝に、変わる。
明日、俺は、どう生きる。
なーんつて。
どうでもいいけどあした8時起きなんだよな。辛いいいい。
はぁ。
もう2月
真夜中の、キッチン
蕎麦屋のこと
近所に、気がついたら蕎麦屋が出来ていた。この街には、蕎麦屋がもともと二軒あった。週末になると行列が絶えない店と、駅からも近くてもう少し大衆的な店。両方共いったことがあるけれど、行列が絶えない有名店も、ちょっとべつにそんなにすごく美味しかったという記憶はないくらいには前に行ったきりだし、そもそも行列ができているだけで行く気が弱まる。もうひとつのほうは、店の佇まいからしてすこし風情にかけるし、ほんとうに可もなく不可もなくという感じでこちらもわざわざは行かない。つまり、蕎麦を食べようと思ったら、わざわざどこかに出かけなくてはならなかったのである。まぁとはいえ、両方共ずいぶんと行っていないので、そろそろ機会をみつけて行ってみようかなとは思う。発見があるかもしれないし。
美味しいと思う蕎麦屋はいくつかは知っているが、行きつけという程、よく行く蕎麦屋というのは、27年生きてきたうちで、考えてみるとまだない。
立ち食いそばにしたって、それなりの作法と流儀があると思っていて、個人的には、渋谷の嵯峨谷によく行くほか、たまに思い出したようにゆで太郎に行ったりするが、駅前にあるよくわからない蕎麦屋にはもう入れなくなってしまった。
これを書いていていま気がついたのだが、考えてみると、蕎麦に困っていたような気がしてきた。ちゃんとした蕎麦を食べようと思ったらわざわざどこかに出向かないといけないし、ちゃんとした蕎麦屋だからといって、蕎麦以外の部分もちゃんとしているとも限らない。
つゆとか、わさびとか。蕎麦屋の決め手というのは、じつはそういう蕎麦そのもの以外の部分にもあるのかもしれない。なんて思わない? 笑
蕎麦が美味しいのは、ある意味では当たり前というか、いや、当たり前ではないにせよ、期待して入るからには、ちゃんと美味しい蕎麦であって欲しいし、蕎麦がまずいのはマイナスになるくせに、蕎麦がうまくてもさしてプラスにはならないというか、そう考えると、蕎麦屋というのは損な商売な気がしてきた。蕎麦は美味くて当たり前、うーん、損だ。
ちゃんとした蕎麦屋に行ったつもりが、くさいわさびが出てきたりする。くさいわさびがなんでくさいのかはよくわからないが、スーパーのパック寿司についているわさび、ぜんぜんおいしくないあれ、あのくささ。立ち食い蕎麦とかでそういうわさびが出てきても文句はいわないし、むしろわさびを使わない食べ方を考えたりする。(かけそばを頼むとか、ごまだれで食べるとか、つけつゆに一味をいれてみるとか)
ちゃんとした蕎麦屋で、そういう残念なわさびがでてくると、ほんとうにそれだけで興ざめする。ネギもだけれど。
そんなわけで、近所にあたらしくできた蕎麦屋に、行ってみようと思いつつ随分と経ってしまっていたのだが、きょう、ついに行くことができた。
カウンターに腰掛けて、まずはせいろを食べなくちゃ、ということで、せいろをお願いする。すると、おろし板(鮫皮かな?)でわさびをシャカシャカと大将がおろしている姿を見て、テンションがあがる。この時点ですでに、美味いに違いない、という気がしてきた。そういえば、蕎麦屋でカウンターって珍しいかも、とも思った。なかなか手の内を見せていないお店のほうが多いし、普通だと、カウンターというより立ち食いテーブルになってしまうし。
どんな蕎麦が出てくるのか、おろしたてのわさびを前にわくわくしているときの写真が上のやつ。笑
そして、大将と話しているうちに、来た!!
シンプルで、なにも飾らない、ただの、せいろ。
良さ!!
もっとも、こういうシンプルなものほど、本当に難しいというか、スタンダード、無難、シンプル、普通、という形容詞がつくようなスタイルのものほど、より、本質が求められるし、飾りでごまかせない分、ハードルは上がる。
水加減、というのが蕎麦にあるのかどうかわからないが、べちょべちょと水っぽい蕎麦が出てくる蕎麦屋も少なくない。かといって、乾いているのも当たり前だけれどダメだけど、そんな水加減が、きょうの蕎麦は、絶妙だった。蕎麦は自家打ちとのことで、もちろん蕎麦そのものも、しっかりとしたクオリティなのだろうけれど、蕎麦そのもの以外の部分、つまり、茹で加減、水加減、薬味、雰囲気、そういういろんな要素で結局、蕎麦屋の価値は決まると言っても過言ではないような気がする。
食べながら、大将と、椎名誠の話をした。椎名誠のエッセイに、『殺したい蕎麦屋』というのがあって、そこに出てくる殺したい蕎麦屋は、気取ってるだけで箸で5回もすくえば蕎麦がなくなってしまうけちくさい蕎麦をだしてきた、というようなことが書いてあったのだが、きょうのお蕎麦屋さんは、ちょっと多めに盛ってくれた、と言っていたにしても、しっかりと食べごたえのある量だった。さらに、サービスでくれたお稲荷さんが、びっくりするくらい美味しかった。べつに普通のお稲荷さんかもしれないし、ただ、美味しく感じた、だけだったにしても、それでも、美味しかったんだからいい。ごまがご飯にまぶしてあって美味しかった。ふだん、わざわざ自らお稲荷さんを食べることはないし、あんまりお稲荷さんには興味がないのに、きょうのお稲荷さんは美味しかった。
そして蕎麦湯。蕎麦湯を飲むために蕎麦をたべているのではないか、と思うことがあるくらいには蕎麦湯が好きなのだが、器からして良い〜! かわいい。蕎麦湯自体は、あまり押しの強くない、ドロっとさの少ないタイプだった気がした。つゆとわさびとよくあってぐいぐい飲んでしまった。
最近は、外で食べ歩いたりするときの目線が、仕事のせいで、ちょっと変わってきていて、どんなジャンルでも、飲食店にはいると、以前よりも注意深く、つい色々と観察してしまう。会計はどうしてるか、とか、いろいろ見てしまう。
そういえば、ほめてばかりだと胡散臭くなるので、あえて苦言めいたことを書くしたら…
・価格が税抜き表記なら税抜きだとわかるようにしてくれると嬉しいかも
→その後、税込み表示に変わりました(2016年4月加筆)
・忘れただけだと思うけど、お冷/お茶をだしてもらえなかった笑
というのがあったのですが、まぁ読んでわかるとおり、まったく不満には思っていないし、近所にこんな蕎麦屋ができたのが本当に嬉しい、というのが本日の感想。笑
今年の7月にオープンしたそうですが、末永く頑張って頂きたい!!! つぎは鴨を食べたいな。
と、いろいろ書きながら思ったけど、飲食店を経営するというのは、思っている以上に怖いことなのかもしれない。
あらゆる人々に、なかば一方的に評価を下されるのってさ、考えてみると、けっこう怖くない?
あと思ったのが、税込み表記vs税抜き表記、ほんとうに難しいね…。
さらなる増税を控えているし、税抜きで書いておけば、増税しても関係なく過ごせるし、なにより、割安に感じてもらえるから、お店にしてみれば、税抜きで書いてあったほうが良いんだろうけど、消費者の側からすると、税抜きで書いてあると、いざ払うときに、なんだか化かされたような気持ちになるというか、逆に高く感じてしまう気がする。(俺だけか?)
なので、税込みで書いてあるお店に行くと、偉いぞ! と、心のなかで思うんだけれど、世の中のすべての人がそう思うわけではないだろうし、結果として、どっちが、お互い(提供者&消費者)幸せになれるのだろうか、って悩んじゃう。
まぁシンプルに税込みで書いとくのが一番いいような気がするけど、増税したらどうすんの、とか、それはそれで悩ましい。
あんまり小銭がちゃがちゃにはしたくないから、端数をなくすためにはどうしたらいいんだろうとか、そういうのもあるし。
まぁ、悩みます。
========追記=========
こんだけ書いといて、お店の名前書いてなかったことにいま気付いた…。