オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

なぜ人は、誰かを助けようとするのだろうか

きのうの夜、所用があり、深夜の三茶に行った。

数年前だったら、真夜中の三茶をうろうろするのなんて珍しいことではなかった。そもそもかつては三茶に住んでいたのであり、深夜にスーパーに行ったり、駅の近くで食事をしたりすることも、その頃は日常の一部だった。

それから約2年。夜遅くに三茶に寄ることこそたまにあれど、駅の近くの人が多いエリアに行くことはほとんどなくなった。

買わなければならないものがあって、駅前の西友に寄ったのだが、なんだか、忘れかけていた感覚を思い出したような気がした。

ダボッとした服を着て、キャップをかぶって、タトゥーが入っていて、ちゃらっとした、いや、容姿に起因する偏見を肯定するつもりはないのだが、とにかく、深夜の三軒茶屋にいる若者、という人種を久しぶりに目の前に見て、なんだか、懐かしいけどでもちょっと嫌な気持ちになった。

三軒茶屋で暮らしていたあの頃、仕事の必要性に迫られて深夜に西友に買い物に来たこともあったし、新商品のネタを探して調味料売り場をうろうろ歩いたりしたこともあった。いまとなっては、駐車場もないし、わざわざ昼間にこの西友に来たりすることは全くないので、この西友に来たこと自体がすでになんだかノスタルジックな気持ちにさせる出来事だったのである。

買い物を終えて、車に乗って町を走ると、ベタベタと互いの体を触れ合う男女を筆頭に、夜中の三茶らしい人たちをたくさん見た。

懐かしく思いながら運転していると、道端に転がるようにして横たわる人影があった。

少し気になりながらも、でも通り過ぎた。それで終わりのはずだったのだが、その後でたまたま、買い忘れがあったことに気づき、Uターンして別のスーパーに寄った。スーパーを済ませてまたもとの道にもどると、横たわる人影はあいかわらず同じ位置にいて、先ほどは全く動いていなかったのだがが、今度はよく見ると上下に細かく体が動いていた。

余計なお世話だとは思いながらも、オレはその横に車を停めた。

しばらく様子を見ていると、どうやら、やはり、嘔吐しているようだった。

人々はその真横をただただ通り過ぎていく。

ヒクヒクと体を動かしながら嘔吐している人を、全く意に介することなく、誰もが通り過ぎていく。

伏臥位で嘔吐し続けたら、窒息死することだってありうるわけだし、誰かしら声をかけてあげてもいいんじゃないかな、なんて思いながら見ていたのだが、本当に誰も、立ち止まりさえしない。

仕方がないのでオレは車から降りて、近くのファミマで一番安いミネラルウォーターのペットボトルを買った。横たわっているその人影に近づいて、声を掛けてペットボトルを渡した。そんなとこで吐いちゃだめだよ、大丈夫? 酔って吐いてるとさ窒息死しちゃうことだってあるし、ねぇ帰れるの? なんて調子で声を掛けていたら、人影は起き上がった。ちょっと目のキツイ20台初頭くらいの女だった。

シャツの背中がめくれて、抱え込んでいたバッグの上に吐いていて、カバンと手と服が吐いたもので汚れていた。ペットボトルを渡したときに手が触れて、指の外側にぬめっとした液体がついた。

なんか呼ぶ? 大丈夫? 救急車とか警察とかを呼ぶかどうかを一応聞いてみたが、おうち近くなんで大丈夫ですう帰れますうほんと近くなんでえ、というようなことを途絶え途絶えに口走っていて、窒息したりはしそうな吐き方だった。車にもどってペーパータオルを何枚かつかんで、拭くのに使って、と言って女に渡した。

水を飲む様子がなかったので、ちゃんと水飲んでよ、わざわざ買ってきたんだから、と嫌味のつもりはなかったにせよ、ちょっとだけ釘を指してから、車に乗り込んでオレは立ち去った。車に乗り込むと、女はペットボトルを開けて水を飲み始めた。

 

なぜオレはそんな見ず知らずの女に、そんなことをしたのだろう。

 

どうせ飲みすぎて潰れただけだろうし、それは自業自得。

伏臥位で嘔吐しているのは、誤嚥や舌根沈下の可能性があり、やや危険性はある。

でも何より、たぶん、みんなが黙って通り過ぎていくのが腹立たしかったのかもしれない。

お人好し気質なのかもしれないが、誰かが嫌な思いをしていたり、悲しんでいたりすると、どうしてか、とりあえずなんとかしたいと思ってしまう。

もちろん、自分を犠牲にしてまで誰でも助けるわけではないのだが、それでも、ついつい気がつくと体が動いていたりする。

横たわっている女の子に触れたり声を掛けたりすると、なにかの疑惑を掛けられたりするリスクもあるわけだし、今回の子だって、わざわざ買ってきて与えてあげた水を、感謝もせずに当然のように飲み始めた。

べつに、見返りとか感謝が欲しいわけではない、と自分では思っている。相手が女であれ、男であれ、道端に転がるようにして倒れていたら、とりあえず声くらいはかけるし、なにかしてあげたいと思うが、なんでそういうことをしようと思うのか。

 

見返りが欲しいのか

その対象者と親しくなりたいのか

その対象者に評価されたいのか

そういうことができるくらいに人間性が高いと周囲の人に思われたいのか

 

なぜ、オレはあの泥酔している女を起こして水を与えたのか。

 

と、その動機の部分をこうして考察しているわけだが、もしかすると、しかし、その問いそのものが、わりとほんとにどうでもいいことなのかもしれない。

 

困っているであろう人がいて、手を差し伸べる余裕がたまたまあったから、少しだけ手を差し伸べてみた。

 

ほんとうに。

それだけの話しなのかもな…。 

そんな、三軒茶屋の夜だった。

 

 

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という記事が下書きに入っていた。

たぶん、二年くらい前に書いたんだと思う。

なぜ公開しなかったのかは、謎。

コロナもなかった時代の出来事ですねぇ。

とりあえず、供養がてら、公開しておきます。笑

カレーを作るのだよ、キミィ

きっかけは、いつだって本当に些細なことだ。

昼に、自宅の近所の八百屋に行った。八百屋で買い物をするのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。そもそも料理をほとんどしないでここしばらくの日々を過ごしてきていたし、八百屋がやっているような時間に家にいることがまずなかったので、料理をしたとしても食材を買うのはスーパーだった。

スーパーの野菜も、きちんと選んで買えばいいものは買えるのだが、基本的に、高くつく。新鮮で美味しい野菜を安く買いたかったら、当たり前だが、八百屋にいくべきだ。

ひさしぶりの八百屋に、嬉しくなって思わず爆買いしてしまった。カゴいっぱいの野菜を買ったのだが、それでも2700円だった。嬉しくていっぱい買っちゃって、とレジのお姉様と話していたら、うちもそう言ってくれるのがほんとに嬉しいのよ、来たけど別に欲しいものないな、って思われちゃったら悲しいからね〜と言って、レジ袋の代金をおまけしてくれた。笑

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きょうの八百屋は、キノコ類が特によかった。ひらたけが2パックで100円。ひらたけは、旨味が強いキノコなのだが、さて何をつくろうか、と思いながらとりあえずカゴに放り込む。マッシュルームも138円だった。なんだかんだで一番好きなキノコなので、これも2パック放り込む。それから、椎茸が80円だったので、これも2パック放り込む。傷んでいる椎茸が2パック100円、なんていうのはスーパーとかでもあったりするが、これはシャッキリと元気な椎茸だった。

そうこうしてキノコをいろいろ買い込んで帰宅して、少しだけ考えてから、思い至ったのは、そう、カレーだった。

久しぶりにちゃんとカレーを作るぞ、と思うと、燃えてきた。

カレーとは縁が深く、いままで幾度となく作ってきた。商品として店頭に並べるものを作っていたこともあったりと、それなりに、カレーに対するこだわりは強い。

基本的に、市販のルーというものは使わない。かといって、ホールスパイスを使うわけでもなく、カレーのベースになるのは、カレー粉だ。ギャバンのものをよく使っている。

さて、キノコがたくさんあるな、ということで、まずはキノコを炒める。程よいサイズにカットして、油をひかないフライパンで火入れする。途中で白ワインを回しかけたりしながら、焼き煮にするようにしてキノコを炒める。

 

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次は、玉ねぎだ。荒めの微塵にして、耐熱ボウルに入れてレンジでチン。小さめの玉ねぎ3個くらいを今回は使った。レンジは500wで8分くらい。

レンジから出てきた玉ねぎは、オリーブオイルを引いたフライパンで炒める。この時、レンチンする前に玉ねぎにすこし塩をふっておくと、水分がよくでて、炒めた時に飴色になるのが早くなるらしい。
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言い忘れていましたが、玉ねぎの皮ですが、捨てません。手頃な鍋に水を張り、皮を入れて煮るのです。

すると、いい感じの出汁がでるんですね。これは、あとでカレーの水分を調整するときに、水の代わりに使います。
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焦げないように気をつけながら、でも色がつくように、よーく炒めます、玉ねぎ。
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ほらほら、茶色くなってきた!


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キノコのカレー、と言っても、とはいえ、もうちょっと何か欲しい。

トマトベースにするか否か、は少し考えたが、まぁ入っていたほうが美味しいよね、ということで、トマトベースにすることに決定。

じゃあ肉はどうする!!!??

キノコのカレー、であれば、ひき肉を使うのも良さそうだが、どちらかというと、しっかりと肉も食べたいたちなので、キノコと豚のカレーにすることにした。牛の気分ではなかったのと、牛肉がきちんと柔らかくなるまで煮込むのはなんだかちょっと今日は面倒だったような気がしたのとで、豚になった。鶏でもいいのだが、最近、チキンとトマトのスープを作ったばかりだったので、今回は豚なんです。

豚肉は、国産で統一しようかとも思ったが、予算のことも考えて、すこし迷ったが、カナダポークにした。クラム100円くらい。安い。オーケーストア価格で、国産だと140円くらい、カナダだと100円くらい、という感じだった。べつに国産にしてもよかったのだが、手頃なサイズの厚切り肉のパックが国産では売り場になかったこともあって、カナダにした。こういう時に思うが、国産と海外産がどちらも選べる状態で海外産を選ぶのと、最初から海外産しか選べないのとでは、ずいぶん違うよなぁ、ということ。オーケーは基本的に両方置いてくれているので嬉しい。

部位は、肩ロースとバラにした。余計な油を落とすために、まずはオリーブオイルをひいたフライパンで軽く焼く。くれぐれもここでは強火にはしない。肉が硬くなってまうがなやで!!


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ということで、焼くんですが、バラよりも肩ロースの方が硬くなりやすいので、火入れは慎重に。

 

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肩ロースのほうは、トロ火で火入れしました。あんまりやたらめったらフライパンの中で動かさないほうが、表面に焼き目がついていいかもしれません。

 

豚は、そのあと、さらに煮ます。

水を張った鍋に、軽く塩を入れて、焼き上がった豚さんを投入します。この際も、過剰な火入れは厳禁です。肉の部分を硬くせずに、脂身の部分をとろけさせる。そんな仕上がりを目指して、弱火で火入れします。


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途中の写真をとりわすれましたが、カレーベースの本体の方は、飴色玉ねぎ、いためたキノコ、すりおろし生姜&にんにく、トマト缶、玉ねぎの皮の出汁、を鍋に入れて、グツグツします。

これは混ぜて煮てる時の様子ですね。


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豚を煮る方は、ネギの青い所をいれると、くさみが減るのでよいです。

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ちなみに、玉ねぎの皮の出汁はこんな感じになります。にんじんの皮やらキャベツの芯やら、といった他の野菜クズも一緒に入れてもいいのですが、今回はシンプルに玉ねぎの皮だけにしました。


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トロ火で放置して1時間くらい煮たら、肉はふわふわに柔らかくなりました。


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カレーベースの方もいい感じに煮えていますね。


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そこに豚を投入! ちなみにこれは、冷水を張ったボウルに一旦泳がせてから入れた豚、の様子です。ボウルの水で泳がせるのは、余計な脂を落とす為、なわけですが、動物のオイルが過剰だと、コクはでるんですが、なんだかまとわりつくような油っぽさを感じやすくなることにも繋がるので、特に海外産の場合はなおのことなのですが、しっかり脂を落とすためにいろいろ工夫しています。

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肉をよく混ぜて、ちょっと水分がたりなかったので例の玉ねぎの出汁をたして、そしてこんな感じになりました。


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ちなみに、豚を煮る時は、こんな感じで、ちょっとした湯煎か? くらいの構成でよわーく日が当たるように気をつけていました。


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肉を入れてしばらく煮たところ。肉の色がだんだんと白から茶色へと変わっていく。

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まだカレーとしては未完成だが、肉とルウをちょっとだけ出して食べてみた。豚のカレートマト煮、的な。味付けは、途中で、ウスターソース、醤油、みりん、などを入れています。うむ、おいしい。明日には、カレーとして仕上がっている、予定なわけですね。楽しみ。ちなみに、豚を煮た汁は、上澄の油をおたまで捨てて、下のスープの部分は、調整しながらカレーに入れました。塩豚スープみたいな感じになっていたので、うまみと塩分と水分の調整に使いやすくて便利でよかったです。

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というわけで今回のカレーは、無化調鶏ガラスープを含めて、既成のうまみ成分を一歳使いませんでした。

ほんとうはこれが一番なんだけど、大量調理とかではもうそうも言ってられなかったことも多かったのですがね、、

 

明日、カレーとして食べるのが非常に楽しみであります。

なんでもないブログ

思えば、ブログを書く人も減ったし、書くことも減った。ツイッターもあるし、もっと違う形の自己表現メディアが、近年ではぐっと増えた。

ふと思い出してこのブログを覗くと、最後に書いた記事は250日近く昔の記事だった。それでも、それだってついこの間のことのように思えるのだが、もう半年以上が経過していることを更新日が示していた。

購読中のブログ、というところを見ると、懐かしい身内のアカウントや、いいなと思って登録した知らない人のブログが出てくる。だが、もう誰も更新していない。笑

5年くらい前で更新の途絶えたブログなどがそこには並んでいる。

10代の頃、ブログは自分に取って、とても大切な存在だった。今見ると間違いなく赤面物ではあるが、酒を飲みながらあることないことを真夜中にブログに綴って過ごしていた。音楽の趣味、興味のあること、そういうものが合う友達が全くいなかった。バイト先の人たちとのときたまの飲み会を楽しみにしながら、一人、居間にあったパソコンに向かって文字を打って夜を過ごしていた。

信じられないことだが、それから15年以上の月日が流れた。その頃から見て、倍生きたことになる、といま考えていて、心底びっくりしてしまった。ラムを一晩でひと瓶飲んで寝ながら吐いて最悪の気分で目が覚めたりとか、眠れなくて夜明けに近所を歩き回ったりとか、寒さに凍えながら軒先でタバコを吸ったりとかして生きていた。そんな若さは、当たり前だが、もう無い。

いま、深夜3時にだらだらとベッドに横になってこれを打っている。特に書きたいこともなかったが、昔のブログを眺めていたらつい筆を取っていた。やや酒を飲んではいるが、あまりまだ酔ってはいない。昼に食べたカレーがまだ残っているような気がして夕飯は食べなかったのですこし腹が減ってきた。昔だったら、こんなときは近所のラーメン屋に行ったりもしたものだが、今住んでいるところの近所にはこんな真夜中までやっているラーメン屋はないし、だいたいコロナで夜は店がほとんどやっていない。

15年前には、コロナウィルスが流行することなんて想像さえしなかったし、倍に年齢を重ねた自分の姿はまったく想像できなかった。父親がいまの俺の年齢の時には、もう三児の父だった。今の年齢の倍の歳になったとき、俺は何をしているのだろうか。そもそも生きているのだろうか。

なにか食べたいような気もするが、まだ胃がもたれているような気がして、積極的に何かを食べようとは思えないし、そもそもベッドから這い出るのが面倒すぎて、さっきからベッドサイドのテーブルに置いてあったブランデーを瓶のまま飲んでいる。階下のキッチンに行けば昨日開けたワインがあるが、いまごろキッチンは極寒に冷え切っているだろうし、とても行く気になれない。

正確な日付はわからないが、ちょうど1年くらい前、知人が死んだ。知人と言うべきなのか、友人と言うべきなのか、あるいは仲間と言うべきなのか、ないしは元恋人と言うべきなのか、わからないが、ひとりの女性が死んだ。デリカシーのない言い方かもしれないが、セックスしたことのあるひとが死んだのは後にも先にも初めてのことだった。その死因に俺は直接は関与はしていないとはいえ、いま思い出しても複雑な気持ちになる。彼女がいまも生きていたら、どうしていたのだろうか。もしいま会ったら、俺は、彼女に、なにを話すのだろうか。

時は流れている。当たり前のことだが、15年が経てば、その分だけみんな歳を取る。少し前に、ひさしぶりにミスチルのライブ映像を見て、その映像に、15年の時を感じた。15年前によく観ていたライブDVDの曲間のシーンで、沖縄でサッカーボールを蹴るまだ30代だった櫻井さんの姿が映っていた。いつか、最高のパートナーをみつけて、その人と沖縄に行ってみたい、とそのシーンを観ながら、かろうじて童貞じゃないくらいのティーン、だった俺は思っていた。

まだ、沖縄には行ったことがない。

暇の効用

 いろいろあって、気がついたら2020も既に半分近くが終わってしまった。この1ヶ月くらい、随分と暇になった。というのも、仕事がほとんど無くなったからで、当然なわけだが、こんなに時間ができたのは久しぶりで、未だにその実感が無い。

 

 コロナに感謝している、というと語弊があるし、悲しい訃報もあったので、コロナ騒動を100%肯定することはできないが、コロナのおかげで、自分にとって本質的な意味で、しなくてもよかったこと、したくなかったこと、を生活から切り離すことができたような気がする。

 

 四月の始め頃まで続いていた日常が、急に壊れて、仕事が全く無くなった。リモートワークに切り替えて続けるような仕事でもなかったので、出勤することもなくなったし、それまでの生活では考えられないくらいに暇になった。そういう暇な生活は初めてではなくて、数年前に飲食店経営から退いたあともしばらく似たような感じだった。早起きする必要もないし、夜ふかしも気にせずできるし、平日も週末も関係ないし、季節を感じる食べ物を求めて出かけたり、気まぐれで舞い込んだ仕事を引き受けたりして、自由に暮らしていた。稼ぎは不安定だったし、金銭的な不安も大きかったが、それでもなんとか暮らせてはいた。その頃と比べて、そりゃあバリバリお金を稼げていた頃のほうがある意味では楽しかった。やりたいことをやったり、欲しい物を買ったりするのにはお金が必要で、お金が理由で出来ないことが減るのは、悪いことではない。だが、当然のことながら、お金と引き換えに、自由気ままな時間は消えた。コロナ騒動が始まるまでは、夕方に空を見上げて缶ビールを開けて近くの商店街まで歩いたりりするような日々と引き換えに、収入を得ていたような気がする。

 

 何事も、きっかけはたいてい外から来る。もう少し続けたらやめよう、と思っていたことは大抵、外的な要因で続けられなくなったりする。コロナで全てがだめになって、どこかホッとしていたのかもしれない、と最近気がついた。コロナが来るまでは、仕事で料理をしていたので、家で料理をすることがほとんど無くなっていた。外に出ていることが多いので、ラーメンとかつけ麺ばかりを食べていた。疲れて帰るので夜は毎日酒を飲む。そんな暮らしから一変して、ほとんど家にいるようになった。出かける用事が全くないわけではないののだが、自粛が奨励されているのをいいことに、どうでもいい外出は全て断った。ラーメンも何度か食べには行っているが、ほとんど行かなくなったし、家で料理をすることが増えた。塊肉を買って角煮を作ったりとか、ちょっと手間のかかる料理も久しぶりに家でするようになったし、カキとアサリとキノコを煮たものを冷蔵庫に冷やしておいて数日かけて楽しんだりとか、そういうライフサイクルが出来上がった。家にずっといると酒浸りになりそうなものだが、意外にそうひどくもない。当然のように酒を飲んではいるが、毎日昼間から飲んでいるわけでもないし、深酒もほとんどしなくなった。酒も飲み飽きた、ということなのかもしれないが、酒を飲んで麻痺させていと思うようなストレスがなくなったことで、不必要に酒を飲む必要がなくなったような気がする。酒というのは、飲めないから飲みたくなるのかもしれない。運転して朝から晩まで出かけていたら、当たり前だが、酒を飲めない。だから早く帰って酒を飲みたいと思う。しかし、酒を飲んでも何も生まれない。酒を飲むことで明日に進める、というようなところはあるが、酒を沢山のんだからといって、なにかをひらめくわけでも、脳が活性化するわけでもないし、たぶん、むしろその逆だろう。

 

 まだ何かを成し得ていない。そう思っている。同世代の友人知人を見回せば、資格を得たり、職能を得たりして、皆、それなりのステータスを築き上げているような気がする。俺はと言えば、何も無い。もちろん、全く何もないわけではないのだが、あるのはみなあくまでも食いつなぐためのささやかなツール、とでもいうようなものばかりで、自身のアイデンティティと言えるようなものは、結局、まだ無い。強いて言えば、よくわからない分野のジェネなリスト、を名乗ることもできるかもしれないが、はっきり言って、それも飽きた気がする。なにか投げたらそれなりのものを返せる、という俺のスキルは、時として重宝されるが、求められるのも返すのも、あくまでも、それなりのもの、なのであるからして、結局、投げられるリクエストの要求度合いもそれなりでしかないし、はっきり言って張り合いがない。たとえば、水道工事が得意なので、ちょこちょこそういう依頼も来る。知恵を絞って課題を解決する楽しみはあるし、誰かの役に立つのは悪いことではないので、楽しくもあるが、ある程度の技術や経験が身につくと、ただの作業になってしまう。何かを習得するワクワクはどんどん減っていく。で、水道工事の専門家になりたいわけではないので、お金がもらえるなら頼まれたらやるし、やれるが、だからといって、その積み重ねの先には、別にたぶんなにもない。

 

 自分の性格からして、何かを成し得た、と心から思うことはなかなか訪れないような気もするが、暇になれた、という点においては、コロナには感謝している。暇のなかからしか生まれないようなものもあるような気がする。毎日の予定と課題に追われて、ただただ忙しく過ごしているだけでは、いつからか、脳の深い部分をあまり使わなくなる。仕事をこなして金を得ることに、喜びはあるが、脳を使い切っている感覚特有の喜びは、ほとんど無い。

 

 コロナ騒動によって得た暇、有効に使いたい。といっても、時間をきっちり有効に使うという意味ではもちろんない。ダラダラしたり、美味しいものを家で食べたり、好きなことをしたりして、それで、飽きてきたころに、何かが見つかるような、気がする。たぶん。違うかな? 違うかもな…。どうだろう?

 

 

サイゼリ愛

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かつて、10年ひと昔くらい前のオレは、サイゼリアをバカにしていた。

始めてサイゼに行ったのは、中学生のとき。クラスの友達と、学校帰りに綱島ラウンドワンに行ったりして、その横にあったサイゼに時々入っていた。
中学生は金がない。ミラノ風ドリアか辛味チキンばかりを頼んでいた。

4・5年が経って、大学生になって、やはり友達とダラダラ過ごすのにサイゼを使ったりしていた。
その頃のオレは、いまから考えると、食べ物の味をぜんぜんわかっていなかった。いまのオレの食生活を知るひとからしたら信じ難いだろうと思うし、自分でも信じられないが、その頃のオレは、いまだったら日常的には食べないような、カップラーメンだとか既製の調味料だとか安いレトルトカレーだとかコンビニの菓子パンを、平気な顔で摂取していた。

ひとり暮らしをしていた相模原の片田舎の街の隣駅のイオンにサイゼが入っていて、友達とチャリを漕いで食事に行ったりしていた。そのサイゼで、平日の夜遅くに、ひとりでワインを飲む大人を見て、ああいう虚しい大人にはなりたくない、と思ったのをいまでもよく覚えている。
しかし、そんなおじさんに対しても、サイゼリアに対しても、その頃のオレは随分と失礼な態度と物言いだったと、いまになって思う。

サイゼリアにデートで行くことの是非について、何年か前にネットで話題になったことがあった。
大学生の頃のオレは、そのデートサイゼ議論に出てくるサイゼ否定派と同じような目線でしかサイゼリアを見ていなかった。
その議論をきっかけに、サイゼリアを見直すようになったのも確かなので、サイゼデート論争にはある意味では感謝している。個人的に、デートでサイゼに行くかというと微妙なところではあるし、付き合ってしばらく経った相手と行くのかでも、まだ数回しか会っていない相手と行くのかでも違うとは思うが、とにかくまず言いたいのは、価格だけでサイゼをバカにしてはいけない、ということだ。

以前、カンブリア宮殿にサイゼが登場したとき、会長の正垣さんが、創業時のエピソードとして、開業した洋食屋が売れないから値段をどんどん下げて、どこまで下げれば売れるのかを検証したところ、70%オフにすれば売れるということがわかったので、その価格で提供できるようにした、というようなことを話していた。
たとえばサイゼリアのミラノ風ドリアは税込み299円だが、本来はそれが1000円で提供されていたものだと考えると、非常にお得に思えてしまう。もちろん、299円のミラノ風ドリアと、1000円のミラノ風ドリアでは、素材も味も違うだろうが、しかし、299円だからといって、でたらめなものを出しているわけではないのだ。

安さの弊害、というと語弊があるかもしれないが、ここまで安いと、どうせ安いんだし、と安易なバイアスでバカにされてしまうことも多い。
食事に限らずとも、物事の本質というのは、往々にして見極めるのが難しいことが多い。食べ物、飲み物、服、靴、かばん、車、バイク、パソコン、どんなものでもそうなのだが、謳われている触れ込みと、実際の品質が一致しているとは限らない。そうなるとつまりは、あらゆる物事は、本質的には自分の物差しで評価しなければならないということになるわけだが、そのためには基準が必要になるし、また、基準を持たないでたらめな評価は、周囲を失望させたり、自分の評価を下げることになる。
食べ物に関して、ここ数年はほんとうにうるさいくらいにブツブツ言いながら暮らしてきたが、もしかすると、それは基準を作ろうとしていたということになるのかもしれない。基準を作る、と意識してきたわけではないが、味や香りの標準値を知り、自分のなかに基準を形成し、そしてその上で更に自分の好みを見つけていく。
意識してやってきたことではないし、作業だとは全く思ってこなかったが、店で食べる料理から自分で作る料理まで、いままで食べてきた物を通して、そういう基準を作るという作業をしてきたということになるのだろう。
誰かと食事をするとき、そういう基準を、何らかの形で自分の中に持っている人と食事をすると楽しいが、基準を持たずにただ好みだけで批評する人と食事をすると、的はずれな意見や選ぶ食べ物のそのセンスに苛立ったりする。
もっとも、自分の中では客観的な基準・主観的な好み、と別れてはいたとしても、その性質上、完全なる客観というものはそこには存在し得ず、自分の中では客観的な基準だったとしても、それはあくまでも限りなく客観に近い主観としてしか存在し得ない。そこが難しいところなのだ。オレからすると、こいつは何もわかってないな、と思うような、基準が不在の食への評価も、目線を変えれば、オレのいう基準のある評価と、なんら変わらないということにもなる。そうなると、どうやって自分の食への評価の基準に裏付けを作ればいいのかという話になるわけだが、有名なシェフになるとか、食に関する仕事で定評を得るとか、周囲の人からの自身の食に対する評価への信頼を獲得するとか、そういうことが必要になるのだろう。
何の話をしていたのだろう。とにかく、サイゼリアのことを、かつてのオレはバカにしていたわけだが、食に対する評価の基準をいくらかではあるが作ってから、数年前に久しぶりにサイゼリアに来てみたら、感動してしまったのだ。これは松屋も同じなのだが、何も考えずに食べていた頃はその凄さがわからなかったが、ひとまわりすると、価格と提供されている内容を総じた目線で見るよいうになると、感動しそうになることがある。

と、前置きが随分と長くなってしまったが、先日サイゼリアに行ったときに嬉しかったことをいくつか書こうと思ってこのブログを書き始めたのだった。

 

 

卓上調味料がさらに充実

もともとサイゼは随分前から、EVオリーブオイル、唐辛子フレーク、粉チーズ、ミル付きブラックペッパー、が自由に使えて、食卓で味を調整できるようになっていた。客に対して、好みの味に調整してくれ、と言うのは勇気がいることが。しかし、自身の出している料理の味に自信を持つのはべつにいいことなのだが、現実問題として、味の好みは千差万別であり、個人差も大きい。食卓に胡椒さえ置かないし、そもそも用意すらもしない、というラーメン屋があったりするが、それが良いかといえばそうとも限らない。ケースバイケースなのでなんともいえ無いが、ラーメンに胡椒をかけさせない、のは、自分が一番美味しいと思う味を楽しんで欲しいという料理を出す者としての美学であると同時に、客に好きな味を選ばせないというエゴでもある。
プライドを持って卓上調味料と置くのか、プライドを守るために卓上調味料を置かないのか、という話になるわけだが、しかし、結局は、客に好きな味を美味しく楽しんでもらうことを考えたら、置いたほうが良いと思う。

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自分の美学か、客の美味しさだったら、どんな客が相手であれ、原則としては客の美味しさのほうが重要だと思う。サイゼのメニューの紙には「じぶん好み発見」を楽しもう! Make Your Favorite と書いてあった。そんなわけで、いろいろと使い勝手の良い卓上調味料を用意して、客が味を変えることを肯定しているサイゼは、それだけでも十分に素晴らしかったのだが、何を思ったのか、最近のアップデートで、卓上調味料に醤油が追加された。なぜ醤油を置こうと思ったのか気になるところではあるが、料理によっては醤油があるとより美味しく食べられるものもあるとは思うので、とはいえ嬉しいものである。醤油はヤマサの本醸造超特選。個人的には市販醤油ではダントツでヒゲタの本膳を推していて、この超特撰よりも醤油としては本膳のほうが美味しいとは思うが、とはいえ、キッコーマンのガラス瓶の醤油とかではなくて、このクラスの醤油を選んでくれたのは嬉しい。ヤマサの超特選は、分類としては普通のこいくち醤油だが、やや調味してあり、みりん、醸造酢、調味料(核酸)なども加えられている。このあたりが、やはり古臭い人間としては、シンプルなふつうの醤油のほうがいいなと思ってしまうのである。当たり前だが、本膳はわけのわからない余計な成分は入っていない。核酸というのは要はイノシン酸系の旨味成分のことで、イノシン酸は醤油との相性が良いので悪い選択ではないとは思うし、比較的、グルタミン酸よりもマイルドな傾向があるが、とはいえ結局は旨味調味料だ。
以下、ヤマサの本醸造超特選の感想のメモ。塩分濃度はやや高め、香りはキリッと淡いが全体でややパンチに欠け、洋食の料理にいれると負けてしまったり、醤油くささが生臭く感じてしまうかもしれない、旨味は妙に強いが、塩味が前に来てしまい、後味にやや違和感のある甘みと旨味が残る。これは核酸が配合されていると知る前に書いた評価なのだが、妙な旨味の強さが気になっていたので、やはり、と思った。

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消費税増税後も内税で価格据え置き
サイゼくらいの大きな会社だと、2%の増税は決して少ない金額ではないとは思うが、営業努力で吸収してくれている男気…! ミラノ風ドリアはずーっと299円をキープしてきているが、それをちゃんと続けられている経営体力、気持ち、素晴らしいと思う。

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炭酸水が無料と明記された
ドリンクバーの炭酸水、飲みたいんだけど飲んでいいのかどうかよくわからず、ときどきビクビクしながら飲んだりしていたのだが、正式に、炭酸水は無料と表記されていて、嬉しかった。笑
甘ったるいものは飲みたくないが、ヨーロッパの食事は炭酸水が合うと思うので、ドリンクバーを注文せずとも炭酸水が飲めるのはありがたい。

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ちなみに今回は、たらこスパゲティとマッシュルームのスープをオーダーした。
ここまで、これだけごちゃごちゃ書いておきながら、たらこスパかよ、というご意見もあろうかとは思うが、たまに無性に食べたくなってしまうのである。かつてよく行っていたポポラマーマでもたらこスパはよく食べていたし。ちなみに、海苔が乗っているのだが、とくに香ばしくもないし、むしろやや生臭いので、海苔は無いほうがいいような気がした。
マッシュルームのスープは、季節ものメニューなのだが、毎年つい頼んでしまう。きちんとマッシュルームの香りや旨味が溶け込んでいて、すばらしく美味しいというわけではないが、価格を考えると十分に美味しいと思う。そのままでも美味しかったが、粉チーズとオリーブオイルとブラックペッパーで味を整えて食べたら、ワンランク上の味わいになった気がした。

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と、ここでまた気づいたのだが、価格を考えると、というのがサイゼを語る上でのポイントかもしれない。
件のデートサイゼ論争にしても、サイゼそのものは美味しいのだが、価格を考えると美味しい、というがやはり肝になってくるのだろう。価格を考えると美味しい、という店に行ける関係性かどうか、ということの見極めの問題と言い換えることもできるかもしれない。価格を考えると美味しいのだが店が汚い、とか、価格を考えると美味しいのだが中学生がミラノ風ドリアを食べる店だ、とか、そういうような、価格を考えると、が、おいしい、の前に付くような店には、まだ数回しか会ったことのない相手とのデートでは行くべきではない場合が多いし、そういう間柄の相手とは、もちろんオレはサイゼには行ったことがない。


蛇足だが、サイゼの間違い探しはなかなかイカしている。行くたびに夢中になってしまうのだが、今回はわりとあっさりクリアできた。

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と、サイゼを褒めることばかりを書いてきたが、いただけない点もある。今後、是非とも変えて欲しいのが…

 

なぜ赤ワインがキンキンに冷えているのだ?

 

頼んだらワイングラス出してくれてもよくない?

 

というこの2点。いつからか、鮮度管理のためなのかなんなのか知らないが、赤ワインをオーダーするとキンキンに冷えたものが出てくるようになってしまった。ワイン自体の品質は、価格(グラス100円)を考えるとカケラも文句がないので、これは素直に残念だ。キンキンに冷えた赤ワインは味も香りもクソもなく、なにを飲んでいるのかよくわからなくなる。いつぞやなど、デカンタごとドリンクバーのお湯で湯煎して常温に戻して飲んだことがあったが、そうでもしないと赤ラインを楽しめないのは非常に残念である。セオリーでは、白は冷やして、赤は常温で、とされているが、赤だって種類によっては冷やしたほうが美味しいものがあるのはわかるし、サイゼとてバカではないから、冷やしても大丈夫、十分に美味しいと判断して冷やしているのかもしれないとは思うが、個人的にはサイゼのハウスワインの赤は、あの冷たさは美味しく楽しめる冷たさでは無いと思っている。と考えていのだが、隣の席にあとから来た家族連れのお父さんが、席に着くなり家族全員に割り箸を配ったのを見て、まぁワインの温度がどうこう言うべき店ではないのかもしれない、と思ったし、結局、安いということはそういうこと(=客層もそうなる)なので、やはり、デートで来るべきではないことには間違いがないのかもしれない、とまた考え込んでしまった。

それから、ここ数年で、グラス類がすべてプラスティックの割れないものに変わってしまった。べつにドリンクバーのグラスはそれでぜんぜんいいし、何も言わなければプラスティックで出してくれて構わないとは思うが、頼んだらガラスのワイングラスを出してくれてもバチはあたらないのではないだろうか…。なんてね…。

 

ワイングラスはさておき、赤ワインの温度のことは気になるので、どういう考えや意図で冷やしているのか、問い合わせてみようかな…。

 

 

9月のある日の日記

別にいま暇なわけではないのだが、なんだか充実した一日だったなぁと思うので日記を書きます。

 

9月某日

 

わりとちゃんと早起きした。父親と、介護施設で暮らしているじいさんと、食事に行くことになっていたので、車椅子を積みやすいようにと、普段遣いのライフから貨物車のバモスに車を入れ替えた。じいさんと父さんを乗せて、目黒通りの大黒屋という鰻屋に向かった。大黒屋という店は目黒通りにいくつかあって、米屋のほうの大黒屋、鰻屋のほうの大黒屋、などと呼びわけないとどっちの大黒屋なのかわからなくて混乱を招くことになる。と、いくつかある、とは書いたものの、大黒屋がほかにもあったような気がしたのだが、考えてみたが思い浮かばなかったし、調べてみたけど出てこなかったので、目黒通りの大黒屋は、正確には2個ということになるらしい。

 

この大黒屋という鰻屋は、絶妙なポジションにある鰻屋で、経営母体的にはチェーン系の店なのだが、大黒屋自体は2店舗しかないので、個人店に近い感じもある、不思議な店なのである。味のほうも同じで、最上の味でもないが、ファミレスの味でもない、という、そう、絶妙なところなのである。もっとコスパがいい鰻屋も、もっと美味しい鰻屋も、ほかにあるし、個人的にわざわざこの大黒屋に行くことはあまりないのだが、駐車場を完備していて車椅子で入りやすいなどの点から、今回のように家族で行くことが以前にも何度か有った。前回行ったのも家族とで、たぶん2012年とかのことだったと思う。

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う巻きがとても綺麗だった


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偏光サングラスをカメラのレンズの前に置いて撮った。肝が綺麗に撮れている。


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偏光レンズなしだとこんな感じ。偏光のほうが、ややくっきり見えてる気がしない?

うな重の上とう巻きを頼んで、祖父、父、おれ、の3世代でうなぎを食べた。うなぎはふっくらよりもパリッと寄りの仕上がりで、個人的にはやや脂が乗りすぎているようにも感じたが、まずまずの美味しさだった。お米は粒が大きめで、ちょっと固めで、トータルで綺麗に炊けていた。タレは甘すぎはしないがキリっと感はなく、あんまり印象に残らない味だった。う巻きはすごく綺麗に巻けていてよかった。祖父は卵が好きなので、嬉しそうに食べていた、と思う。

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じゃじゃじゃーん


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なんだかんだで美味しかったっすよ


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とはいえうなぎは尊いよ…


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脂ノリノリやな


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米は粒大きめ、しゃっきり炊き

 

 

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塩パンおいしかった

 

 

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武蔵小山のコーヒー。自家焙煎とのことで、とても美味しい!

 

食事のあとは目黒通り沿いの最近テレビに出て人気だと父がいうパン屋でパンを買った。そのあとは武蔵小山でコーヒーを飲んで、祖父を車で介護施設に送り届け、父親も実家に送って、車をライフに戻して家に帰った。うなぎの脂で胃もたれしたのか、家についたとたん、急激に眠くなってすこし昼寝してしまった。

 

そのあとはちょっと仕事に行ったりして、夕方過ぎに自由になった。

暑さが和らいできたのが嬉しくて、久しぶりにバイクのエンジンに火を入れた。最後に乗ったのがいつだったのかもはや思い出せなかったが、予想外にバッテリーも元気だったし、流石はインジェクション、ぐずることなくサクッとエンジンがかかった。

 

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どこへいこう。

 

と、エンジンのかかったバイクに跨ってワクワク考える暇などはなく、とりあえず行きつけのカーディーラーへ。ずっと担当してもらっていた営業のK藤さんが異動になってしまって、最終出勤日だったので会ってきた。というよりは、オーダーしていた部品をはやく引き取って欲しいと言われていたのでその支払いと引き取りに行かなければならなかったという方が表現としては正しいのだが、そこでK藤さんといろいろ話して、目黒通りを環七に向かって走り出したところでバイクを路肩に停めて、狛江の蕎麦屋に電話した。

 

その蕎麦屋は、土日祝はわりと早くに蕎麦がなくなってしまうことが多いので念の為電話したのだが、数枚分ならまだ蕎麦があるとのことだったので、1枚予約して、狛江に向かって走り出した。もう4年近く通っている蕎麦屋なのだが、蕎麦業界でも定評がある、というような店で、メディアで話題とかそういう系の店ではない。とにかく、きちんと安定した仕事をしている、というような店なので、いわば、おれのなかの蕎麦屋ベンチマーク的な存在かもしれない。

道すがら、行列の出来ているべつの蕎麦屋(たいして美味しくない)を尻目に見ながら、電話しておいた「志美津や」へ久しぶりに到着。すこし前に来ようとしたときは麺切れで行くのを断念したのだが、この日も、いつも好んで食べている粗挽き蕎麦や小そばは売り切れだったので、普通の十割蕎麦を予約しておいてもらい、自家製梅干しの冷かけ蕎麦を頼んだ。あご出汁のつゆは甘さと辛さのバランスが絶妙で、するすると飲み干してしまった。飲み干してしまったあとに蕎麦湯をお願いして、蕎麦湯だけを飲んで席を立った。ここの主人とは顔なじみで、近況を話したり、そばがきのコツ(今度の仕事で使う)を聞かせてもらったりして、店をあとにした。

 

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This is 志美津や!!


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自家製梅干しが美味しい!

 


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我々人類は、蕎麦湯を飲むために蕎麦を食べているのかもしれない

 

狛江、という街は昔付き合っていた彼女が住んでいたので来るようになったのだが、逆に言えばそうでもなかったらほとんど来ることのなかった街だった。いまでも、この蕎麦屋に来るためだけくらいしか来ることはないが、喜多見の駅前を通り過ぎながら、そのころのことをふと思い出したりする。

世田谷通りをすこし上り、玉堤通りに出て、なんとなくブックオフに寄った。何か欲しいものがあったわけではないのだが、村上龍のとある文庫本が、何という単行本から文庫化の際に改題されたのかを急に知りたくなって立ち寄った。無事にその文庫本の在庫があり、もとの単行本の題は「どこにでもある場所とどこにもいない私」だったことを知り、満足して別の本を何冊か買った。1階の古着などを扱うコーナーに、1980円と手書きの値札がついたアコースティックギターがあり、少し迷ったが値引き交渉をして1000円に負けてもらって買った。なぜ買ったのかはよくわからない。無名ブランドのものだったが、スプルース単板のそこそのいい材質だったのと、ちょこちょこメンテしたらちょっとは鳴りそうだったのと、メルカリで13000円くらいで売れた記録があったので、まぁとりあえず買った。しかし、よりによってバイクで移動している日に…と少しだけ思いながらダサい配色の付属のソフトケースで背中にギターを背負って二子玉方面へ走り出した。

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ジャンク品、と書いてあったが、大きく壊れたりはしていなかった。聞いてみると、単に楽器担当者が不在の店になってしまったので、取り扱いを終了するため、ジャンク扱いにしている、とのことだった。

 

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とにかくダサいソフトケース。ブランドも聞いたこと無いし、、

 

 

アメスタの前を通ったとき、引き寄せられるようにアメスタに入ってしまった。アメスタというのはアメリカンスタジアムの略で、バッティングマシーンとオートテニスを完備している施設だ。プリペイドカードを買うと数百円分お得になるので、ここのプリペイドカードはいつも財布に入っている。珍しくテニスに人が並んでいたが、すぐに空きそうだったので、無料のレンタルラケットを借りて順番を待った。無料ラケットがブランド物のちょっとだけいいやつに変わっていて嬉しかった。すぐに順番が来て、ブースに入って、カードを機械に差し込んで、残高が300円減ってゲーム開始のランプが点いた。ポコポコ飛んでくる球をひたすらバシバシ打ち返す。そこそこいい運動になったなぁなどと思いながら、今度はバッティングブースに入り、200円でバッティングを開始した。思いの外打てて、ちょいちょいホームランも出せたが、終わってミスったボールをノックしようとしたのだが腕が疲れて思うように打てなくて、ブースの外で待っていた少年にそれを見られていたのがちょっとばつが悪かった。

 

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ほら、ブランドラケット!前のはなんかスクエアな変なやつだった


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オートテニス楽しい

 

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意外と打てて嬉しかった


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この空気感、カビ臭いエアコンとタバコのニオイがまざった、なんというか、ラブホのロビーみたいな匂い、不思議な懐かしさがある

 

 

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斬新な荷物の積み方をしていたベンリィ

 

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バイクなのになぜこういうものを買うんだ

 

その後は三茶に寄って、オーケーでビールなどを買ってダンボールにいれてバイクのシートにくくりつけ、それから地元のドンキとツルハで買い物をした。ツルハには昔働いていたころの知り合いが今もいて、少し立ち話をした。その時点ですでにかなり荷物が多くなっていたのだが、さらにその後にうっかり馴染みの酒屋に寄ってしまった。

ブランデーとウイスキーを買いながら、また近況を話したり、この前の台風で目黒駅の前が冠水した話をきいたりして、家に帰った。

ギターを背負って、ワイン3本とブランデーと、トイレットペーパーとビールをたくさんと、ハンドソープのつめかえを20パック持って、帰宅した。

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鬼買いしたハンドソープ。ストックがないから詰め替えられない、とはもう言わせない。

 

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白金台のドンキは、ドンキなんだけど、ちょっと変わった雰囲気あるのでたまに行くと面白い

 

少しだけその新しいギターのメンテをして、別のギターを持って酒を飲みながら近所の森に行った。その森では夜中でもギターを弾いて歌えるので、ときどき、客のいないストリートライブをひとりでしている。

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ストリートライブのお供はインドの青鬼

 

いつものようにしばらく歌ったら雨が降ってきて、仕方がないので屋根のあるところに移ってまた歌っていたら、雨に濡れながら自転車のおまわりが二人来た。歌声が聞こえると通報があったらしい。いままでは何も言われたことがなかったので、どうやら場所を移ったのがまずかったみたいだった。いつものところは森の中心部なので、森を通る人以外には聞こえないのだが、移動したあとの場所は公園の出口に近いので、たぶん、外の住宅街に聞こえてしまったのだろう。

おまわりのうちの一人が、そのギターけっこう高いですよね、と話しかけてきた。おれが弾いていたのはKヤイリという国産ブランドのギターで、10代のころに買ったやつだった。あーそうですね、10万くらいとかですかね、なんて答えたのだが、そのおまわりさんも昔ギターをやっていたらしく、自分もガキのころに路上で歌ってたら警察が来たことがあって…とか言ってたので、それはおまわりさんになる前ですか? と聞いたら、もちろんそうです、と言われた。あとはギブソンが、とかマーチンが、とかそんなようなことを少し話して、住所を聞かれたがそこは適当にはぐらかして、小雨降る中をおとなしく退散した。

 

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ストリートライブは猫が聴いていた

 

帰宅して、同居人といろいろ話したりして、また酒を飲んで、気がついたら朝になって、雨が強くなっていた。

 

ふと、悪くない一日だったな、と思った。

 

 

俺のライフを見ておくれ!!

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▲納車当日。ガソリン満タンにしても安くて笑う

 

6月は自家用車を2台買った。
月に車を2台買った経験は別に以前にもあるような気がするし、それ自体はそう大したことではないのだが、今回もどういうわけか偶然が重なって、結果的に、同じ月に2台買う運びとなった。

まず、メインカーだったオルティアを2代目CR-Vに買い替えた。乗り換えの一番の理由は、荷室の狭さだった。荷物をいろいろ運んだりするのにも便利そうだなと思いながらも、あんまり大きな車はいやだなと思って選んだオルティアだった。現状、コンパクトなステーションワゴンとなると、オルティア以外に選択肢が無いのである。
そりゃあオルティア以外にも世の中にはコンパクトなステーションワゴンはたくさんあるだろうが、俺にとっては、オルティアしか選択肢がなかった。そう、俺の場合、MT車であること、ホンダ車であること、の2点が、車を選ぶ上で外せない条件なのである。これは宗教なのか病気なのか、もはやなんなのかよくわからないが、自身に課しているルール、というよりも、生理的な許容、の問題で、買う車はホンダのMT車じゃないと、なんだか落ち着かないのである。難儀なものだが、車を買うようになってから、その制約のなかで車を選んで暮らしている。

CR-Vは、もともと初代モデルのRD1のMT車を昔持っていたことがあった。のだが、そのRD1は雨漏りが治らなかったり、燃費が悪かったり、非VTECエンジンだったりと、納得の行かない点が多く、手放してしまった。その次は、コンパクトできびきび動く車が欲しくて、EK3シビックを買って、これは大満足だった。
ではなぜいまはもうシビックに乗っていないかといえば、実用性と積載性の問題が生じたからだ。仕事でいろいろ荷物を運んだり、人を載せたりするとなると、トランクがしっかりある4ドアの車じゃないと、段々と厳しくなってきて、泣く泣く車検が切れたのをきっかけにEK3は抹消し、かわりにそれで去年オルティアを買った。

オルティアは、EK3とフロントまわりの内装をはじめ、いろいろな部分を共有しているので、俗に、EKシビックワゴンと呼ばれたりさえもしている。シビックからの乗り換えにはちょうどいいかなと思い、たまたまいい感じのMTの玉が出ていたので購入した。オルティアもRD1と同じB20BエンジンでVTECではないのだが、RD1に比べて、ボディがやや軽くてかつ低いこともあり、走行性能での不満はなかった。そりゃあEK3のほうが速いし軽いし燃費もいいしで、シビックはやっぱり良いこと尽くしなわけだが、積載性やドア数ではオルティアのほうが使い勝手はよかった。B20Bが嫌いなわけではないのだが、トルクの出方がホンダっぽくないというか、比較的、下からモリモリ系なので、そのあたりも、割と踏む性分の俺の運転だと、あんまり相性はよくなかったような気もする。オルティアに積まれたエンジンはB20Bだけだったし(パートナーはD型エンジンもあったが)かといって載せ替えたりとかしたいほどオルティアにこだわりもなかった。積載性も、EK3よりは良かったが、天井が低いことも相まって期待していたほど良くはなかった。楽しいクルマではあったが、そんなに乗らないうちに手放すことを決意した。

さて、そんなわけでオルティアと入れ替えに手に入れた2代目CR-V、ことRD5だが、これがすこぶる良かった。燃費もオルティアよりもややマシ程度ではあるがいいし、色や形のスタイリングも、使い勝手も、居住性も、いまの暮らしにかなりぴったりフィットした。しかも、ディーラー販売の中古車をいい感じの価格でゲットできたので、安心&満足の買い物だった。RD5のエンジンはK20Aだが、なんだかんだでこのエンジンが好きだ。タイプRになれる可能性もあるエンジンだし、モーターみたいになめらかにパワーが伸びて、でも高回転ではちゃんとVTEC感を味わえてウンウン…(略)

と、CR-Vにも満足していたのに、なのになぜか、その直後に、舌の根も乾かぬ納車後数週間で、どういうわけか、JB1ライフを買ってしまった。
ちなみに、EK3も、RD5も、JB1も、ホンダの5速車である。どうやら、ホンダの、黒い、MT車、が好きらしい。

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▲車検もあっさり合格


CR-Vに不満があるわけではないが、路地が狭い東京の日常使いでは、軽自動車の利便性はあなどれないものがある。きつい曲がり角も、狭いすれ違いも、Uターンも、車庫入れも、すべてが楽なのだ。軽自動車のネガはといえば、狭い、遅い、などだが、トールワゴンのライフは、けっこう車内も広いし、5MTなら少ないエンジンパワーもフル活用できる。

まぁよくわからないけど、いい玉がでていたのでとりあえず買ってしまった、というのが正直なところなのだが。
JB1ライフも、実は昔持っていたことがある。そのライフも5MTだったが、色はゴールドで、足は純正のサスが抜けたフガフガ足だった。これでもっと足回りがよかったらなぁーあと色がもうちょっとかっこよかったらなー、などと思っているうちに壊してしまい、廃車になった。そのライフも、とはいえ車自体はすごく気に入っていたので、なんだかんだでJB1が好きなのかもしれない。今回のJB1は、なんと! 純正タコメーター、ルーフレール、リアスポを搭載しているのだ。これはけっこうレアだと思う。さらに、足回りはテイン、アルミ履いてて、黒の5MTである。買ってオーディオ交換したら、もうあとはいじるところがない、というくらいにちょうどいい車だったので、迷わず買った。

 

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▲5速なので高速もバッチリ! 第三京浜程度ならそこまで不満もない

 

いまはなんだかんだでほぼ毎日そのライフに乗っているが、とても楽しい。シフトワークのコントロールで少ないパワーをギリギリまで使い切り、やや頼りないボディを軋ませながらテインの足回りでコーナリングをキメる(と本人が思っているだけで傍から見たら普通に曲がっているだけだと思うが)楽しさ、けっこうたまらない。

 

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▲傍から見たらただの軽、乗ってる本人はフィアット500気分


自己満足なのは間違いないし、傍からみたら本当にただの軽自動車だとは思うが、いま、ライフは最高の相棒と化している。念願のビックバイクを買ったあとに、原2を買って、楽しい楽しい騒いでいるみたいな、そんな感じの状態なのだろう。笑
遠出とか、TPOによってはCR-Vのほうがふさわしいシーンもあるわけで、もちろんCR-Vも乗るのだが、普段の気楽なお出かけはJB1で済ませるのがなんだかんだで快適かもしれない。

いやー、軽自動車、侮れないし楽しいね、ほんと。

 

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▲ルーフレールとローダウンとアルミでスタイリングはまじで文句ない。かっこよくない?笑 もうすぐ白ナンバーになる予定。

 

おまけ
イカーヒストリーをまとめてみた

2008 GD1フィット 1.3L CTV 水色2001年式
2011 BE1エディックス 2.0L 5AT 銀 2004年式
2013 JB1ライフ 0.6L 5MT ゴールド 1998年式
2013 JA4トゥデイ 0.6L 5MT 黄色 1996年式
2013 RD1 CR-V 2.0L 5MT 銀 1998年式
2014 EK3 シビック 1.5L 5MT 黒 1999年式
2015 HH3 アクティストリート 0.6L 5MT ガンメタ 1992年式
2017 TV2 サンバーワゴン 0.6L 5MT 白 1999年式
2017 HM3 バモスホビオ 0.6L 5MT 青 2006年式
2018 HM1 バモス 0.6L 5MT 黒 2007年式
2018 EL2 オルティア 2.0L 5MT 緑 1999年式
2019 RD5 CR-V 2.0L 5MT 黒 2004年式
2019 JB1 ライフ 0.6 5MT 黒 1999年式

ちゃんと登録してしばらく乗ってたもののみを記載。

ってか5MTの黒いホンダ多すぎw
唯一ホンダ以外を買ったのは、スバル製の最終サンバー。4気筒の軽に乗ってみたかった。
CR-Vから乗り換える先の車がもう候補がない。ATはやだし、、うーん、、

 

#ホンダ #5MT #JB1 #ライフ