オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

こだわりと、人柄と、そして店の実態の関係

雑魚ほどよく吠える、などとはよく言ったものだが、客に対してああでもないこうでもないうるさい店にロクな店はない、ということを改めて実感した。
もちろん、別にお客様は神様ではないから、食べてやってる、わけではないのだが、だからといって、食べさせてやってる、というわけでもないのではないだろうか。

きょう行ったラーメン屋でとても不快な思いをしたのでそのことを書きます。

お店はこちら。二度と行かないけど。

 

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仕事で千葉に行っていて、仕事終わりにラーメンでも食べようと検索して見つけた店だった。
千葉の片田舎にある店で、ネットのレビューを見る限りは美味しそうだったし、添加物無しで、元フレンチのシェフが作っているとの触れ込みだったので、気になって行ってみることにした。

 

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大通り沿いの店で近くに駐車場はなく、店内から道路が見えるので、店の前に車を停めて入店した。店内はすこし小汚い感じだったが、それなりに賑わっていて、さて何を頼もうと席に着こうとすると…

「お客様、車は、あれ、ダメです」

と店主に言われた。
俺だったら、「申し訳ありません、近隣から苦情が来るので、すみませんが車は他に停めて頂けますと…右の方にコインパもありますので…」くらいの言い方をするところだが、この店主の言い方は、どうにも腰の高い物言いに感じられた。

とはいえ、路駐しているこちらが正しいわけでもないので、もうちょっと他に言い方があるのでは、とは思ったが、ここは素直に従って、店を出て車を停めに行った。
なんとか停められて、そこから5分ほど歩いて店に戻った。

 

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不潔だとは思わないが、ごちゃごちゃと小汚い店内。お冷のカップにカラフルなプラ製を選ぶセンスもちょっとどうかと思ったし、衛生的にもちょっと釈然としない。

 

べつに、そのことを感謝してほしいというわけではないのだが、移動してわざわざ戻ってきてくれた、ということを考えると、俺が店の人だったら、すいませんわざわざありがとうございます、くらいのことは言うと思うのだが…

「いらっしゃいませ、つけ麺が終わってますのでご了承ください」

店に入るやいなや、無表情のままそう言われて、はあ、と思った。
終わってますのでご了承ください、か。

 

些細なことかもしれないが、その言葉尻から、この店主の物言いが、どうにもやはり上から目線なのだということに気がついた。
なんとなく、小馬鹿にされているというか、見下されているというか、俺の作るラーメンを黙って食え、とまで思っているかどうかはわからないが、なんだか、下に見られているような気がした。

ラーメンのメニューは謎に多くて、醤油、塩、を始め全部で8種類くらいもあって、醤油はどういう系の醤油で、塩はどういう系の塩かのか、聞いてみたいと思ったのだが、とても聞けるような雰囲気ではなくて、聞きたい気持ちを抑えて、塩を注文することにした。

「塩で、味玉入り、麺硬めでお願いします」

とオーダーしたのだが

「ああ、うち、麺硬めとかそういうのやってないんで…」

とまたバカにしたように言われた。はぁそうですか、と答えながら、わりとこのあたりでイラっとしてきたので、食べないでこのまま出てやろうかとか、いっそ一口食べて食い逃げしてやろうかとか、いろいろ思ったが、まぁでも食べないで判断するのも良くないなと思って、黙ってラーメンを待つことにした。

別に麺の硬さに好みがあるのは普通だし、単にふにゃふにゃと茹ですぎた麺を食べたくないから、それを防ぐために固めで、と言っただけで、「うちはベストのコンディションの茹で加減で茹でてるので」みたいなことを言ってくれればそれで納得できるのだが、麺硬めとかそういうのはちょっと…みたいな言われ方をすると、なんだかげんなりする。

ちなみに、味玉も、はい、卵入りですね、とわざわざ言い直された。細かいことかもしれないが、そういう節々でヘイトが溜まっていく。

そして、出てきたラーメンはといえば…。

なんだこれ美味しくない!!!www

 

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すっきりと澄んだスープ、低温調理の程よい火加減のチャーシュー、キリッとした麺、これだけ見るととても美味しそうなのだが…

 

そんなわけで、見かけは今時のイケてる感じだが、麺が美味しくないのだ。自家製麺でこだわってる店で麺が美味しくないのって始めてかも。
麺の風味が良くない。独自の風味が、みたいなことが書かれているのを事前にレビューで読んではいたが、小麦の生臭さみたいな、よくわからない風味だし、そもそも角が立ち過ぎた硬いパスタみたいで全然美味しくない。
製麺専門のメーカーの麺を使っている店でも、もっと美味しい麺の店は腐るほどある。
自家製麺でここまで美味しくない麺を作れるのはけっこう衝撃だった。

チャーシューは美味しかったし、ほうれん草と海苔も、麺のまずさを中和してくれてよかった。

スープは、うーん、難しい味だった。
たしかに無化調ではあるが、油と塩が強すぎる。
そして、冷静に味わうと、味がこすぎる。
旨味のたりなさを塩分と油分でごまかし…もとい、カバーしている系。

極端に不味くもないが、おいしいとは言い難い。
嫌いなタイプの無化調スープだった。

味玉は、少し味が濃すぎたが、麺に卵黄を絡めて食べるとちょうどいいくらいだった。卵黄の旨味が麺のまずさを中和してくれた。

店構えや店主が微妙でも、味は美味しいかもしれない、と思って我慢して食べてみたが、やっぱり美味しくなかった。

具体名を出して比較するのもあれだが、以前にこのブログでも書いた、茅ヶ崎のラーメン店。
この店と同じ、無化調で自家製麺の店だが、すべてが真逆だった。

店内は清潔だし、店主は謙虚で物腰が低いし、こだわりの伝え方が自己本位ではないし、麺が美味しいし、スープも美味しいし、ホスピタリティにあふれているし、初めて行ったときにわざわざ駐車場を案内してくれたし、近くに来たら必ず寄りたくなるようなお店だった。

二度と行かないけど、不味くて態度の悪い店に行くと、当たり前だが不快な気分になる。
いっそ食い逃げしてやろうかと少し真剣に考えそうになったが、走って追いかけて来そうなのできちんとお金を払った。

ごちそうさまも言わずに丼もあげずに、黙って店を出た。

そういえば、ラーメンが出てくるときも、ドン、とカウンターに置いた丼をスライドするようにして目の前に出されて、なんとなく気分が悪かった。

食べログで評価されている意味がわからない店だったが、評価と実態がかけ離れているのは、ラーメン屋ではよくあることかもしれない。


車を停めるなと言われる、つけ麺が売り切れたことを仏頂面で言われる、麺硬めをバカにされる。丼の置き方が雑、ラーメンが不味い。と、こうして事実だけを羅列すると、とべつにそこまでひどい店には思えないかもしれないが、いやはやしかし、実感としてはかなり不快だった。

腰の低い接客、べつに減るもんじゃないし、そうしたほうが、双方に不快感が少なくて良いと思うのだが、こういう店本意な飲食店は、どうして、ああいうフリクションが生まれかねない接客しかできないのだろうか。

接客を食べに行っているわけではないが、同じ味だったら接客が良い方が良いに決まっている。

態度が悪い店は、やっぱりどうせ味も美味しくない、という法則を改めて実感した。

人柄がよければそれでいいわけじゃあないんだろうけど、でもね…。

その後しばらくしてからの帰り道に食べたバーガーキングのほうがよっぽど美味しかったわ…。

 

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帰りに食べたバーガーキング。半額セールで360円のバーガーが180円だった。なんだか懐かしい味だった。マクドナルドに比べて、パティが香ばしく焼けている気がした。ソースとかも含めるととはいえマクドのほうが美味しい気もしたが…。さすがに3個一人で食べたわけではない。友人とシェアして1個半ずつ食べた。

 

 

 

 

気づいてしまったノデアール

どうでもよくないことを探して生きていた

はずなのに、どうでもいいことに溢れた暮らしをしてやいないだろうか

してもしなくてもいいことをしないで生きたいと思っていた

はずなのに、そんなことばかりをして暮らしてはいないだろうか

 

 

別に誕生日が近づいたからというわけではないのだが、ふと、本質から程遠い、物事の上澄みをなぞるような日々を過ごしていることに気がついてしまい、いま、とてもゾッとしている。薄々感じてはいたが、どうにも、このままではまずいような気がするぞ、と。

退屈と憂鬱はワンセット、なんていう歌詞もあるが、おかげさまで最近はわりとやや忙しい。暇になると退屈になるし、忙しいと憂鬱になる。つまり、憂鬱なのだ。なんでまたこんなことを考えているのかといえば、収入的にはやや好調になりつつあるから、という気がしている。めちゃくちゃ稼いでいるわけではないが、それなりに安定した収入を得られるような暮らしにはなってきている。お金に困っているとき、なんとか少しでも多く稼がなくてはならないとき、そういうときには、どうでもいいかよくないか、の尺度に、収入になるかどうか、という項目が入る。故に、冒頭で書いたようなことを悩んだりすることも、必然的に減る。本来はそれがどうでもいいことだったとしても、所得になるようなことなのであれば、それはどうでもよくないことになる、という算段なわけである。

 

収入、生活、貯蓄、そういう概念以外の部分で、重要だと思えることを維持できないと、途端に暮らしは憂鬱になる。

 

というのを5月の終わりに書いていた。

 

さようならポポラマーマ

 ポポラマーマというパスタチェーンがある。いや、あった、と言おうか。比較的低価格で本格的なパスタを食べることができる生パスタのお店、だった。と言っても、ポポラマーマというチェーンはまだ世の中に存在しているし、訪ねて食事をすることはできる。だから、本来は過去形で表現するべきではないのだが、それでも、あえて、過去の存在としてこのブログではポポラマーマを取り扱いたい。

 かつて、豊洲にあるホームセンター、スーパービバホームの2階のショッピングモールにもポポラマーマの店舗があって、ビバホームに買い物に行ったついでに、ちょいちょい立ち寄って食べていた。なのだが、2017年の10月に豊洲店が閉店してしまい、それがポポラマーマで食べた俺の最後の記憶だった。

 ポポラマーマは思い出深い店だ。いつの頃から、自覚的にポポラマーマで食事をするようになったのかは思い出せないが、お互い20代の後半になって、中学の同級生だったO脇くんとちょいちょい会うようになってから、よく行くようになった気がする。いつぞやなど、相模原の方のポポラマーマまで食べに行ったことさえあった。失礼な呼び方だが、ポポラマーマに行くことを、O脇くんと僕は、バカパスタと呼んでいた。バカパスタしようぜ、と言ってポポラマーマに行くのだった。バカなのはポポラマーマではなくて、もちろん僕たちだ。なぜバカなのかといえば、ひとり二皿のパスタをオーダーするのがデフォルトだったからだ。2名客として席に案内され、4皿のパスタを注文する。オーダーを受けた店員さんは、どういうことなのかよくわからない、という顔をしながら、同時に4皿をお持ちしてよろしいのでしょうか、などと訊いてくる。僕も、O脇くんも、一人2皿は当たり前に平らげそうだというような大食漢、には見えない出で立ちだし、店員さんはまさかそういう注文が来るとは思っていなかった、というような顔でオーダーを復唱する。なぜ2皿なのかといえば、大盛りにするよりも2皿頼んだほうがトータルでの幸福度が高いから、という理由からだった。ポポラマーマにはLサイズという設定もあって、いくらか支払う金額を増やせば料理を大盛りにすることができるのだが、それだったら別の味付けも楽しみたいし、少し増やすくらいならそんなに金額も変わらないから量を2倍にしてもらいたいし、というような気持ちから、別の味付けを2皿頼むほうが幸せだ、と考えていた。俺の定番のメニューは、『ほうれん草ベーコンクリーム』だった。ほとんど必ずオーダーした。シンプルなホワイトソースのクリームパスタに、ベーコンとサラダほうれん草が乗っているだけの簡素なメニューだが、ポポラマーマの持ち味であるモチモチとした生パスタが活きる、素晴らしいメニューだった。だが、このメニューはポポラマーマには、もう今は存在しない。それから、もうひとつのオーダーは、大抵は醤油系のパスタを選んでいた。こちらも極めてシンプルな、『水菜のペペロンチーノしょうゆ』をオーダーすることが多かった。ほうれん草ベーコンクリームは約600円、水菜のペペロンチーノしょうゆは約400円。これがかつてのポポラマーマの価格だ。税率の変化に伴う価格改定などもあったが、2皿頼んで税抜きで1000円くらい、という良心的な価格設定の店だった。

 そんなポポラマーマも、いまでは、一番安いメニューで内税で490円だし、かつては税込で600円くらいだったカルボナーラもいまは内税690円だ。100円とか200円とかの差ではあるが、それでも、バカパスタ、なんて言ってたらふく食べたいと思っているような人間からしたら、大きな差だ。だが、値上げ自体はちょこちょこ繰り返していたわけだし、べつにそれが俺の中でポポラマーマという存在が過去形になった直接の理由ではない。

 きのう、2年ぶりくらいにポポラマーマに足を運んだのだが、出てきたパスタを食べて、心から美味しいと思うことができなかったのだ。どういうふうに味がかわったのか、その明確な変化はわからないが、もちもちしているのにしっかり歯ごたえのある生パスタの良さとか、シンプルな味付けのソースとか、そういうポポラマーマらしい良さを全く感じることができなかった。なにより、大好きだったほうれん草ベーコンクリームがメニューから消えてしまったことが悲しくてたまらない。O脇くんともずいぶんと会っていない。かつてポポラマーマはスイカしか使えなかったが、いまではクレジットカードやその他のポストペイの電子マネーも使えるようになっていた。スイカしか使えないままでかまわないから、あの頃のメニューで、あの頃の味の、あの頃のポポラマーマにまた行ってみたいと、クイックペイで支払いを済ませてからポポラマーマ旗の台店をあとにした。豊洲店で食べていた頃、いつも関心していたのが、提供される料理の安定感だった。バイトを雇って運営している店なのは当たり前だとして、提供される料理にブレを感じることが殆どなかった。いつも熱々で、くっきりと輪郭がはっきりとしたパスタを食べることができていた。豊洲店がたまたま良くて、旗の台店がだめだったのかどうかはわからないし、もう豊洲店は無いから確かめることもできない。

 さようならポポラマーマ、さようなら、ほうれん草ベーコンクリーム。

 f:id:usagienu:20190421233731j:plain この画像は、最後に食べたほうれん草ベーコンクリーム。豊洲店が閉店する直前に食べに行ったときのもの。このときは一人だったし、確かあんまりお腹が空いていなかったので、一皿しか頼まなかった。写真を見ると、ちょっとほうれん草のコンディションがよろしくないが、透明感のある生パスタと、シンプルで美味しいクリームソースで、満たされた記憶がある。化学調味料の味に敏感になってからの訪問だったが、化学調味料を特別に感じるような味付けではなかったと記憶している。化学調味料が入っていたとしても、べつに気にならない、そんなような美味しさだった。

麺屋BISQがすごい

 茅ヶ崎に、麺屋BISQというラーメン屋がある。

 

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▲塩ラーメン

 

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▲煮干しラーメン


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▲貝の潮ラーメン

 

 

 「ラーメン屋でここまでしている店を他にみたことがない」

 

 一言でこの店を説明するとしたら、麺屋BISQはそんな店だと思う。

 

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▲なんと、自家製麺!!


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▲店の前のイラストもユニークだ

 

 俺はもともと、ラーメンなんてほとんど食べない人間だった。家族でラーメン屋に行ったこともないし、日常的にラーメン屋に行くこともなく育った。大学生のころはとにかく金がなくて、どこか店でラーメンなんてめったに食べなかったし、20代の後半になって、ラーメンを店で食べることができるくらいの小銭のゆとりができて、やっと、ちょっとラーメンを食べてから帰る、みたいなことも増えた。それから、それなりに色々なラーメンを食べてきたが、心から美味しいと思うラーメンというのは、そうそう多くない。

 ラーメンを食べる上で、個人的な基準のひとつに、無化調かどうか、というのがある。

 これが実は割合に難しい問題で、無化調ならそれでいい、というわけではないのだが、それがどうにも話をややこしくする。無化調だが美味しくないという店も多いが、化学調味料に頼らずに美味しい味を実現している店は本当に美味しい店だ、とでもいうか…

 化学調味料を全否定するつもりはないが、化学調味料に頼った店は、結局、化学調味料の味を超える味わいを出すことができない。いいとこ、それなりに美味しい止まり、だと思う。

 本当に美味しいラーメンは、化調に頼らないできちんと味付けしている店の中にしか存在し得ない、と個人的には思っている。

 だが、そんな無化調のらーめん屋のなかでも、心から美味しいと思える店は、やっぱりそう多くはない。

 まだ3回しか訪れたことがないが、本当に美味しいと思った店のひとつが、この麺屋BISQだ。

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 店主さんは、いやあこんなの自己満足ですよ、と謙遜するのだが、この店のしていることは、ラーメン屋としてはかなり異質だと思う。

 スチコンでチャーシューを調理していたり、肉スライサーでチャーシューを切っていたり、というあたりからして、そんなラーメン屋、他でみたことがない。だいたい、スチコンを置いてるラーメン屋なんて聞いたことがない。

 昨今のトレンドとして、低温調理されたチャーシューを提供するラーメン屋はずいぶんと増えた。でも、真空恒温調理もいいのだが、個人的には、総合点では、真空調理とスチコンでは、スチコンに軍配があがるような気がする。

 BISQのスチコンにはもちろんきちんと浄水器が取り付けられているし、そのスチコンで調理した肉を均一な厚さになるように電動のミートスライサーで薄切りにしている。

 そんなラーメン屋、本当に、他では見たことがない。しつこいようだが、スチコンがあるラーメン屋も、ミートスライサーがあるラーメン屋も、BISQ以外では見たことがない。

 それから、厨房も驚くほどにピカピカで清潔だ。店内をギトギトにしたくないからという理由もあり、餃子ではなくせいろで蒸したシュウマイを提供しているというくらいだ。

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▲せいろで蒸した焼売

 

 麺を茹でる器具にも一工夫がある。テボがでかいのだ。テボというのは、鉄砲が語源の、麺を茹でるためのザルで、テボを使うことで、同時進行で何人分もの麺をタイムラグがあっても茹でることができる。あとから来た注文と、先にきた注文を同時に並行して茹でることができるので、客数をさばくためにはなくてはならない装備なのだが、一般的に、味の面では、平ざるに劣ることが多い。そもそも、麺類を茹でるのに使うザルには、テボ、平ざる、の2種類のザルがある。平ざるは、大鍋の中で泳ぐ麺を手網のような柄のついたザルですくい上げる方式で、湯切りに熟練の技術が必要だったり、同時に複数の茹で時間の麺を茹でることができない、などのデメリットがあるが、その反面、鍋のなかで麺が泳ぐので、一般的に、テボよりも美味しく茹でることができるし、麺のぬめりも少ない。

 一方、テボは前述の通り、同時に複数の麺を茹でることができるので、回転を早くすることができる。麺屋BISQもテボを使ってはいるのだが、そのテボが妙にでかいのだ。ほかで見たことのないテボだ。聞くと、うどん用の最大サイズのものをつかっているらしいが、このサイズのテボなら、確かにテボのなかでも十分に麺を泳がせることができる。

 ゆで麺機のスペースにはも、もちろん限りがあるので、テボが大きくなると、同時に茹でることができるテボの数も減ってしまうわけだが、BISQの茹で麺システムは、ギリギリのバランスで、テボと平ざるのいいとこ取りをしている、といえるのではないだろうか。

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▲するっと細くてきれいな、角のある自家製麺。麺自体が美味しい。


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▲メンマもうまい


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▲完璧な味玉

 

 そんなBISQは、さらに、麺も自家製麺を使っている。ラーメン屋で自家製麺なんて、そう聞いたことがない。ここの麺は、角のある細麺で、麺そのものがちゃんと美味い。こういう麺に慣れてしまうと、かんすいたっぷりのわけのわからないブヨブヨした中華麺では満たされなくなってしまう。

 日本そばの世界では、平ざるも自家製麺もよくある話なわけだが、ラーメンというジャンルでは、どういうわけか、小さいテボで既製の麺を茹でて出す店のほうが圧倒的に多い。

 小さいテボで茹でた麺は、一般的な傾向として、麺のぬめりが強く、丁寧に湯切りしないと美味しくならない。

 BISQという店名が示す通り、スープも、全く文句がない。スープの製法までは流石にみることができないので、どういうことをしているのか、詳しいことはわからないが、丁寧に素材の旨味を抽出した、雑味のないきれいな美味しさで、無化調であることを感じさせない、しっかりと芯のある味わいだ。

 こんな店、本当にみたことがない。

 ちょっと遠いのが難点だが、茅ヶ崎の方に行くときはできれば寄りたいといつも思って生きている。

 油でギトギトで床がベタベタするラーメン屋もべつに嫌いではないけれど、BISQはラーメン屋とは思えないくらいに店内がきれいだし、接客のあたりもとても柔らかい。

 末永く続けてほしいと心から願いたくなるようなお店だ。

 

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食と文化の関係性、真なる狂気と疑似的な狂気、価値としての付加価値の在り方

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 窓の外に広がる喧騒を少しだけ遠くに聞きながら、ほんのり表面がベトつくテーブルトップに肘をついて料理を待つ。化学調味料を使っていない中華料理、という条件でネットで探して出てきた店の中から、カジュアルなランチにふさわしい価格帯の店ということで選んだ店だった。入り口のドアをくぐり2名だと伝えると、1階は満席だからとすぐに2階に案内された。ランチメニューは通常ランチとセットランチがあり、通常ランチの平均単価は700円、セットランチは980円均一で、セットランチはぱっと見からしてお得感がある、ラーメンと半チャーハン、点心3品にサラダとザーサイ、スープと杏仁豆腐、というような盛りだくさんの構成だった。お店のHPには化学調味料不使用などとは一言も書いていなかったが、家庭の味に近い優しい味だというレビューがネットには多く、無化調だと断言しているレビューもあった。中華街・無化調、などで検索するとすぐに店名が出てくるような店で、混んでないわりに老舗だし味も美味しい、というような評価が多く、とりあえずは入ってみたいと思って入ることにした。2階の席は客もまばらで、吹き抜ける少し乾いた秋の風や、少しだけ遠い中華街の喧騒の雰囲気が、なんだか海外でふらっと入った中華料理屋、みたいな気分にさせるような気がした。海外、それはニューヨークでもパリでもどこでもよいのだが、なんとなくスノッブな雰囲気の街並みの中の、その中でも少しだけ下世話な感じの店、そんなニュアンスの海外を思わせる店だった。ランチタイムのピークは過ぎていたが、席についた後も客足は絶えず、それなりの賑わいが続いていた。おかみさんはHPにあった写真よりも疲れて見えたというか、なんだかやれた感じで、バタバタとせわしなく1階と2階を階段を駆け登って行き来して、注文を聞いたり、エレベーターから出てくる料理を客に出したりしていた。手が足りないのか、注文した料理が出始めてもお茶とかお冷とかが出てこなくて、まさかだが飲み物は有料なのだろうかなどと思案していたが、そのうちに大きなピッチャーからどぼどぼと注がれた烏龍茶のグラスが2つ、テーブルに並べられた。注文したのはネギラーメンのセットと、ふわふわ海老卵のセットで、半チャーハンとかふわふわ海老卵とかも、そのうちに次いでどんどんテーブルに並べられていった。ふわふわ海老卵はほんとうにフワフワで、火入れはもちろんのこと、片栗粉とか油とかの加減によるものなんだろうが、家庭ではおいおい再現できないだろうという、プロの味だった。ちなみに結論からいうと、その店は完全な無化調ではなかったが、前述のとおりだが、べつにそんなことはどこにもかかれていなかったのでまぁ構わないし、味は普通に美味しくて、量もたっぷり出し、価格のことも考えると満足度は結構高かった。おかみさんに聞いたわけではないのであくまでも推測に過ぎないが、調理の過程で粉末のピュアな化学調味料を使ってはいないが、基礎調味料や食材などは化学調味料を含むものも使っている、というような感じだろうと、食べてみてわたしは思った。粉末の化学調味料をドバドバ入れている店のような旨みのきつい味もしないし、完全無化調のいまいちな店にありがちな塩気強めの味でもなく、一般的な家庭でも出てきそうな感じのマイルドな味だった。化学調味料はその特性から、口当たりをまろやかにする働きもあり、この店の料理に含まれる程度の量の化学調味料ならば、ストイックな完全無化調の店よりも、むしろ美味しいと感じる場合も多いかもしれないと思った。
 
 外食における価値評価というのは、様々な要素をその基準に含むが故に、時として難しくもある。料理の味がよいだけでは人気店になれない、というようなことをよく言ったりもするが、味は大したことないのに口コミが口コミを呼び人気が出ることもあるし、そもそもその大したことない味だとたとえばわたしが思うような味が、世間では客の心底からの高評価を得ていたりもする。食、というものは不思議なもので、空腹を満たすという、食本来の役割以外にもいくつもの役割があり、それ故にその満足度を測る尺度が一つではなく、なにをもって満たされるのかは、人によっても、状況によっても変わる。個人的な話で恐縮だが、冒頭に記した中華料理店での話からもわかるように、わたしは味覚至上主義のようなところがあり、何を食べても、どこで食べても、よほどのことが無い限り、ほとんどいつだって常に、食べているものを分析するように味わい、至高の美味しさを探し、究極の味覚を求めている、というような節がある。人気だからとか、雰囲気がいいから、というような理由で外食することは皆無に近いし、たとえ付き合いであろうとも、行く価値の無いと思う店には極力行きたくはないと思っている。ここで言うところの、行く価値がないと思う店というものの判別ラインは、わたしの場合はおそらく世の中の多くの人よりも基準が厳しく、ただ空腹を満たすだけの店、つまり、どこで食べても同じような大したことのない味、とかそういうものを、行きたいと思う店からすべて除外してしまう。つまり、撮影の仕事の合間にすばやく空腹を満たさなければならないどうしようもない時とか、そういうときでも無い限り、わたしはファミレスとかチェーンの店とかろくでもなさそうな個人店とかには、まずもって行かない。もちろん、チェーンやファーストフードにも、空腹を満たす以外の理由で行きたいと思う店、つまり、美味しいと思うから食べに行く店も存在する。だが、基本的にはそうではない店のほうが多いから、日常的にコンビニで食べ物を買うこともないし、食事を目的にファミレスのような店に行くこともない。
 
 そんな感じのスタイルの食生活で暮らす中で、新橋にある、とある居酒屋に行く機会があった。そもそもわたしは、居酒屋、というものにも殆ど行かない。大して食事が美味しくないことが多いとか、服や髪につくタバコの匂いが嫌だとか、うるさい空間が嫌だとか、外で酒を飲むと割高になるとか、運転して帰ることができないから面倒だとか、そんなような理由で、ここ数年で指折り数える程度しか居酒屋のような店には行ったことがない。なにが言いたいのかというと、食への向き合い方とか、暮らしのスタイルとかが、わたしの場合のそれがおよそ一般的なものとは言い難いということを言いたいわけで、それがこの話の前提となるということを理解してもらいたいのだが、つまり、食べ物そのものへの評価が、わたしのなかでの飲食店の評価とは殆どイコールである、ということだ。もちろん、雰囲気とか接客とかを完全に無視しているわけではないし、例えばどんなに味が美味しくても度を逸して無愛想な店にはまた行きたいとはあまり思わないが、それでも、雰囲気は抜群にいいが味はたいしたことがない、というような店よりも、雰囲気は良くないが味は抜群は抜群、みたいな店に行きたいと思うし、前者のような店には本当に興味を持てない。今回訪れたその新橋の店は、独自のパフォーマンスが話題を呼び、人気を集めているという店だった。具体的には、マスターの繰り広げる意味不明でカオスな動作や歌や叫び、謎の寸劇や奇異なオーダー方式があきらかに特異で、類を見たことがないスタイルの店だったのだが、解釈や評価が難しい店だと食事をしながら思った。例によって車で来ていて、アルコールは注文しなかったので、シラフのまま料理を突いた。ドリンクは1杯500円のウーロン茶をオーダーした。飲み屋だから仕方がないが、先の中華料理屋で無料で2〜3杯飲んだのとほとんどなにも変わらないウーロン茶だ。料理は、1000円、2500円、3000円、というように価格帯のみが指定されていて、全員で同じものを頼まなければならないので、2500円のコースを注文することとなった。何が出てくるかは出てくるまでわからなかったが、しばらく待つと、漬物、切り干し大根、高野豆腐、蒸したさつまいも、サバの味噌煮、チキンの照り焼き、ナスの煮浸し、カレーライス、というようなどこか懐かしい家庭料理が次々に提供された。マスターが担当しているのは注文聞きとドリンクの提供などのパートと、そしてそれにまつわるパフォーマンスが主で、料理はキッチンにいる初老の女性によって淡々と提供された。この女性は、その風貌や年齢から、マスターの母親かとはじめ思ったのだが、あとで調べたらただの従業員とのことだった。価格にして2500円に税金、の料理としては、はっきり言ってかなり物足りない。もちろん、文句や不満をいうレベルではないし、むしろ、味の仕上がりとしては存外にとてもよかった。謎のパフォーマンスの話ばかりを聞いていたからあまり味に期待していなかったということもあったとはいえ、しかし、料理そのものは予想を遥かに上回るクオリティだった。内容は本当にオーソドックスな家庭料理だったが、ポイントをしっかりと抑えた味付けで、濃いわけではないが輪郭のはっきりとした味に仕上がっていて、素直に美味しいと思えた。漬物の薬味の使い方とか、芋の火入れの加減、高野豆腐のシンプルな味付けなど、確かな腕前だと思った。ただ、素材の原価とか内容を想像してしまうと、それから、いかに美味しいとはいえ技術的な面での再現性を考えると、けっして高級な素材ではないし、自宅でも十分に再現できるような味だったことを考えると、正直なところやはり、この価格で? というような気持ちになってしまいそうになる。だが、食堂として捉えるからそうなわけで、酒場と思えば別に不満には思わないような気もする、のちに考えているうちにそんなふうにも思えてきた。バーでは、ピーナッツ一袋に800円を払うことだってザラにある。外で酒を飲む習慣が無い身としてはすこし割高に感じてしまい、たとえば同じお金で、行きつけの蕎麦屋のしっかりとしたプロの料理を食べられることを思うと複雑な気持ちにはなったが、それでもこの店が人気を集めていて、見ている限りでも1日で10万円以上をゆうに売りあげているのは間違いなかった。
 
 パフォーマンスの内容は、はっきり言って幼稚なものだった。ジェスチャーだけでも伝わるようなわかりやすくて下品な下ネタと、怪奇な動作や叫びや歌で構成されていて、中学生くらいの精神年齢の童心に帰って楽しむことができれば楽しいかもしれない。食卓を囲む場なので、下ネタはトイレ関係のもはなく、性にまつわるものに限定され、しかし、ことによってはハラスメント寸前の、なんでもかんでもセックスに絡めてしまうようなものだった。個人的には、ファニーなものよりも、インタレスティングなもののほうが心から面白いと思うし、より高揚できるたちなので、くだんのパフォーマンスでも、一応は笑えたが、どちらかというと苦笑いと感心に近いような笑いだった。しかし、友人に誘われなかったら自ら来ることは絶対になかっただろうし、結果、こうしていろいろと考察することになっているので、そういう意味では本当に貴重な機会ではあった。ただ、食事の途中くらいまでは、純粋な楽しさよりも、疑念のほうが強かった。この内容でこの値段? 叫んで騒ぐだけ? こんなの誰でも出来るじゃん? そんなような気持ちになってしまい、来たことを後悔しこそはしないものの、素直に楽しいとは思えないでいた。だが、途中から、視察、体験、そういうふうに思うようにしたら、なんだか妙に腑に落ちたような気がした。どんなパフォーマンスであれ、どんな料理と価格であれ、間違いなくビジネス的には成功していて、来客数も多い。本当のところはどうなのかという実情を知る術もないし、別に聞いてもいないのでわからないが、外国人の客も多いし、新橋のビルの地下にある店でふつうの居酒屋を経営するよりも、ビジネス的には成功しているのではないだろうかと感じた。マスターと帰り際に少し話すなかで、べつに狙ってやっているわけでもないし、ネタもワンパターンだし、結果としてこうなったけどほんとうに成り行きでこうなったなぁ、というような話を聞いた。飲食店のあり方に正解はないし、何が良くて何が悪い、何が優れていて何が劣っている、そういうものではないから、この店の在り方について、特段何か主張があるわけではないが、いろいろと考えるいいきっかけになった店だった。
 
 ところで、狂気についても考えたので、そのことも付記しておきたい。飲食店の在り方に狂気に近いパフォーマンスを持ち込むことで人気を博している店、について、ここまでの文では記したわけだが、そのパフォーマンスの狂気は、真なる狂気かといえば、そうではないと思った。これは一般論だが、ひとは、狂気のようなもの、を誰しもが自分の中のどこかに持ち備えていて、ふとした折にそれが露呈してしまったり、ないしは、なんらかの形でそれを開放することがある種のカタルシスとなったりする。マスターのパフォーマンスに、心からの関心を持てなかったのは、おそらくそれが、その類の真なる狂気によるものではなく、擬似的な狂気と、誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、によって構成されていたからなのかもしれないという気がした。誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、というのは、読んで字の如くだが、差別化したり独自性を創出したりする手法として、イージーではあるが時として強いし、誰にでもできるかもしれない、とは言ったものの、実際には誰もやらない以上、真なる意味で誰にでもできるとは言えなかったりもする。飲食店で、奇声をあげて下ネタを叫ぶ、謎のパフォーマンスを展開して素朴で伝統的な家庭料理を出すのは、ある意味ではそれそのものが狂気とも言えるが、パフォーマンスそのものは、やはり擬似的な狂気だと思った。わたしは、他者のうちに秘められた狂気に関心があるが、擬似的なそれにはあまり関心が持てない。それ故に、どこか冷ややかな気持ちでマスターのパフォーマンスを受け止めざるを得なかったような気がする。真なる狂気は、まっとうな社会性からの逸脱と紙一重の際どいところにあるヒリヒリとした危うさがあるから美しいわけであり、演出としての狂気は、仮に「その演出を展開することそのもの」が狂気に類するも際どいものであったとしても、演出そのものにはどうにも魅力を感じえなかった。
 
 いろいろと考えたが、しかし、この店の独自のパフォーマンスが、付加価値としての価値を発揮しているのは間違いなかった。単純に提供される料理と価格のバランスで言えば、例えば冒頭の中華料理屋のほうが、パフォーマンス居酒屋よりも明らかにバランスがよく、納得感のあるものだった。支払う価格、つまり、店の利益率としては、後者のほうが良いわけで、付加価値の創出度合いとしては、パフォーマンス居酒屋のほうが優れているとも言える。もっとも、付加価値にはそもそもいろいろな形態があるし、どのような付加価値が最も望ましいのかはわたしにはわからない。擬似的な狂気と、誰にでもできるかもしれないが誰もやらないこと、によって付加価値を創出することが、個人的には魅力的には思えなかったが、それでも、どんな形であれ、事実として、価値としての付加価値を強烈に創出しているのは否めないし、その店を、素直にすごいとは思った。食そのもの、それを取り巻く文化、そして差別化や独自性の獲得に有益に働き、商業的な成功に結びつく、付加価値の創造。切り口がいろいろと多いのでここですべてを語り尽くすことはできないが、このパフォーマンス居酒屋での食事は、思っている以上に、得るものないしはそのきっかけが多く、ひとりあたりの料金で3400円だったので、料理への価格としてはそれなりに払ったとは思ったが、いまとなっては、それでも十分に元は取れたのかもしれないような気がしている。
 
 

さらば、古川橋のホープ軒

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 これが最後の1杯なんだな、そう思いながらきのうの夜のオレは券売機に1250円を入れた。ラーメン750円と書かれたボタンを押して、黒い札とお釣りの500円を受け取る。この店に通い始めたての頃は、ラーメンは750円ではなくて700円だった。初めて来たのがいつだったか、記憶に定かではないが、意識してこの店に通うようになったのは2013年の暮れくらいのことで、もう5年も近く前のことだ。明け方まで仕事をしていた夜、ふと思い立って早朝にラーメンを食べに行くことにして、他の店を検討することもなく、どういうわけか、オレは迷わずこの店を選んだ。その頃オレは25歳で、今よりももっともっとお金がなかったし、当時は日常的に外食する習慣がなかったので、ラーメンなら家で作って食べるのが当たり前というような暮らしをしていた。だから、いくら明け方とは言え、わざわざラーメンを外に食べに行くのは、なんだか特別なことだった。今でこそ、腹減ったしラーメンでも食って帰るか、なんて言って外で食べて帰ったりもするが、その頃は、友人と一緒でも外食せずに家に帰るような暮らしをしていたので、そういう意味でいうと、デスクでも吸っていたタバコをわざわざベランダに吸いに行くとか、そんなような行動と同じで、仕事に一区切りつけたいというか、ちょっとリセットしたいような気持ちで食べに行ったような気がする。そういえば、千駄ヶ谷の本店の方にはその前にも何度か行っていたのだが、その日、空が白み始めた明け方にこの古川橋の店のラーメンを食べてみて、千駄ヶ谷とはちょっと味が違って、古川橋のほうがまろやかで奥行きがある気がした。それ以来、オレはちょこちょこ、この古川橋のホープ軒に通うようになった。そんなわけで、友人とラーメンを食べに行ったりはあまりしないような当時のオレだったが、この店にだけは、折に触れて食べに行くようになった。そして、どういうわけか、決まっていつも真夜中に食べに行っていたのだが、いつも同じおじちゃんがいることに、ある時気がついた。単純に、24時間営業していてありがたいというような意味で夜に食べに行っていただけのことが当初は多かったような気もするが、次第に、そのおじちゃんが出勤している、水曜日を除く、22時以降の時間に限って食べに行くようになった。つい最近まで、おじちゃんの名前さえ知らなかったのだが、おじちゃんはワンオペで一晩を乗り切る凄腕の夜専門の店番で、おじちゃんのシフトは水曜日が休日で、それ以外は毎日22時から朝10時までだったのである。おじちゃんは殆ど毎日出勤しているし、ただオーダーに合わせてラーメンを作るだけではなくて、味を左右する仕込み仕事の多くを担っていて、現に常連客には大将とかマスターとか呼ばれていたし、いわゆる店長のようなポジションだったのかもしれないが、そのあたりのことはいまだよくわからない。おじちゃんが店にいる以外のタイミングで食べに行ってしまったこともあるが、いつもと味がぜんぜん違って、それで、そのおじちゃんがいるときにしか食べに行かないようになった。晴海の壁打ちテニスに行くときに立ち寄ったりすることも多かった。悶々と悩み事があるようなときに壁打ちテニスに行くことが多かったので、必然的に、この店に来るのも、なんとなく悩んでいるようなときが多かったかもしれない。なにかを失ったり、なにかを忘れたかったり、なにかを見つけたりしたようなときに、なんとなく、オレは知らず知らずのうちにこの店に足を運んでいた。そんなこの店も、この5年の間に、いろいろなものが変わった。お店に置いてあるテレビは、昔は骨董品みたいなブラウン管テレビに地デジチューナーを接続したものだったのが、いつの間にか無名の海外メーカー製の液晶テレビに変わり、気がついたら世界の亀山モデルに更に変わっていた。店の外の提灯も、昔は調子が悪いことが多く、カチカチと音を立てて電球が破れかけたボロボロ提灯のなかで点滅したりしていたが、いまはピシッと新しいきれいなものに変わっている。カウンターの内側にあるコインカウンターとか、ネギ削りマシンとかは今でも変わらないが、発注を流す電話をするのにおじちゃんがいちいち十円玉を入れて電話をかけていたピンク色の十円電話は、いつの間にかFAX付きの新しいものに変わっていた。通い始めてずいぶん最初の頃のことだったが、スープの入れ替え時間のことをおじちゃんが教えてくれた。だいたい夜の12時くらいにスープが新しいものに入れ替わるらしい。好みには個人差があるが、できたてのスープは、煮込まれた濃いスープよりもまろやかでやわらかくて、優しい味がするんだ、と、おじちゃんはにっこり笑って教えてくれた。入れ放題の薬味のネギも、たっぷり入れてね、と言っていつもラーメンと一緒に必ず出してくれた。ネギの辛さがあまりキツくないので、水に晒したりしているのかと質問したときも、切って冷蔵庫で晒してるだけ、でも、おいしいでしょ、と笑って答えてくれた。ネギの上にちょこっと辛子を振って食べるのが美味しいんだよ、とも教えてくれた。辛子というのは一味唐辛子のことだが、何箇所かある卓上調味料のセットの中にはなくて、辛子が入ったタッパーが一個だけひっそりとカウンターの上に置いてある。通い慣れていないと、その存在にさえ気づかないかもしれない。おじちゃんの食事は、1日1回は店のラーメンも食べるが、あとはサバの缶詰を食べていて、それが健康の秘訣だともいつか教えてくれた。そういえば卓上にある灰皿は、全部、サバの缶詰の空き缶。それから、注文するときは麺は硬めでオーダーするのが基本で、オレはこの店で普通の茹で加減で食べたことがない。食券の札を出すときに、麺カタで、と必ず伝える。もっとも、おじちゃんは顔で覚えていてくれるので、何も言わなくても、お茶を出しながら、麺カタ? と訊いくれるのだが。お茶も、この手のラーメン屋では今どきはセルフサービスのお冷が置かれていることが多いが、この店では、飲み放題のジャスミン茶をおじちゃんがコップに注いで出してくれる。茶葉から鍋でお店で煮出していて、ふっとリラックスできる、香りの良いジャスミン茶だ。この店に通い始めたばかりの頃は別にそうでもなかったのだが、オレは、2015年くらいから、自覚的に、食、というものに興味を持つようになった。自分で飲食店を始めたということも大きいし、その頃くらいから料理の仕方も変わった。いつからか、化学調味料を自分では使わないようになって、それまでは普通に食べていたようなお店を美味しいと思えなくなったりして、それで、味覚も変わった。化調を嫌だと思うようになってからも、別に無化調ではないのはわかっていたが、それでもこの店のラーメンは、美味しく食べることができた。いつか、そのことをおじちゃんに訊いてみたら、醤油タレには化学調味料が入っているが、それ以外は使っていない、つまり、粉末の化調を入れたりはしていないからだと思うよ、と教えてくれた。美味しいとネットで称賛されているラーメン屋に行ってみたら、大さじくらいの白い粉をスープ1杯ごとに入れているのがカウンター越しに見えて、案の定、食べ終わってみたらしばらく経ってもピリピリと舌がしびれる感じが消えなかったりして憤慨したこともあったりと、化学調味料の味にはセンシティブな方なので、おじちゃんのその話を聴いて、なんだか納得した。煮卵は人気でいつもすぐに売り切れてしまい、仕方がないのでゆで卵を頼んだこともあった。ゆで卵はザルとセットで出されて、ラーメンを待ちながら自分で殻を剥くスタイルだ。切れ端が余ってるからとチャーシューを多めに入れてくれたりしたこともあった。麺カタは茹で時間が1分くらい短いので、他の客よりも早く提供されることも多い。麺カタお先に出しますねー、と言っておじちゃんはいつもオレに丼を差し出してくれた。こうして、長々と、ホープ軒古川橋の思い出を書き連ねて来たが、なんの話なのかと言えば、そのおじちゃんが、故郷へ帰ってしまったのだ。2年くらい前から、そろそろ鹿児島に帰ると思う、というようなことをおじちゃんは話していたのだが、今年が明けてしばらくしたくらいの頃にラーメンを食べに行くと、帰るのが今年の8月に決まったと言われた。おじちゃんは故郷の鹿児島に家族がいて、どういう事情かはしらないが、東京に単身、稼ぎに出てきていたらしい。8月なんてまだまだ先のことだと思っていたのに、いつの間に8月になってしまっていた。何も話さないこともあるし、テレビのニュースで流れる話題のことをちょっと話したりとか、おじちゃんはいつも深夜のテレビでスポーツを観ていて、それでテニスのことを話したりしたこともあったが、話したとしてもほんの数分程度だし、ラーメン屋だから、当たり前だがオレはラーメンを食べたら、だらだらと居座らずに帰る。でも、1回1回は、そんなほんの僅かなものであっても、何十回と食べに来ていたら、けっこうおじちゃんといろいろ話していたんだなぁと今になってみると思ったりする。失恋した夜も、いまいち不本意なセックスをしてしまってなんだか落ち込んでいた夜も、いいことがあった夜も、仕事に行き詰まった夜も、そんなことはこれっぽっちもおじちゃんとは話していないけど、ラーメンを食べに行くと、いつもおじちゃんはそこにいた。おじちゃんの勤務最終日に合わせて、きのうはたくさんの常連のひとたち食べに来ていた。みんな、噛みしめるようにして最後の1杯を食べて、最後はおじちゃんと握手を交わして帰っていく。おじちゃんは、この店でラーメンを作って10年になるらしい。あっという間だったよ、とおじちゃんは笑っていたが、こうして集まっている常連のひとたちも、オレと同じように、オレ以上に、この店におじちゃんが作るラーメンを食べに通いつめていたんだなぁと思うと胸が熱くなり、泣きそうになるのを堪えながらオレは麺を啜った。おじちゃんの作るラーメンはいつだって美味しいが、その美味しさの中にも微妙な振れ幅があって、麺の感じとか、スープの仕上がりとかは、日毎に違う。きのう食べたラーメンは、今まで食べた中で最高の一杯、というわけでは決してなかったが、それでも、まろやかでコクのあるスープはいつもどおりに美味しかった。深夜の1時を過ぎていたが、お店には次々に途絶えることなく、定期的に新しく常連とおぼわしき客たちが現れた。食べ終わった常連客たちは名残惜しそうにおじちゃんと別れの言葉と握手を交わして、店を後にしていく。もやしと麺をめくったら煮卵がでてきて、それを見て気がついたらオレは泣いていた。ラーメンを啜りながら、涙が止まらない。今までの人生で、卵を食べて泣いたことなんてなかった。オレは間違いなくラーメンの分の食券しか出していないし、ここのラーメンには標準では卵はついてこない。厨房の奥で次のお客に出す麺の湯切りをしているおじちゃんの後ろ姿が見える。両肩を動かして、左手に持った平ザルの上の麺に右手の箸を添えて、リズムよく湯切りをしている。この平ザルでの湯切りというのは実は熟練の高度な技術が必要なテクニックなのだが、テボと平ザルとでは茹で上がりがずいぶんと変わる。テボというのは丸くて深みのある麺茹で用のザルで、茹で麺鍋の中でほかの麺と混じり合わないというメリットがあり、食堂とかではよく使われている。時間差で麺を入れることもできるから、客をどんどんさばくことができる上、誰にでも扱える便利さもあるが、鍋の中を麺が泳ぐことができないので、麺にぬめりが残りやすく、テボよりも平ザルのほうが茹で上がりが美味しいことが多い。おじちゃんがオレに出してくれたすべてのラーメンは、当たり前だが、毎度毎度、おじちゃんがこうして平ザルで湯切りをしてくれていたのだ。卵をかじりながら、涙が止まらなくて、オレは泣きながらラーメンを啜り続けた。思えば、ラーメンが食べたいというよりも、おじちゃんに会いに来ていたようなもんなのかもしれない、という気さえもしてきた。落ち込んでいても、嬉しくても、そういうアレコレとは全く関係なく、ニュートラルにいつもどおりに、いつもどおりのラーメンを出してくれる。最近仕事どう? とか、ひどいニュースだねぇ、とか、そういうことをおじちゃんが言って、おかげさまでぼちぼち、とか、ほんとにねぇ、とかオレが答えたりするのだが、どんなに常連になっても、ひとりの客とお店の人、というラインを超えない関係を続けられることも実は嬉しかった。この店に行ってオレが頼むのはどうせ頼むのはいつも同じ麺カタなんだけど、ちゃんと毎回、麺カタでいいのかどうかを訊いてくれるし、頑張ってね、とかそういうことも言ってくれるけど、親しくなりすぎずに、踏み込んでこないニュートラルな距離感でいられるのが逆に居心地がよかった。おじちゃんは、余計なことを言わない、のである。もっとも、そういう余計なことには単に興味がないだけだったのかもしれないけど、そうして、深入りしないような話をしたり、しなかったりして、いつだってラーメンを啜りながらオレののこの店での夜は深けていった。なんだか、いろいろと伝えたいことがたくさんあったような気がしたのに、喋りだしたら涙が止まらなくなりそうで、結局、なにも言えなくて、おじちゃんと握手をして、一緒に写真を撮ってもらって、退職祝いと餞別のプレゼントとして持ってきた日本酒を渡して、オレは店を出た。写真は苦手なんだよな〜とか言いながらおじちゃんは一緒に写真に写ってくれた。帰りの車のなかで、しみじみと、もう5年もこの店に来ていたんだなぁとか、おじちゃんが入れてくれた煮玉子を見つけて涙が止まらなくなってしまったこととかを話していたらまた泣けてきてしまった。撮ってもらった写真を見ると、写真は苦手だとか言いながらもちゃんとおじちゃんはいつもみたいにニッコリ笑ってくれていて、また会えるかもしれないし、もう会えないかもしれないけど、最後の日に来れて本当によかったな、と思った。そして今朝起きて、またきのうのことを思い返していたら、でもなんにも伝えられなかったな、と思えてなんとなくこのままではいてもたってもいられなくなって、朝イチで、仕事の前にお店に顔を出した。一晩ラーメンを作り続けたおじちゃんは疲れた表情を浮かべることもなくいつもどおり、厨房にいた。いままでの感謝とか、いつか鹿児島に遊びに行くからねとか、10年間お疲れ様とか、いろいろ伝えたいことを考えてあったはずなのに、馬鹿みたいだけれど、やっぱり結局、オレはまたなんにも言えなかった。元気でね、じゃ、また、みたいなしょうもない短い言葉しかオレは言えなかったのだが、それ以上なにか言ったらまた泣き出してしまいそうな気がした。おじちゃんに手を振って店を出ようとすると、ありがとうございまーす、と、ラーメンを食べてもいないオレを、いつも通りにおじちゃんは見送ってくれた。朝の店内にはタクシーの運転手が2人いて、それぞれ、黙々とラーメンを啜っていた。何も言えなかったし、おじちゃんだって、いつも通りの、何も変わらない言葉しか言わなかった。でも、仕事に向かう道筋で、この5年のことをいろいろ思い出したり考えたりしていたら、なんとなく、これで十分だし、むしろもう十分過ぎたかもしれないな、という気持ちになってきた。人間同士のコミュニケーションは時としてやっかいで、しっかりと言葉にして相手にわかるように伝えないと伝わらないことも多い。でも、時として、はっきり言葉にして伝えなかったとしても、言葉にして伝えた以上のことが、伝わったりすることもあるのかもしれない。言ってしまえば、ただのサービス煮玉子でしかない。そのへんのラーメン屋でも、スマホの画面の公式クーポンを見せるだけで煮玉子をサービスしてくれたりするとこだってあるし、金額にしたら百円でしかない。それでも、その価値以上の何かが、その煮玉子から、そして短い言葉から、最後に店を出たときの笑顔から、ちゃんと伝わってきた気がしたし、なんとなく、オレの伝えたかったことも、しっかりちゃんと伝わったに違いないような気がした。おじちゃんがいなくなってしまったら、もうこの店に通うことはなくなると思うが、二十代の後半を共に過ごした大切な場所として、心の中にはしっかりと残り続けるような気がする。この投稿を書きながらと校正しながらで3回くらいはまた泣いてしまったのだが、そのせいもあってか、ちょっといつもよりエモーショナルすぎる文章になってしまったような気がしてなんだか気恥ずかしいのだが、まぁ仕方がないか。最後に食べたラーメンと、おじちゃんがくれた煮玉子を、オレは忘れないと思う。何食わぬ顔でひょっこり、麺の中に煮玉子が隠してあるなんて、泣くだろ。ずるいよ。そういえば、さいきんは残すようにしていたが、昔はいつもスープを飲み干していた。きのうは、ひさしぶりに、スープも全て飲んでしまった。

崎山さん、いままで本当にありがとう、鹿児島に帰ってもいつまでも元気でいてね!!!!

 

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黄色い花

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 もう18時を過ぎてしばらく経っていたが、あたりはまだ明るかった。ほんのひと頃前までは、このくらいの時間になると空はもうすっかり暗くなっていたというのに、知らぬ間に日が伸びていたことに気づいて、それで、なんだか少しだけ嬉しくなる。
 東京のど真ん中、そう称しても過言ではない場所にこの公園はある。もちろんおれが生まれる前からこの公園はここにあったし、そのすぐ横の道路を運転して車で通ったことも数え切れないくらいには幾度もある。ゆっくりと足を踏み入れたのは、おそらく随分と久しぶりのことだったが、どういうわけか、ほとんど初めてに近いような感覚だった。公園の真ん中にある時計を見ると18時半を10分ほど過ぎたところだった。なんでもない普通の水曜日だったが、平日だというのに園内にはそこそこの人数の人たちがいた。公園の管理事務所の前にはベンチとテーブルがあって、持参したワインやつまみで40代くらいの男女がアウトドアドリンキングを楽しんでいる。
 管理事務所では無料でピクニック用のラグを貸し出していて、芝生の上にはそれを広げその上で体を寄せ合っているカップルがいた。少し離れたところには眩いくらいに白いドレスに身を包んだ花嫁がいて、花婿とヘアメイクとカメラマンとその助手の総勢4人で、東京タワーを背景に写真撮影をしている。彼らの撮影している写真の背景に東京タワーが入っているのだということに気がつき、そこに東京タワーがあったことを急に思い出してふとタワーのほうを見ると、いつのまにかライトアップが始まっていて、まだ青白い夕空にオレンジと白の光が薄く広がっていた。
 公園にはどちらかというと外国人の姿が目立っていて、軽く辺りを見回しただけでも、イヤホンを耳に差し込んでスマホのゲームに興じている北欧顔の男とか、水筒を手にぶら下げて並んで歩く中国系の顔立ちの老夫婦とか、短パンとTシャツにスニーカーというラフないでたちの背の高い若い北米風の3人組とか、そんなような姿が目に入る。
 結婚式の撮影部隊が芝の広場を横切って歩く。無料レンタルのラグの上で体を寄せ合っていたカップルは並んで寝そべっていて、女の手が男の脇腹のあたりに触れていた。少しずつ空が暗くなってきているのがわかるが、暗くなっているという実感はなんだか乏しく、さっきと比べて暗くなってしまった、という結果としての事実のみから、日が暮れ行くことを知る。撮影部隊は公園を横切ると増上寺の方へ消えて行き、寝そべっていたカップルの女の方が体を起こしてそのへんに置いてあったニットを肩から羽織り、また男のすぐ隣に体を横たえた。二人はなにかを話しているが、なにを話しているのがわからない程度には彼らとの距離は離れていた。
 あたりが暗くなるにつれて、ビルの窓の灯りや、公園の街灯の光が目立つようになる。しばらく前から街灯もビルの灯りもついていたはずだが、当たり前だがあたりが暗くならないうちにその灯りが目立つことはない。増上寺との境に植えられた茂みの向こうからフラッシュの光が漏れてきて、花嫁と花婿の姿をそこで撮影しているのだということがわかる。
 吹く風が少しずつ冷えてきて、半袖の腕を撫でる風が冷たく感じられる。ぴったりとした黒いタイツを履き、白いTシャツと黒いキャップという姿の若い女がおれの前を走って通り過ぎて行く。女はイヤホンをして音楽を聴いていて、そのスニーカーの靴紐の色は明るい蛍光色のオレンジ色だった。東京タワーのライトアップは季節によって色が変わるらしい。夏は暑苦しくないように色が白っぽくなるらしいのだが、5月のいまは、まだ冬と同じ、暖かみのあるオレンジ色にライトアップされている。歩道の敷石の上におれは寝転がった。昼間照りつけた太陽の熱が石に残っていて、背中がほんのり温かい。太陽の姿を空に探すが、もうどこにも見当たらない。激しく赤い夕焼けを披露することなく、きょうの太陽は地平の向こうへと消え去ってしまった。
 木々を揺らす風が音を立て始める。公園の利用の注意事項を案内する機械音声が園内のいたるところにあるスピーカーから響いている。
 体を起こしてあたりをまた眺めていると、管理事務所の近くに、植え込みに咲いている黄色い花の姿を手元のスケッチブックに描いている女の姿が見えた。女が座っているベンチの奥の植え込みにその花は咲いていて、女は日本人だった。俺はなんとなくその姿をしばらく眺めていた。女が描いている花は、多分、バラだとおれは思ったが、おれは花に詳しいわけではないので、それが本当にバラなのかどうかはよくわからなかった。
 よく見ると、女が履いている靴は俺が履いている靴と同じメーカーのスニーカーだった。暗くて色までははっきりと見えないが、多分、型番の数字も同じものだと思った。黒か紺のスウェードレザーのスニーカーで、側面にはメーカーの名前の頭文字のロゴマークが光っていた。俺が履いているのは、それと全く同じ形のサイズ違いで、おれのは紺色だった。暗くなったからか、女は絵を描くのをやめてスケッチブックを肩から下げていた布製のバッグにしまった。鉛筆のキャップがないのか、女は鉛筆をしまうときに、鉛筆の先っぽになにかテープのようなものを巻きつけてから筆箱にしまっていた。夕焼けもないまま、あたりはすっかり暗くなっていて、時計に目をやるともう19時になっていた。また地面に横になって空を見上げると、背中に伝わる地面の熱が、さっきよりも弱くなっていて、もうあまり暖かくはなかった。

 時間も、人生も、いつも気が付かないうちに、過ぎていってしまう。永遠に続くかのように思える時間も、いつかは終わりが来る。終わらない彼と寝てる、そんなフレーズが1980年代のポップソングの歌詞にあった。果てることのない彼、理想の彼、などの意味だとその歌詞は一般的には解釈されているが、その歌が世に出た頃よりもはるか昔の頃から、終わらない何か、というものに人は思いを馳せ続けてきたのだろう。いつの世も、人は、終わらないものを探し続けてきた。この小さな夕暮れのひとときにも、ふと、時間が流れていることを忘れそうになる。少しづつ暮れて暗くなること、時計の針が進んでいくこと、そういう結果としての事実のみによって、ひとはいつも時間の流れを知る。時間の流れる速さは、物理学的には一定速で常に等速だとされている。同じ速さで流れ続けてきた時間のなかで過ごしてきたおれの日々が、いまのおれを、いまのおれたらしめている。夕闇の中で、黄色い花が小さく揺れていた。辺りを見回したが絵を描いていた女の姿はもう見当たらない。おれは体を起こして、ぼんやりと自分の履いているスニーカーを眺めた。