オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

ため息がでる豆腐、言葉を失う納豆

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きのう、いい豆腐と、いい納豆を買った。労働してお金を稼いだので、ささやかな贅沢。笑

 

帰宅してビールをあけて、まずは豆腐から食べた。

なんなんだこの豆腐は。

ほんとうに。

こんな豆腐は、いままで食べたことがなかった。

三之助ブランドで豆腐を製造販売している、もぎ豆腐店の最高級豆腐、只管豆腐。

只管と書いて、ひたすら、と読む。詳しくはHPにも書いてあるが、職人技の真髄を詰め込んだ豆腐。なんというか、進化系の豆腐だ。

わたしは、豆腐の味を確かめるときは、まずは何もつけずに、そしてつぎに塩をふりかけて食べる。何もつけずに食べることで、その豆腐の味の濃さや風味の特性がわかり、塩をつけて食べることで、どういう味わいになるのかを想像することができる。それから、薬味や醤油を試すのだが、この豆腐は、何もつけずに食べたとき、その味に、思わず息を呑んだ。

なんだこれは…。

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まず、食感から違った。見かけは木綿なのに、まるで絹のような、いや、絹を越えたなめらかさ。個体として存在していることが不思議に思えるような舌触り。木綿とは思えないテクスチャー。個人的には木綿のほうが絹よりも好きなのだが、いままで食べたことのある、どんな木綿とも、どんな絹とも違う食感だった。くちのなかでとろけるようにほぐれ、喉を滑り落ちた後に、ほのかでやさしい、しかし、端正な香りが鼻腔に残る。なんだこれは…。ひとりのキッチンで、ほんとうに声に出してそうつぶやいてしまった。もちろん、味もすごい。濃厚なのにしつこくない風味、絶妙な甘み。

たまらずに、すぐにもう一切れを手に取り、塩を振って食べてみる。塩分が加わることで、味の輪郭がよりはっきりする。大抵の豆腐は、うま味や香りとともに、雑味や臭さも感じることが多い。醤油で食べるとマスクされてしまうような味がはっきりと見えてくる。それが、この豆腐は、雑味や臭みが一切なかった。言ってしまえば、味の濃さや強さが、絶妙なのかもしれない。濃いだけの豆腐、というのも多い。もちろん、濃いことは悪いことではないのだが、街の豆腐屋に多い気がするが、香りやうま味も強いが、雑味や臭さがちょっと強すぎると感じてしまう豆腐がある。

この豆腐の凄さは、香りやうま味は十分すぎるほどにあるのに、大豆特有の生臭さのようなものが全く無く、それから、その味に濁りがないこと。こんなに澄んだ味の豆腐は、ほんとうに、初めて食べた。

そして、みょうがと醤油で食べてみる。普通に美味しい。しかし、豆腐の味が繊細なので、薬味の必要性に疑問を感じる。この豆腐に、薬味は要らないかれない。

豆腐といえば…やっぱり鰹節。

荒節と本枯節と両方持っているので順に試してみた。まずは荒節。そりゃもちろん美味しいのだが、わかっていたことだが、荒節の味が強すぎる。ちなみに醤油はヒゲタの単なる普及品。

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そして、いざ、本枯節。切った豆腐に本枯節をひとつまみ乗せて、醤油をかける。

ため息がでた。笑

本枯節の真髄を発揮、とでもいうか、荒節に比べて穏やかで繊細な味わいの本枯節の風味が、このデタラメに美味しい豆腐と、綺麗にマッチして、驚きの美味しさになっていた。

この食べ方が、一番しっくり来たので、残りは全部この食べ方で食べた。あっという間になくなった。

豆腐一丁でこんなに歓びを味わうことができるのなら、安いもんかもしれない。

ちなみに、この豆腐の気になるお値段、584円である。(400g)

スーパーのその辺の豆腐と比べると、驚きの価格だが、一食の価値はあると思うし、奇をてらった妙な豆腐ではなく、その味わいや食感はいささか特殊ではあるが、日常の豆腐の延長線上にある豆腐なので、金さえあれば日常的に食べたいと思うような商品だった。

木綿なのに、絹よりもなめらか。

技術的なことはわからないが、とにかく美味しかった。なんなんだこの豆腐は。

 

一緒に買った納豆は、下仁田納豆。ここの社長の南都隆道さんは、もぎ豆腐店の先代社長の茂木稔さんとは、商売上の弟子、のような関係だったらしい。納豆のパッケージの中には、三之助ブランドの醤油が入っていた。

包装を解くと、納豆たちは、発泡スチロールでも紙でもなければ藁でもなく、経木(きょうぎ)に包まれていた。

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経木をそっとめくり、一粒たべてみる。

ぬおおお…。

いままで食べていた納豆は…? なんだったんだ??

うま味、甘み、香り、歯ざわり。

なにも味をつけていないとは思えないくらいに、しっかりと味のある納豆だった。

こちらも、豆腐と同じく、塩で食べてみる。

雑味がなく、澄んだ味。すごい。豆腐も納豆も、ほんとうに、この人達はなんなんだ…。笑

こんな味の豆腐や納豆が世の中に存在していたのか、と思うと食べていて鳥肌がたった。

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付属しているのは醤油と、粉からし。デタラメなマスタードもどきのからしや、アミノ酸調味料がどっぷりのタレが添付されているそのへんの納豆とは、もうこれだけで風格が違う。笑

逆に言えば、市販の納豆は、醤油だけではうま味が足りないから、いろいろとわけのわからないものがごちゃごちゃ入ったタレを使うことになるのかもしれない。

この納豆は、そのままでも驚くほどにうま味があって、付属の醤油をすこし垂らして食べてみると、それだけで十分すぎるくらいに美味しかった。

納豆の正しいとされる食べ方は、糸を切るようによく混ぜて、糸が落ち着くまで少し時間を置いて、それから食べる、というものらしい。

ものは試しでその通りにして食べてみたら、たしかに、うま味が更に増えたように感じられた。

混ぜてすぐにそのまま食べたときは、逆に味が強くなりすぎて、混ぜずに食べたときのほうが美味しく感じたが、混ぜてしばらく置いてから、醤油を垂らして、辛子をすこし混ぜて食べると、もう、最高の味だった。

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和からし、あまり馴染みがなかったが、ツンとするその辛さはスッキリ尖っていて、なんだかわさびに近い感覚だと思った。

 

この豆腐と納豆の組み合わせは、樋口直哉さんの著書、「おいしいものには理由がある」で読んで知った。(是非読んでほしいオススメの一冊)

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しかし、わたしは情報やストーリーを食べているわけでは無いし、SNSにアップするために食べているわけでもないので、どんなに本でよく書かれていても、食べてみて美味しくなかったらこんなには絶賛していないだろうと思う。

豆腐も納豆も、期待通りの、期待以上の、美味しさだったので、流石は樋口さんだなぁ、と思った。笑

本に登場したほかの食品もまだまだ食べてみたい。

 

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豆腐と納豆を食べおわったあとは牛肉を食べた。前夜に、両面に塩を振ってペーパーで挟んで冷蔵庫に入れて、簡易エイジングしておいたら、びっくりするくらい美味しくなった。

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塩味はついているので、オレガノとブラックペッパーを振って食べた。それから、納豆についていた三之助の醤油と和からしで食べたら、さらに最高だった。簡易エイジングすることで、たぶんだけど、肉の水分が減って、味が濃くなり、なま臭みが減るみたい。下ごしらえって大事だなぁと思った。

 

 

 

 

日常に潜む発達障害的要素

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お酒を飲みながら深夜に書きなぐったらちょっとしたレポートのような日記になってしまった。4500文字…笑

別に発達障害だと診断されたことはないが、自身の言動や生き方を振り返ってみると、明らかにいわゆる「標準」的なそれから大きく逸脱しているケースが多く、ここ最近は、自分はある種の発達障害なのではないか、と考えるようになった。
 
とはいえ、脳生理学的な診断があったわけでもないし、明らかにそう断定できるわけでもないので、そういう性格、そういう個性、というソフトウェア的な個体差、といった見方をすることもできるとは思うのだが、しかし、「ある種の発達障害」という視点で自分を俯瞰視すると、少しだけ、人生が進めやすくなるような気がする。
 
以前同居していた友人も、わたしとそのベクトルは異なるが、発達障害的要素をもっていて、折に触れてそういうテーマで議論を交わしたりはしていた。異常か正常か、という話ではないのだが、敢えて、そういう発達障害的要素を「異常」と呼ぶのであれば、彼の言動や思考構造には、わたしからすれば、社会通年や一般常識からすると「異常」に思えることも多く、彼が自身のことを、ある種の発達障害、といったように呼称することに違和感を覚えることはなかった。しかし、自分のことは、というと、ただの個性、ただの怠惰、という風に評価していたのだが、一歩引いて見てみると、オレもオレとてある種の発達障害、と最近は思えてきた。簡単に言うと、苦手なことやできないことを、努力や意識が足りないから苦手だったり出来なかったりする、とするのがソフトウェア的個体差とみなす考え方、器質的にそういったことが得意なように脳ができていない、とするのがある種の発達障害とみなす考え方だ。前者は、できるのにしていない、と考え、後者は、できない、と考える。もちろん、何でもかんでも発達障害で片付ければいいわけではないし、発達障害にも程度の差はあり、病理と呼称すべきレベルのものから、日常生活でのちょっとした不都合、という軽度なものまである。ある種の発達障害、と書いているのは、そういった含みからで、病理とは呼べないかもしれないが、日常生活での困難がある、というような程度のものを、わたしは勝手にそう呼称している。
それで、その発達障害的要素、というのは、べつに、悪いだけのものでは無いと思うし、大なり小なり、その方向性や程度に差はあれど、ほとんどの人がなんらかの発達障害的要素を持っていると思う。大切なのは、それを俯瞰視して把握できるよう努め 、その特性に合った、その特性を活かした、生き方をできるようにすることだと思う。
 
話は少し変わるが、自分の味覚や嗅覚の過敏さに嫌気が差すことが増えてきた。この味覚や嗅覚というのも、わたしの発達障害的要素の一つだ。適当なものを食べて、適当に美味しいと、まわりのひとたちと同じように思えないのが、けっこう煩わしい。自業自得なのだが、飲食店を経営したことにより、食に対する意識や思考が深まり、本当に美味しいものを本気で追求するようになってしまった。結果として、そのせいで飲食を生業とすることに嫌気がさしたわけだが、意識したことで、味覚や嗅覚が明らかに研鑽され、敏感になった。厳密に言えば、ハードウェア的な意味では味覚や嗅覚はそう大きくは進化してはないのだろうと思うが、味の経験値というデータの蓄積と、食材や調理法などのことを調べたりするようになったことといった具合に味のことを意識するようになったことにより、ソフトウェア的に進化してしまい、結果として、数年前よりも、明らかに味覚や嗅覚が鋭敏になったことを実感している。以前は、なんとなくまぁ美味しいかなと思っていたような食べ物を、いま改めて食べると、味の構造のアラや濁りを感じてしまったりすることが増えた。以前はタバコを吸っていたこともあり、いまよりも嗅覚や味覚が鈍くなっていたというのもあるとは思うが、それにしても、である。気軽な食事で満足できることが明らかに減ってしまった。美味しいと思って食事ができないのは味覚障害なのではないだろうか、と思ったこともあったが、本当に美味しいものは美味しいと感じるので、どうやらそうではないらしい。ところで、よくよく考えると、視覚や聴覚だってそうであるように、嗅覚や味覚も、他人がどういうふうに感じているのかを知ることは難しい。人は得てして、自分以外の皆も同じように感じているのだろうと思いがちだが、実際はたぶんそうでもない。色の見え方だって、音の聞こえ方だって、多分違うし、味の感じ方も、当然、十人十色。自分の味覚や嗅覚が過敏なのは、味や匂いのことを、意識したり考えたりするようになったからだ、と最近までは思っていたのだが、どうやらそうではなかったのかもしれない、という風に思うようになった。
 
スーパーテイスターという概念があるらしい。端的に言うと、味蕾の乳頭の数が、普通の人よりも多い人のことを定義する言葉らしく、アメリカで提唱されているらしい。通常の人よりも味を約3倍くらい強く感じるらしく、塩味や甘みはもちろん、特に苦味を強く感じるらしい。ちなみに、ネットで読んだ文献によると、ベロを食用着色料で青とかに着色して、味蕾の数を数える方法の他、500mlの水に砂糖を3g入れて甘みを感じるかどうか、という方法でも判別できるらしい。実際に砂糖3gの判別法を試してみたところ、本当にわたしがスーパーテイスターなのかどうかはさておいて、明らかに甘みを感じた。この程度の甘さなら、誰だって識別できるだろう、とわたしは思ったが、よくよく考えていると、もしかするとそうでもないのかもしれにない、と思えてきた。五感は人それぞれで、誰しもが同じように感じているわけではなく、500mlの水に3gの砂糖を、甘いと感じないひともいるのだろう。つまり、当然のものとしてわたしが感じ取っている細かな味の差異などは、通常の味覚の人には、そもそもわからないのかもしれない、ということに気がついたのだ。よく言われる、舌が肥えている、というのとはまた違う問題なのかもしれない、ということだ。舌が肥えている、というのは、ソフトウェア的な話だ。美味しいものをたくさん食べてきたことで、美味しい味のデータが蓄積され、また、食に対する意識が高まり、程度の低いものを美味しいと思えなくなることを、舌が肥えていると表現できるだろう。しかし、わたしはそこまで美味しいものばかりを食べて育ったわけでもなければ、高いものばかりを食べて暮らしているわけでもない。舌が肥えている、と言われることに疑問を感じ続けてきていた。
 
わたしは、人工甘味料とか人工調味料とかがとにかく苦手で、なぜ苦手なのかを長年考察してきた。
人工甘味料は、生理的に無理なようで、ジュースなどの少しでも入っていると不味くて飲めない。最近はめっきり甘い炭酸飲料は飲まなくなったが、ダイエットコーラとかそういうような人工甘味料入りのジュースは、ほんとうに味覚が受け付けず、うっかり買ってしまうと、ひとくち飲んで、顔を歪めて、毒づきながらあとは全部捨てることになる。それくらいに人工甘味料が苦手で、少しでも添加されていると違和感を感じる。
人工調味料、いわゆる味の素、アミノ酸グルタミン酸ナトリウム、だが、これも、あまり得意ではない。食べていて、なんだか美味しくないな、と思うと大抵入っている。しかし、こちらは、人工調味料と違って、味が嫌いなわけではない。問題なのは濃度だ、ということが、いろいろと考察した結果わかった。もともと、グルタミン酸ナトリウムという成分は、昆布のうま味の主成分だ。昆布のダシは苦手ではないし普通に美味しいと感じる。ではなぜ味の素が無理なのかというと、結局、濃すぎるからだ、ということがわかった。市販のめんつゆなどには、大抵、味の素が入っている。通常の規定量の水で薄めた時、味の素の味しかしなくてわたしは美味しいとは思えないのだが、それを更に水で薄めて、いい感じのところで醤油で塩分濃度を通常値くらいまで調整してあげると、なぜだか、美味しく感じる、ということが実験の結果わかった。味の素が入っていることが問題なのではなく、味の素は味が濃すぎる、というのが、わたしが味の素が苦手な理由だったと結論づけることができた。
それから、濃すぎる味のものも苦手だ。とんかつソースもあまり使わないし、ガッツリ強烈なにんにく味も得意ではないし、ラーメンのスープなども外で食べると大抵は濃すぎると感じてしまう。世の中の指標で言う薄味が、おそらくわたしにとってのちょうど良い味付けだということが多い。
 
こういった一連の食の話を、しばらく前までのわたしは、ただの嗜好だと思っていた。器質的にもどちらかと言えば味覚は敏感なほうではあるだろうが、それよりも、後天的な食経験や、食という文化を、意識しているかどうか、ということの問題なのだと思っていた。
 
しかし、スーパーテイスターという概念を知り、とても腑に落ちた気がした。
嫌な言い方かもしれないが、わたしが特に美味しいと思わないものをほとんどの人が美味しいと評価する。わたしが60〜80点くらいだな、と思ったものを、ひとはとても美味しい、と評価する。しかし、わたしが100点だと思うものも、人々は、60~80点と同じ「とても美味しい」と評価する。そんな味の違いもわからないのか、と驚き、その相手の味覚がおかしいのではないのだろうか、とさえ思うこともあったが、そう、おかしいのはこちらだった。
 
味蕾が多ければそれだけでいいわけでもないだろうし、わたしよりも敏感な嗅覚や味覚を持つ人は世の中にたくさんいるだろうとは思う。べつに自分の味覚が「神の舌」だとかは思わないが(笑)しかし、生活の中で、たとえば、自称グルメの人が初歩的な味の差異を感じとれなかったりするのを見るとなんだかがっかりしたりとか、味の濁り(香りつけが上手ではない、臭みの処理ができていない、調味料の使い方が間違っている)を必要以上に感じてしまって皆と同じように心から食事を楽しめないことが多かったりとか、味覚が敏感であることでも、それなりに苦労もしている。コンビニに行っても、食べたいものがマジでない、とか。笑
 
飲食店を始めて、食と本気で向き合うようになったからそうなってしまったのだろうか、と考えていたが、どうやらそうではなく、そういう器質的特性だったのだろう、と最近は思えてきた。
 
発達障害の話から、味覚の話へ話題が大きく反れたが、人より秀でいてるものがあれば、人よりも劣るものだってあるわけで、わたしも、味覚が敏感なことと引き換えに、かどうかはわからないが、時間が守れないとか、何かを継続できないとか、そういう欠点もたくさん持ち合わせている。
 
自己の思考や行動の特性を、背が高いとか太っているとか、そういう外見的な器質のことと同じように、ソフトウェア的なこととしてだけ取り扱うのではなく、ハードウェア的なこととして捉えることは、冒頭にも書いたが、もしかすると、人生を、少し、生きやすくしてくれるかもしれない、と最近は思ったりしている。

 

トップの画像はこないだ久しぶりに作った角煮。美味しかった。
 

29歳になった

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 という日記を昨日の深夜に書いたが、泥酔していたので念のため即公開にはしないで下書きに保存して寝た。何を書いたかほとんど覚えていないのでいまから読みます。

 

去年も、この日に、28歳になった。まぁ、当たり前だ。

年に一回めぐりくる誕生日、べつに普通の日だし、普段と何も変わらない。大げさに祝われるのはどうかんがえても苦手だし、わいわい集まって祝ってもらったりするのもありがたいけど苦手なので、ひっそりといつも通り過ごしたい。

まぁなんというか、好きな女の子におめでとうって、ひとこと言って貰えればそれでいいのよ、的な…。

さて、この1年を振り返ってみると、例によっていろいろと変化のある1年ではあったし、すこし俯瞰して見ると、変わらず藻掻いてるなぁ…と思う、そんな1年だった。

 

喫茶店の経営を始めて半年くらいが経過したのが去年の誕生日のこと。当ブログを振り返ると、カート・コバーンとかが死んだのが27だったから27のときにとりあえずなんかしなくちゃやばいと思って店を作った、というようなことが書いてあった。行動を起こしたことは間違ってはいなかったと思うし、そこで出会った人々、身についた知見、経た経験。いろいろと得たものは多かったが、結果としてはその次の歳である28歳のうちに、店は手放した。

そして、その後ものらりくらりとそれでも生き延びでいるわけだが、油断していたらそんなうちに29歳になってしまった。

今年で32歳になる友人がいて、彼が29歳とか30歳とかになったときに、やばくね本物のアラサーじゃんwww などと言って笑っていたのだが、それを思い出して悔いたりはしないにせよ、ああ俺もついに30歳秒読みになってしまったのか、というわけである。

今朝、祖母に、よくここまで無事に生きてきたわね…と言われて、すごい祝いの言葉だなと笑ったが、そうだ、生き延びただけでもすごい。後から考えていたらそんな気がしてきた。何回か死に損なったこともあるし、こうして生きているだけである意味奇跡なのかもしれない、という気さえする。

と、アルコールに浸った脳みそで駄文を連ねているが、29歳は、もう少し前に進む1年にしたいな、と、割りと心の底から思っている、というか、願っている。

きちんと収入を確保すること、最低限の安定は確保すること、将来のことをもう少しだけ考えること。いつも言ってることではあるが、そういうことができるような1年にしたい。

現に、すでに新しい事業に着手してはいて、このままきちんとやれば、確実に利益を生み出せる…と信じているし、とりあえずは日々を頑張るしか無いのだが…。

そんなわけで、今日も今日とて、その準備で忙しかったのだが、金があってもできないことは、金がなくてもできないのだし、とにかく、お金をちゃんと稼げる29歳にしたい。

自分のやりたいことと、自分に向いてることと、自分がするべきことと。そういうことのバランスを考えて29歳は生きたい。あとできればもう少しだけ、酒量を減らしたいとは思っている。このままだとオレの肝臓はたぶんやばい。

 

と、とりとめもなく記した日記だが、驚くべきことに、俺はすでに29歳なのである。

 

まいったなぁ…笑

 

 

と、いうのが昨日の深夜に書いた日記。他人が書いた文章みたいな気分で読んだ。四合瓶がほぼ空に近づいたあたりで書いた文章にしてはまともだったかもしれない。

 

 

 

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▲様変わりする晴海埠頭。オリンピックが来るのは良いが、好きだった場所が変わってしまうのは悲しい。

 

 

わたしがニューさがみやを絶賛する100の理由

蕎麦について、それも、江戸前の蕎麦について、わたしがそれはもう鬱陶しいくらいにはブツブツといちいち小うるさい人間であることは、既に皆さんご存知かもしれないが、当然のように実はうどんにもそれなりにうるさい。

しかし、ほんのしばらく前までは、美味しいと思うお気に入りの東京のうどん屋さんが無かった。有名な店とかすこし高い店とかに行ってもなんだかいまいち、かといって、香川にまでうどんを食べに行くほどの熱意もなく…。

蕎麦屋が片手間で出しているうどんというのが世の中多くて、うどんの専門店というのはその数でいえばそう多くない。

折からの讃岐うどんブームでチェーン店も増えたが、ピュアな讃岐うどんが食べたい、というわけでもなかったりする。その讃岐うどんブームも落ち着きを見せてきたのか、最近は一頃ほどにはうどんという食材は大騒ぎはされていない様子ではあるが、太くてコシのある麺にいりこと昆布の出汁、セルフサービススタイルの店舗で揚げ物のトッピング、というようなスタイルの都内に展開されているチェーン店もいくつもある。でもはっきり言ってどこに行っても特に美味しいと思った試しがあんまりなかった。

何年か昔、池袋のほうでたまたま入ったうどん屋が、本場の讃岐スタイルで、麺を丼にもらってポットから出汁を注ぐスタイルで、しかもめずらしく細打ちのうどんを扱っていたし、価格も250円とかで東京にしては安かったので、すごく感動したのだが、しばらくしてもう一度行こう思った頃には、気がついたらその店は潰れていた。

そんなわけで、けっこううどんも好きなくせに、そんなに「美味しいうどん」というものを意識して探したことがなかったのだが、それが、ここ数ヶ月前からふと、わたしは突然にうどんを追求し始めたのだった。笑
そもそもの、この個人的なうどんブームのきっかけは、アマゾンプライムで美味しんぼのアニメで手打ちうどんの回を見たこと、だった。笑
蕎麦は、心から美味しいと思えるお気に入りのお店がもういくつかはあったが、うどん屋はそういえばあんまり真剣に開拓したとことがなかったということに、美味しんぼのうどんの話を観て気がついた…。

学生の頃には、105円でかけうどんが食べられることに釣られて、よくはなまるうどんで食べていたが、大人になってからはほとんど行かなくなった。それで改めて先日ひさしぶりに食べたらけっこう絶望的だった。味の素の味しかしない。麺も風味が全くないし…。腹を満たすだけならいいとは思うが。あとは丸亀製麺は出汁が苦手、とか。もう随分いっていないからわからんけど。

そして、有名店も含むいくつかのうどん屋を巡って、オニヤンマでひとつの答えが見えた気がしていた。基本的にいつも、冷かけ、かけ、の二種類しか食べないのでなんとも言えないが、麺のクオリティも、出汁も、一定の水準をしっかりと超えているし、とり天(120円で3つ)も生姜が効いていて評判通りにけっこう美味しい。肉うどんも良かった。ほかのチェーンに比べると、麺はずいぶんと良くできているし、出汁も、多少の品質のムラが日によってあるにせよ、概ねハズレにはならない。一度だけ、深夜に行った時に、ものすごく混んでいて、茹でおきの麺にあたってしまったことがあった。明らかに食感も風味も落ちていて、お世辞にも美味しいとは言い難い麺だったし、出汁もなんだかいつもより煮え過ぎていて美味しくなかった。とはいえ、価格を考えると本気で文句を言う気にはならないし、美味しく食べられることの方が多いので別に文句という程の文句はない。あと、食券制なのも良い。はなまるうどんみたいな、セルフの店なのに前払いレジ会計スタイルは、前の客が詰まっていると、できたてのうどんを目の前に会計を待たされることがあってそういえば昔からよくイライラしていた。のびた麺が大っ嫌いなんだよオレは。並びながら食ってやりたいくらいだった。(※さすがにしません)

オニヤンマは、卓上に置いてあるぶっかけの醤油を味見したら、その味がすこしわたしには甘すぎてあまり好みではなくて、ぶっかけは頼んだことがなくて、冷たいのが食べたい時はいつも冷かけを頼んでいる。冷かけはメニューには載っていないが、冷ぶっかけの食券を買って、カウンターで冷かけで、と言うと冷かけにしてくれる。
後述するが、うどんの真髄は冷かけにある、と個人的には思っているくらいに、冷かけってすごいと思うんだよな…。冷かけは、そのうどんの本質がよく見える。麺の素性が丸見えになってしまうし、出汁も、しっかりそのものの味がわかってしまう。ので、日ごとのブレとかもよくわかるのだが…。

あとは、東京のうどんのランキングではたいていトップ付近にはランクインしている丸香にもわざわざ行ってみたけど、個人的には、ちょっといりこの甘みと苦味が強すぎる気がした。東京もんのわたしには、いささか讃岐過ぎる、のかもしれない。

さて、そんなこんなで、オニヤンマで概ね満足したような気がした日々を過ごしていたときに、三宿通りから山手通りに抜ける蛇崩のところの道沿いに、うどんと書いてある建物をみかけた。幾度も通っている道だったが、うどん屋にそんなには興味がなかったので、いままではあまり視界に入っていなかったのかもしれない。(ここからがやっと本題)

さっそく店名で検索すると、なかなかの評判っぽい。これは! と思い、初めて行ったのが、たぶん二ヶ月くらい前。

メニューを眺めて、まずは、むじなうどんをオーダー。肌寒い雨の日だったので温かいうどんにした。
むじなうどんは、たぬきときつねとわかめが乗っているかけうどん。
どんなうどんが出てくるのかワクワクしながら待つと、淡くて優しい出汁と、細めの麺の組み合わせ。その日の具材や麺の塩梅は、いま思っても、正直、ニューさがみやの実力の全てを発揮できてはいなくて、100点満点の仕上がりではなかった。香りや風味にほんの少しだが濁りを感じて、疑問に思うところがあったのだが、それでも、トータルでの満足感は高く、ついに通えるうどん屋を見つけた!! と心から嬉しく思った。濁りを感じて〜というくだりは、もしかしたら普通の人なら何も思わないかもしれないが、俺は気になった、というだけの話なので、変な味がしたとかそういうことではないので悪しからず…。麺の洗いが足りなかったのか、出汁がうまく仕上がっていなかったのか…。わからんけど。でも、機械が作ってるわけではないんだし、許容範囲のなかであれば、仕上がりにムラがあることは仕方がないことだし、おそらく気づかない人は全く気づかないだろうし、別にそれが悪いとは思わないし、というか、許容範囲のなかでのムラがあるのは別にむしろ当然のことだと思う。

ニューさがみやは、平日のランチタイムは当分はセルフサービスです、という奇妙なスタイルの営業で、はじめはすこし戸惑うが、でもなんだか面白いし、決して嫌な感じでなはない。おしぼりとお茶は自分で用意して、注文は卓上のメモ紙に書いてから厨房に伝える。忙しいとお会計もセルフで、と言われる。これは斬新。笑
でも、うどんは美味しいわけだし、別に手厚くもてなされたくて来ているのではなくて、うどんが食べたくて来ているわけだし、別にこれでいいと思うけど。

そんなわけで、リピートが確定して、その次の日もきてしまった。そして、ついに、冷かけをオーダー。ドキドキしながら食す。ちなみに安い。冷かけは550円。ランチなら大盛りも無料。

 

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ん!! 美味いぞ!!
出汁のバランスも、麺の加減も、本当に最高。

出汁は、いりこを前面に押し出しすぎていないのが良い。昆布といりこの出汁が絶妙に溶け込んでいるが、強く主張しすぎない。かといって、醤油が強いわけでもない。一言で言うと、調和。自分で料理をしていても思うが、塩気でも甘さでも出汁でも、どれかが主張しすぎていると永遠に美味しくならない。濃度というのはとても大切なのだと思う。化学調味料のことをいろいろと考察した結論も同じだった。結局は、濃度の話。と、ここで書くと話が逸れるので、化学調味料の話は文末で。笑

とにかく、とてもバランスよく仕上がっている冷たい出汁にいたく感動してしまったのだ。

麺も、ほんとうに絶妙。小麦の風味が綺麗に香る、喉越しと歯ごたえがほんとうに絶妙な麺。

これはなかなか再現できないし、同じレベルの麺を出す店をまだ知らない。

いろいろとメニューのバリエーションがあり、壁に貼られているのだが、わたしは結局、冷かけがいちばん好きだった。ここのうどんは、具がない方が好きなタイプのうどんなのかもしれない。けっしてほかのメニューがダメなわけではないし、もちろん美味しいのだが、ピュアにうどんを味わいたくて、いつも冷かけを頼んでしまう。それ以来、必ずだいたい週1ではニューさがみやに通っているが、ほとんどずっと冷かけを食べている。平日のランチは大盛りが無料なのも嬉しい。
麺そのものが美味しくて、すぐに無くなってしまうので、大盛りで丁度いい。

季節の限定メニューなども気にはなるし、カレーも美味しいらしいので一度食べてみたいのだが、それでも、ここに来るとつい冷かけを頼んでしまう。

冷たい麺というのは、本当に麺の本質がよくわかる。そして、具のない素うどんは、出汁の味も丸裸になってしまう。麺と出汁をしっかりと味わえる冷かけ、なんでそんなにメジャーじゃないのか、個人的には謎。新しい店に行くと、蕎麦でもうどんでもそうなのだが、冷たい麺をまずは食べてみることが多い。

営業時間が長いとか、店舗がいくつかあるとかで都合がよいこともあって、いまでもオニヤンマにもよく行くが、ニューさがみやがに行けるシチュエーションなら、迷わずニューさがみや。

もともとはさがみやというお蕎麦屋さんがあった場所にいまのお店があるので、それでニューさがみやという名前になった、とネットには書いあった。ニューさがみや、で検索すると、同じ名前の熱海かなんかの旅館が上位にヒットする。笑
確かに、言われてみれば、旅館みたいな名前だな…。じわじわ来るネーミング。

出汁と麺の完成度のことばかり書いたが、そう、お店もなかなかにユニーク。店主の三木さんは本当にフクロウを飼っているらしいのだが、店内にも店外にも、ちょいちょいフクロウ関連の物品が置いてある。
レコードが飾られ、本棚には趣味性の高い本がずらり。三木さんとは、出汁の話とか、昔のロックの話とかをたまにしたりする。
うどんを待つ間はわたしは大抵、そこに置いてある暮しの手帖を読んでいる。

駅も近くないし、あまり便利な立地とは言い難い場所だが、幅広い世代の客層でけっこう賑わっているし、地域に愛されているお店なんだな、いつもと思う。末長く続いて欲しいお店。

ごちゃごちゃ書いたが、麺、出汁、価格、とてもバランスが良いうどんが食べられるお店なので、機会があったらどうぞ行ってみてください。

このブログのタイトル、なんかすごい適当に書いたけどさ、100個も列挙できるような話じゃないって、どう考えても書く前からわかってたことだよな…笑


まあとにかくオススメのお店です。

 

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http://www.new-sagamiya.com/

 

https://g.co/kgs/NvNrUK

 

https://www.google.co.jp/amp/s/s.tabelog.com/tokyo/A1317/A131701/13168961/top_amp/

 

 

 

 

最後に、化学調味料のことを少し。笑

調味料(アミノ酸等)と食品の成分表示に書かれているのが化学調味料。成分はグルタミン酸ナトリウム等。別に悪いものではない。昆布の旨味の主成分だ。それを効率よく化学的に処理して使いやすくしたのが化学調味料。なんだ昆布の旨味か、という話なのだが、先にも書いたように、旨味というのは濃すぎても美味しくなくなってしまう。わたしが味の素が苦手な理由はそれだった。実験的に、味の素の入った調味料などを、塩や醤油を使って、塩分濃度を維持しながら薄めてみたところ、ある一定の薄さになると、あの化学調味料特有の違和感が消えた。そのことから、化学調味料が入っていないことが重要なのではなく、化学調味料が入っていたとしても濃度が薄いことが大切なのだということがわかった。化学調味料不使用、と書いてある食品が美味しいとは限らないのも事実で、化学調味料を使わないがために、塩分や糖分で味わいごまかしているケースにも多々出会う。化学調味料をつかわないで旨味を出すためには手間も金もかかる。それを目下の健康志向のために無化調をうたうと、手間やコストが追いつかず、塩や砂糖で味をごまかすことになる。

損の効用について(そんなものはない、たぶん)

簡単に言うと、信じられないくらいマヌケな方法で、1万円を紛失した。どうして消えたのかは結局わからなかったし、もしかするといつかでてくるのかもしれないが、とりあえず、1万円を紛失した。

1時間以上、懸命に探したが、結局、見つからなかった。

不特定多数の人が出入りする場所なので、無くなったのがオレのせいなのかひとのせいなのかはわからないが、たぶん、もう見つからない。

1万円というのは、バカにできない金額で、なにかに使って損した1万円ならまだわかるが、純損失としての1万円というのは、思い出す限りでも、そうあまりない。まさに、犬死。むなしすぎる。考えているだけで体調が悪くなってきた。もう寝たい。

 

ところで、1万円を失うこと、つまり、損をすること、という行為になにか効用がないものか、賢明に考えてみたのだが、思いつかなかった。

意味もなく1万円を失ったという事実は、どうあがいても変わることはない。

しかし、考えるきっかけにはなった。

考えながらネットを見ていたら、当たり屋まがいのことをして交通事故で補償を得まくっているキチガイオヤジの記事を読んだ。

今回の事案は、信号が変わったのに発進しなかったら後ろのトラックにクラクションを鳴らされ、それで頭に来たのか、発信してすぐに急ブレーキを踏んでコツンと追突させて、それについて5000万円を超える補償を請求している、という記事だった。アホか。その訴訟はあっさり棄却されている上に、似たような事案を何個も繰り返していたので、まぁどうみても当たり屋ですね、という感じだったので、アレなんだけど。

まぁ金額が5000万、とデカイというのもあったが、それを読んでいたら、1万円でどうこう騒ぐのがアホらしくなってきて、どういうわけか、不思議なことに、気持ちが収まってきた。笑

そして、日々の小さな1万円で大騒ぎする、いや、それはお金がたくさんあっても1万円を失ったら大変だとは思うが、とにかく、そういう生活を脱したいと思った。

いまのお前のこの暮らしの先に何があるのか。そういうことを身近な人たちに問われて、何も答えられないし、なんと答えたらいいのかわからない。そういう暮らしにも、すこし、飽きてきた。

スーツを来て朝早くから会社に行くような生活はオレには出来ない無理、そう言い続けて28歳になったが、この先になにがあるのか、オレも自分でわからないし、やっぱりこのままこの暮らしを続けていくべきではないのだろうなぁ、と思えてきた。

1万円をなくして、すごい凹んでたけど、こうやっていろいろ考えて、思考を巡らせることができたので、決して、損ではなかったのかもしれない、と、無理やり納得させようとしていないか? とも思ったのだが、別にそうでもないのかもしれない。

意味もなく失ってきた1万円よりも、意味もなく得てきた1万円(あぶく銭)の方がたぶん多いと思うし、こういう損失も、ときには必要なのかもしれないな、と言う気さえもしてきた。

就職、ホントに探そうかな…。

季節の流れ

春は別れと出会いの季節、らしい。

もっとも、季節なんてものは、地球が勝手にそうなっているというだけで、生きている人間にはあまり関係ないのでは、などとも考えたりもするのだが、それでも、季節というのはやっぱり、なんとなく、人間の行動や思考に影響を及ぼしているとも思ったりする。

 

春は嫌いだ。と反町公三は思った。 毛虫に刺されたのもオフクロが十二指腸潰瘍になって入院したのも懸賞で当たったペレのサイン入りサッカーボールを失くしたのも自転車で坂道を下っていて犬の死骸にハンドルをとられ白菜畑まで飛んで転がり目の下に傷をつくったのも上級生に体育館裏に呼び出され殴られた上にオヤジに買って貰ったばかりのシェーファーの万年筆をとられたのもたて続けに受験に失敗したのもハシシで警察にパクられたのも初めてうつ病といううっとうしい病気になったのも季節は全部春だった。そして、今も春だ。窓ガラスの向こうに雨が降っているのが見える。桜の花びらが何枚かガラスに貼り付いていて反町公三の家の庭には桜の木がないからどこか他の家か並木のある表の通りから飛んできたものだろう。本の形をしたカミュのコニャックを飲みながら、反町公三は窓ガラスに映る自分の顔を眺め、春に起こったイヤな出来事の一つ一つを思い出して、それでも今のこの状況が最低なのではないかと考えた。

 

というのは村上龍ストレンジ・デイズという小説の引用なのだが、果たして、オレは自分が春が好きなのか嫌いなのか、いまひとつよくわからない。

 

3月も、もうすぐ折り返そうとしていて、ふと、窓の外の雨に濡れた景色を見ながら、いろいろな春を思い出してしまう。

ここ10年くらいの春をいろいろと思い返して、不思議な気持ちになっている。

季節外れの伊豆の離島に一人で旅した春、初めてセックスした春、ファミレスでバイトを始めた春、受験して大学に入った春、免許を取っていた春、大学を留年せずして卒業できないことが確定した春(結果中退した)、雑誌編集者になっていた春、ハワイに行った春、介護していた春、恋していた春、写真を撮っていた春、別れた春、飲食店をやっていた春、飲食店をやめようとしている春。まぁ春が、というより、この10年ちょっとで、何をしていたのか、というのにも近いんだけど。一緒に時を重ねてきた女の人とか、乗っていた車とか、暮らしていた部屋とか、そういうのをとりとめもなく季節に重ねながら思い出していると、つい感傷

的になってしまう。

 

とはいえ、でも結局は、ただの蓄積に過ぎないというか、生きてきた年数が増えれば、それだけ、出会いも別れも、経験も体験も、単純に増える、というだけのことなのかもしれないな、という当たり前のことに思い至ったりしている、そんな春。

梅の花がちらほら咲いていて、日照りが伸びている。

窓の外を濡らす夜の雨は、そう、春の雨なんだなぁ。

国道を走り抜けるタイヤに、水が弾ける。

 

ところで、最近は、なんだか憂鬱だなぁと思うことが多い。なんでかはわからないけど、憂鬱。

 

春だから、なのかな。

 

きっとそうかも。

 

これから巡り合う、出会いと、そして別れに。

 

感傷と、憂鬱が、ね…。

 

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拓郎の、春を待つ手紙、を聴いている。

 

 

味のない世界の退屈、嗅覚と風邪のこと

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年明け早々に、といっても3週間近く過ぎていはいたが、まぁ、いきなり風邪をひいた。先週末の大寒波、本当に寒かったし、ちょうど寒波が終わったくらいから体調が崩れ始めた。

 

あまり負荷の多い生活はしていないし、極端に身体が強いわけではないが、比較的体調は崩しにくい方なので、風邪なんてずいぶんとひいていなかった。なんだけど、あっさりやられてしまった。

冷えは万病のもと。まさに、である。

 

喉の違和感が全身のだるさになり、背中と腰が痛み、強張るようになった。けっこうしんどかったのに、熱は出なかった。熱が出ないのは、体力があるから熱は出ないで済んでいる、という説と、熱を出す体力すらもない、という説があるのだが、前者でありたいなぁと思っていたら、どうやら前者であったみたい。数日のうちにだいぶ良くなってきて、もう症状はかなり楽になった。免疫力があるから、発熱せずとも、ウィルスを退治できる、ということらしい。例によって、漢方薬ドーピングはかなりした。作用機序を考えながら実験的にいろいろな処方を混ぜたり量を倍にしたりしながらがんがん飲んで、効果を見ながら次の処方を考える、みたいなことをしていたので、西洋薬はほとんど飲まなかった。

 

それで、回復してきて体調が楽になってきたのはいいのだが、嗅覚がおかしくなってしまっていて、おかげで本当に日々がつまらない。

 

美味しいものを味わって食べる、という喜びが、尽く、奪われてしまったのである。

何を食べても、その食べ物の本当の香りがわからないし、そうなると、味わい尽くすことも難しい。

香りが全くわからないわけではないし、べつに美味しく食事はできるのだが、まぁとにかく、つまらない。

 

と、そこで考えていたのが、もしかすると世の中こんなもんなのかもなぁ、ということ。

タバコをやめてからはなおのことなのだが、どちらかというとわたしは嗅覚が強いほうで、みんなが感じない匂いの違いを嗅ぎわけられたり、嗅覚と関連性の高い味覚においても、味を感じ分けることができたりする。味覚の何割くらいが嗅覚の影響によるものなのかはわからないが、食べ物の良し悪しを決めるのはほとんどが嗅覚、といっても過言ではないくらい、味覚と嗅覚の関係は密接だ。

素材はもちろんだが、出汁とか調味料とか調理法とかに、ぶつぶつ五月蝿く言いながらわたしは日々を暮らしている。チューブ山葵が死ぬほど嫌い、とか、人工甘味料や人口調味料が死ぬほど嫌い、とか、いろいろあるのだが、その執着は、時として、生きにくさにつながる。本当に、そのへんで適当に食べたりできないようになってしまい、最近はけっこう食事に苦労したりしながら生きている。

それが、匂いがよくわからないと、何を食べてもあんま変わらないというか、食べ物の香りに深みを感じられないので、そうなると、味までよくわからなくなってくる、

そんなことを考えていて、はたと思ったが、そう、世の中こんなもんなのかなぁ、である。

 

人よりも優れている、という言い方には抵抗があるが、他にうまい表現が見当たらないのであえて書くと、標準的な人よりも嗅覚が優れているわたしが、風邪で嗅覚が麻痺したことで、世の中のひとの食への感じ方がすこしわかるようになり、その彼らの食への執着の低さに納得した、のだ。

 

たいして美味しくもないものを美味しそうに食べ、ブラインドテストされたら違いなんて全然わからないだろうし、そんな味の違いもわからないやつらが受け売りの評価をべらべらと語り、食べログにあることないことを書く。そういうのがいまは世の中にあふれている。

殆どの人はみんな、味で食べているのではない。ストーリーや情報を食べているのだ。

なぜか、それは、味がわからないからだ。

何を食べても感じ方が大して変わらないのであれば、そりゃ何を食べたって同じだろう。そうなると、良いストーリーの食べ物、良い情報の食べ物、が価値を持つ。

いつもすごく並んでる店、どこどこで修行したシェフの店、誰々が美味しいと言っていた店、世の中のほとんどの人が、そういうのを喜んで食べている。

こいつらは。本当に美味しいモノなんて、たぶん、どうでもいいんだろうなぁ。と、いつも思う。

味覚の評価基準には、絶対的なものと、相対的なものとが混在している。相対的なものは、好みと呼ばれるものの範疇なので、十人十色で当然だ。

しかし、絶対的なもの、は、調理や素材のレベルの話なので、誰にとっても変わらない意味を持つ。麺の茹で加減、麺の茹で方、肉の焼き方、魚の切り方、油の種類と使い方、そういう絶対的な評価でみた時に、不味い食い物が世の中にはたくさんある。だが、それを不味いと思ってか思わずかは知らないが、なんの文句も言わずに、平気で飲み食いているひとたちが世の中にはたくさんいる。

たとえばわたしは、西洋わさびのチューブのわさびが嫌いだが、それ以外にも、本わさび入りのチューブわさびとか、本わさびだけのチューブわさびとか、いろいろある。

当たり前だが、一口食べればそれがどのわさびなのかわかるし、食べ慣れたおかげで最近では、生の本わさびも、その特徴や個性の違いがわかるようになってきた。

安い寿司屋とか、蕎麦屋とかで食事をすると、出されたわさびがどんなわさびなのかが、舐めればすぐにわかる。

このわさびはありえない、嫌なわさびだったら無い方がマシ、と思うことも多いくらいに、どうでもいゴミみたいなわさびを出してくるお店も多い。

しかし、そう思ったような店で、ドボンとそばつゆにそのゴミみたいなわさびを溶かして、美味しそうに蕎麦をすすっているような客が、世の中には沢山いる。

嫌なものを我慢できるのはすごいことだと敬意を感じるが、どうみても、嫌だと思っているようには見えないことも多い。つまり、わかんないんだろうなぁということだが、いままではそういうひとたちをどこかでバカにしていた。しかし、風邪で嗅覚が落ちたことで、なるほど、仕方ないんだな、ということがわかった。

誤解されたくないのだが、わかるのが偉くて、わからないのが駄目、ということを言いたいわけではない。わからないのは仕方がないし、それで本人が困っていないのなら、それでいいと思う。

ただ、わかろうとしているかどうか、というのは実は重要なことなような気もする。

意識の問題だ。食べ物を味わいわけることができるかどうか、というのは言わずもがなだが、それよりも、食べ物を味わいわけられるようになろうとしているかどうか、こそが問題だ。

 

こうして、一時的なものとはいえ、自分でも、いつもの嗅覚と味覚を失ってみて、知った世界があった。

 

以前にこういう風邪をひいた頃には、いまほどは味覚への執着はなかったし、いまほどの経験や知識もなかった。基本の基準は変わらないが、美味しいものを知りたいという意識が、いまよりも少なかった。基準となる味や知識が少なかった、ということでもあるが、美味しさを追求しようという姿勢が、いまとは違った。

飲食店を持ったことで、得たこと、学んだこと、いろいろあったが、一番大きかった学びは、こういう、食への姿勢、なのかもしれない。

これからの人生、業として飲食業を営むことはもうないといまは思っているが、店を経営して得た知見は、けっこう大きかった気がする!!

美味しいとされているから美味しいのではなく、本当に美味しいのかどうか。自分の味覚で、嗅覚で、しっかり味わって見極められる人になりたいし、ありたい。

 

まぁでも、世の中みんながそんなだったら、そのへんのちょっと不味い店はバンバン潰れるだろうし、美味しさは手間と比例する部分も大きいので、美味しい店というのはそうたくさん存在できるものでもないし、安くて不味いものを世の中のみなさんが喜んで食べていても、オレには関係のないことなんだけど。

 

写真は実家に帰ったらあった、イチゴ。初もの!

春になったらイチゴ狩り行きたいなぁ。

あと、3月になったら駿河湾に生しらす食べに行く!! 

と、また食べ物のことを書いているが、美味しいものを味わって食べる喜びの大切さを、久しぶりに風邪になってほんとうに痛感した。逆に言うと、前回風邪をひいたときから、いまの間で、食に対する感覚や意識が、かなり成長していた、ということなんだろうなぁ。すげーな。笑

 

ところで、ここ半年でもう3回くらい伊豆や静岡に行ってるんだけど、静岡、海も山も温泉もあるので、なんだかどんどん好きになってきた。何度か来ていると、どんどんくわしくなってくるので、それはうれしいのだが、初めて来た! という開拓するワクワク感が減るのがすこし寂しかったりもして、なんて。

まぁまたすぐに行くんですけどね。

 

よくいく喜多見蕎麦屋のおっさんに、天城のわさびはダメ。有東木のが一番、って言われたんだけど、確かにそうかもしれん。こんど行ったら比較用に天城のわさびも買ってこようかな。でもそれより、桜海老と鰹節を買いたいよ俺は。あー次行くの楽しみ。