オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

味のない世界の退屈、嗅覚と風邪のこと

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年明け早々に、といっても3週間近く過ぎていはいたが、まぁ、いきなり風邪をひいた。先週末の大寒波、本当に寒かったし、ちょうど寒波が終わったくらいから体調が崩れ始めた。

 

あまり負荷の多い生活はしていないし、極端に身体が強いわけではないが、比較的体調は崩しにくい方なので、風邪なんてずいぶんとひいていなかった。なんだけど、あっさりやられてしまった。

冷えは万病のもと。まさに、である。

 

喉の違和感が全身のだるさになり、背中と腰が痛み、強張るようになった。けっこうしんどかったのに、熱は出なかった。熱が出ないのは、体力があるから熱は出ないで済んでいる、という説と、熱を出す体力すらもない、という説があるのだが、前者でありたいなぁと思っていたら、どうやら前者であったみたい。数日のうちにだいぶ良くなってきて、もう症状はかなり楽になった。免疫力があるから、発熱せずとも、ウィルスを退治できる、ということらしい。例によって、漢方薬ドーピングはかなりした。作用機序を考えながら実験的にいろいろな処方を混ぜたり量を倍にしたりしながらがんがん飲んで、効果を見ながら次の処方を考える、みたいなことをしていたので、西洋薬はほとんど飲まなかった。

 

それで、回復してきて体調が楽になってきたのはいいのだが、嗅覚がおかしくなってしまっていて、おかげで本当に日々がつまらない。

 

美味しいものを味わって食べる、という喜びが、尽く、奪われてしまったのである。

何を食べても、その食べ物の本当の香りがわからないし、そうなると、味わい尽くすことも難しい。

香りが全くわからないわけではないし、べつに美味しく食事はできるのだが、まぁとにかく、つまらない。

 

と、そこで考えていたのが、もしかすると世の中こんなもんなのかもなぁ、ということ。

タバコをやめてからはなおのことなのだが、どちらかというとわたしは嗅覚が強いほうで、みんなが感じない匂いの違いを嗅ぎわけられたり、嗅覚と関連性の高い味覚においても、味を感じ分けることができたりする。味覚の何割くらいが嗅覚の影響によるものなのかはわからないが、食べ物の良し悪しを決めるのはほとんどが嗅覚、といっても過言ではないくらい、味覚と嗅覚の関係は密接だ。

素材はもちろんだが、出汁とか調味料とか調理法とかに、ぶつぶつ五月蝿く言いながらわたしは日々を暮らしている。チューブ山葵が死ぬほど嫌い、とか、人工甘味料や人口調味料が死ぬほど嫌い、とか、いろいろあるのだが、その執着は、時として、生きにくさにつながる。本当に、そのへんで適当に食べたりできないようになってしまい、最近はけっこう食事に苦労したりしながら生きている。

それが、匂いがよくわからないと、何を食べてもあんま変わらないというか、食べ物の香りに深みを感じられないので、そうなると、味までよくわからなくなってくる、

そんなことを考えていて、はたと思ったが、そう、世の中こんなもんなのかなぁ、である。

 

人よりも優れている、という言い方には抵抗があるが、他にうまい表現が見当たらないのであえて書くと、標準的な人よりも嗅覚が優れているわたしが、風邪で嗅覚が麻痺したことで、世の中のひとの食への感じ方がすこしわかるようになり、その彼らの食への執着の低さに納得した、のだ。

 

たいして美味しくもないものを美味しそうに食べ、ブラインドテストされたら違いなんて全然わからないだろうし、そんな味の違いもわからないやつらが受け売りの評価をべらべらと語り、食べログにあることないことを書く。そういうのがいまは世の中にあふれている。

殆どの人はみんな、味で食べているのではない。ストーリーや情報を食べているのだ。

なぜか、それは、味がわからないからだ。

何を食べても感じ方が大して変わらないのであれば、そりゃ何を食べたって同じだろう。そうなると、良いストーリーの食べ物、良い情報の食べ物、が価値を持つ。

いつもすごく並んでる店、どこどこで修行したシェフの店、誰々が美味しいと言っていた店、世の中のほとんどの人が、そういうのを喜んで食べている。

こいつらは。本当に美味しいモノなんて、たぶん、どうでもいいんだろうなぁ。と、いつも思う。

味覚の評価基準には、絶対的なものと、相対的なものとが混在している。相対的なものは、好みと呼ばれるものの範疇なので、十人十色で当然だ。

しかし、絶対的なもの、は、調理や素材のレベルの話なので、誰にとっても変わらない意味を持つ。麺の茹で加減、麺の茹で方、肉の焼き方、魚の切り方、油の種類と使い方、そういう絶対的な評価でみた時に、不味い食い物が世の中にはたくさんある。だが、それを不味いと思ってか思わずかは知らないが、なんの文句も言わずに、平気で飲み食いているひとたちが世の中にはたくさんいる。

たとえばわたしは、西洋わさびのチューブのわさびが嫌いだが、それ以外にも、本わさび入りのチューブわさびとか、本わさびだけのチューブわさびとか、いろいろある。

当たり前だが、一口食べればそれがどのわさびなのかわかるし、食べ慣れたおかげで最近では、生の本わさびも、その特徴や個性の違いがわかるようになってきた。

安い寿司屋とか、蕎麦屋とかで食事をすると、出されたわさびがどんなわさびなのかが、舐めればすぐにわかる。

このわさびはありえない、嫌なわさびだったら無い方がマシ、と思うことも多いくらいに、どうでもいゴミみたいなわさびを出してくるお店も多い。

しかし、そう思ったような店で、ドボンとそばつゆにそのゴミみたいなわさびを溶かして、美味しそうに蕎麦をすすっているような客が、世の中には沢山いる。

嫌なものを我慢できるのはすごいことだと敬意を感じるが、どうみても、嫌だと思っているようには見えないことも多い。つまり、わかんないんだろうなぁということだが、いままではそういうひとたちをどこかでバカにしていた。しかし、風邪で嗅覚が落ちたことで、なるほど、仕方ないんだな、ということがわかった。

誤解されたくないのだが、わかるのが偉くて、わからないのが駄目、ということを言いたいわけではない。わからないのは仕方がないし、それで本人が困っていないのなら、それでいいと思う。

ただ、わかろうとしているかどうか、というのは実は重要なことなような気もする。

意識の問題だ。食べ物を味わいわけることができるかどうか、というのは言わずもがなだが、それよりも、食べ物を味わいわけられるようになろうとしているかどうか、こそが問題だ。

 

こうして、一時的なものとはいえ、自分でも、いつもの嗅覚と味覚を失ってみて、知った世界があった。

 

以前にこういう風邪をひいた頃には、いまほどは味覚への執着はなかったし、いまほどの経験や知識もなかった。基本の基準は変わらないが、美味しいものを知りたいという意識が、いまよりも少なかった。基準となる味や知識が少なかった、ということでもあるが、美味しさを追求しようという姿勢が、いまとは違った。

飲食店を持ったことで、得たこと、学んだこと、いろいろあったが、一番大きかった学びは、こういう、食への姿勢、なのかもしれない。

これからの人生、業として飲食業を営むことはもうないといまは思っているが、店を経営して得た知見は、けっこう大きかった気がする!!

美味しいとされているから美味しいのではなく、本当に美味しいのかどうか。自分の味覚で、嗅覚で、しっかり味わって見極められる人になりたいし、ありたい。

 

まぁでも、世の中みんながそんなだったら、そのへんのちょっと不味い店はバンバン潰れるだろうし、美味しさは手間と比例する部分も大きいので、美味しい店というのはそうたくさん存在できるものでもないし、安くて不味いものを世の中のみなさんが喜んで食べていても、オレには関係のないことなんだけど。

 

写真は実家に帰ったらあった、イチゴ。初もの!

春になったらイチゴ狩り行きたいなぁ。

あと、3月になったら駿河湾に生しらす食べに行く!! 

と、また食べ物のことを書いているが、美味しいものを味わって食べる喜びの大切さを、久しぶりに風邪になってほんとうに痛感した。逆に言うと、前回風邪をひいたときから、いまの間で、食に対する感覚や意識が、かなり成長していた、ということなんだろうなぁ。すげーな。笑

 

ところで、ここ半年でもう3回くらい伊豆や静岡に行ってるんだけど、静岡、海も山も温泉もあるので、なんだかどんどん好きになってきた。何度か来ていると、どんどんくわしくなってくるので、それはうれしいのだが、初めて来た! という開拓するワクワク感が減るのがすこし寂しかったりもして、なんて。

まぁまたすぐに行くんですけどね。

 

よくいく喜多見蕎麦屋のおっさんに、天城のわさびはダメ。有東木のが一番、って言われたんだけど、確かにそうかもしれん。こんど行ったら比較用に天城のわさびも買ってこようかな。でもそれより、桜海老と鰹節を買いたいよ俺は。あー次行くの楽しみ。

メリークリスマス

いま、クリスマスイブの深夜、つまり明けてクリスマス当日、である。

 

いちおう労働中だ。が、待機していればいいだけの仕事なので風呂でビールを飲んでいる、深夜4時半。明け方、というべきだろうか。

 

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赤星の缶、夏限定だったと思っていたらさいきんまたコンビニとかで見かけるようになって嬉しい。迷わず500を買った。断酒は正味4日続いた。ここ半年で24時間以上お酒を断ったことがなかったので、素面でいる時間の長いことが、不思議な感覚だった。

 

さっき、お隣さんとラーメンの話をしていたら、なんだかあとからラーメンが食べたくなってきて、結局食べに行ってしまった。

 

新しいところに行ってみようかとも思ったが、閉まってたし、なんだかんだでいつものところ。

 

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変わらぬ味、変わらぬおじさん。

どう考えてもアミノ酸調味料使ってるだろうし、ネギも生姜も中国産だけど、しかし、なぜだか通ってしまう。

これだけ味覚とか食材とかにブツブツうるさくなった今の俺が、それでも美味しいと思って食べてしまう。不思議。まぁアミノ酸入ってても、それが気にならないくらい他の味がちゃんとしてる、ということなのだろうか。いつか、味の素抜きを頼んでみたい…。

 

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クリスマスイブなので奮発して味玉も頼んだ。いつも行くと売り切れてるので食べられて嬉しい。

 

ところで、松屋って無添加なのね!

もう数年食べに行ってないし、行ってみなくちゃ。

さいきんは、大手チェーンでも無添加のところが増えていて嬉しい限り。まぁ、無添加ならいいってわけじゃないし、無添加になってるせいで明らかに塩気が強すぎることとかもあるし、難しい問題ではあるが。

 

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夜はすごーく久しぶりに教会というところに行ってみた。

宗教の意義などについて考えていた。

 

いま、風呂に入りながら、去年のクリスマスのこと、一昨年のクリスマスのこと、その前の年のクリスマスのこと、いろいろ考えていた。

 

どこにいたな、とか、誰もいたなとか、なにをしてたな、とか。

 

日々はこうしてどんどん過ぎていくし、油断していたら一年が終わろうとしている。

 

この一年で、出来るようになったこと、出来なくなってしまったこと、覚えたこと、学んだこと、得たもの、失ったもの…。

 

まだあと数日あるけど、ばたばた忙しくしてるとあっという間に来年になっていそう。

 

夜、久しぶりに母親と電話したら、正月の予定の話になって、もう?? と思ってしまった。

 

もうすぐ、朝になる。5時でお客さんが帰るのでそろそろ風呂から出なくっちゃ…。

 

メリー・クリスマス!

角煮の道

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豚の角煮を作った。

特にすごく好きなわけでもない、という程度の料理だった。

セブンで売ってるパウチの角煮とかも案外美味しいし、あーやっぱりしっとりジューシーな角煮は美味しいよなぁ、とか、本当にそのくらいの感覚。

 

先日、某媒体の低温調理の企画の撮影に協力したのですが、角煮をやってみようかな、ということで、いちおう肉を買ってあった。のだが、結局撮影では角煮はやらなかったので、豚バラの固まりが余ってしまった形となり、もう角煮を作らざるを得なくなった、というか、他に調理方法の考えも特になかったし、作ってみたかったので、とりあえずあまり構えずに作ってみたのだけれど、完成した角煮は、想像を遥かに上回る仕上がりで、本当に美味しくて自分でも驚いた。

脂身を美味しいと思ったのは初めてかもしれない。ほろりと口の中で溶ける脂は、臭くなく、しつこくなく、ただただ、美味しい。笑

時間を書けて煮込んだので、肉にも、しっかり味が染みていて、でもバサバサはしていない絶妙な加減。

今後も作ると思うけど、記録として今回のレシピを書いておこうと思います。

 

材料

豚バラかたまり800gくらい

長ネギの青いところ1本分

生姜すこし

酒、砂糖、みりん、醤油、片栗粉、油

 

 

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豚バラかたまりを5センチくらいを目安に切る。あとで縮むので大きめが良いかも。小さじ1くらいの醤油を、肉全体に染み込むくらいに軽くかけてなじませる。片栗粉を全体にまぶす。

 

 

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片栗粉をまぶした肉を、多めの油で表面に色がつくまでフライパンで焼く。油ハネがけっこう怖いので注意が必要。

油は米油がおすすめ。スーパーでそんな高くなく買える。太白胡麻油よりも安いので使ってるのだが、カラッと軽く仕上がるのでいい。太白胡麻油がもしも同じ値段だったら太白を使う…かな?

脂は、水には溶けないので、ここで多めの油で炒めるのがポイント。5分位かけて炒める。加熱するうちに、油に、脂が溶け出すらしい。

 

 

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炒め終わったら次は、お湯で油抜き。そう、下茹で、をするのである。下茹での時間は、長ければ長いほどいい、とされているらしい。

鍋に、炒めた豚バラと、長ネギの青いところ(1本分)を入れて、ぐつぐつ火にかける。蓋をしてもOKだと思う。

最低でも1時間、長いと3〜4時間、ひたすらに茹でる。蒸発して水量が減ってしまうのだが、お湯は入れ換えないで継ぎ足していくほうが良いらしい。途中でネギは捨てた。

他の料理を作るので火からちょっとだけ下ろしたりもしつつも、トータルで3時間くらい煮た。

煮終わったら、お湯を捨てて、豚肉の表面の油をペーパーで軽く拭き取る。

 

 

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鍋に、酒大さじ3、砂糖大さじ3、みりん小さじ1、しょうがのスライス、を入れて、温度が上がったら、醤油大さじ4を加えて、肉を戻して、クッキングシートで落し蓋をして、そのまま煮る。ときどきお湯を足した気がする。肉がきちんと煮汁に浸っているのが大切で、空気に触れると硬くなるらしい。

 

 

と、言う感じで完成。できたても美味しかったけど、一晩冷蔵庫で寝かせて、翌日、固まった油を捨てて温め直してたべたら、もっと美味しかった。

兎にも角にも、油抜きが大切、なのかな。

豚バラは、油のかたまりみたいなもんなので、そのままだと、油が強すぎて、あんまり美味しく食べられないと思う。

あと、臭みがまったくなかったのも良かった。ネギで煮るとか、最初に醤油を少しまぶすとか、そのあたりと、あとはやっぱり油抜きでたくさん煮たことで臭みがとれたのだろうか。

調味料で煮る時に、唐辛子をいれてもよかったかな、と思った。

甘さを抑えたい人は、砂糖を気持ち減らしても良いかも。みりんはコクがでるので入れるとよいかな。

いまよりも料理がヘタだったころは、調味料をいちいち計量したりしていなかった。

大さじ? 小さじ? 適当でいいでしょ…。と思っていたのだが、ある程度は計らないと味が決まりにくいし、とくに、出来上がりまで味がわからないようなものほど、きちんと計ったほうがいいと思う。

チャーハンとか、途中で味見できるものならある程度、適当でもいいとは思うけど…。

 

たぶん、また数日以内に豚バラのかたまりを買ってくるような気がする。

 

すごく美味しかったし、角煮の仕上がりにはだいたい満足してるのだが、肉をさらに柔らかくする工夫に挑戦してみたい気持ちがある。角煮の道は険しい。

 

 

 

 

それなりの執着、そのあなたの「それなり」は、どれくらい?

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未だ、自分のファースト・プライオリティがわからない。

そんなもの、誰だってわからないのかもしれないし、わかろうとしていないひとだってたくさんいるのだろうとは思うけれど。

 

飲食に業務として関わるようになって、自分の「食への執着」というものが思っていたよりも強かったということを知った。それなりに美味しければなんでも良い、本当に美味しいものばかりを食べられるほど食に割けるリソースがいまは無いのでそういうのを食べるのは将来もっと稼いだら、そんなようないい加減な思想のもと、割合に適当な食生活をしていたのだが、健康(というよりかは体調を整えること)を考えたりするようになると、食べるものも変わり、そして、同時にそれは本当の美味しさがなんなのかを考えることにも繋がった。

 

ギトギトでジャンキーなラーメンとかを最近は食べなくなった。それは、食べたいけど健康のために我慢しているのではなく、別に食べたいと思わなくなったから。禁煙とか減酒も同じ。吸いたいと思わないから吸わないし、飲みたいと思わないから毎日は飲まない。

かといって、別にビーガンになったわけではないし、健康だけを信条に食を選んでいるわけではないので、肉だって食べるし、ヘルシーなものばかりを食べているというわけではないが、それでも、身体に入れる必要がないと思うものをあえて食べることが最近は限りなくゼロに近づきつつある。

出汁とか薬味とかお米とかの扱い、肉や魚とか加熱する温度や時間の加減、塩とか油とかの扱い、そういうことに気を使うようになってから、外食していて美味しいと思うことが減って、家庭では手に入りづらい珍しい食材とか、地場の旬の食材とか、そういうものくらいでしか心から驚いたり喜んだりすることが殆どなくなった。それ以外の要素、というと、調理の技術とか、調味料の選び方とか使いかたとかなのだが、どれもそこまで難しいことではない。誰にでもできることばかりではないだろうけれど、簡単なコツと知識、あとは慣れと気遣いがあれば、ある程度のレベルまでに限って言えば、ほんとうになんてことなく美味しい調理ができるようになる。ただ、世間の味覚の需要の傾向、とでもいうか、世の中が求めるおいしいの基準、においては、インパクトが弱いとウケが悪くなるので、強い味、強い旨味が良しとされてしまうことが多い。それは仕方がないことだとは思うが、ときに少し悲しくもある。

 

と、こんなことを書いているからには、これからオレは食を探求していくのだろうかか、といえば、もちろんそうではない。

 

食というのはとても大切なものだが、たぶんそれはオレのファースト・プライオリティではないのだろう。

 

つまり、食への執着、というのは、あくまでもひとつのファクターに過ぎないわけであって、食が最優先、ではないということだが、もっともそんなの誰にしたって同じかも知れなくて、料理人だから食が最優先かとか、自動車工だから車が最優先かとか、そうとは限らないだろうが。だから、オレは、食への、それなりの執着、があるということになるわけだと思うが、たぶん、その「それなり」の度合いがいちいち、少しだけ強すぎる、のかもしれない。というのは、食以外のことでも似たようなスタンスで取り組んでいる、取り組んできた、という物事がけっこう色々あって、それに傾倒しているときはそれが自分のファースト・プライオリティだと勘違いしそうになるが、結局そうではなかったことにしばらくして気がつく、というようなことをいままでに幾度となく繰り返してきた経緯があり、総じて、その「それなり」の度合いがいちいち強すぎたような気は確かにしている。

いまは仕事として食に関わっているが、この先もずっとそうだとは思えないし、こうやっていろいろなものを食い齧っては、これとても単なるひとつのファクター、とか言い続けるような人生の先行きを考えると、我が事ながら、少しだけうんざりする。

 

飲食店を立ち上げて、点が線になりつつある、と騒いでいたが、甘かった。

結局これも、ただの点、なのか…。

 

点が線に、線が面に。

そんな日が、果たして、来るのだろうか…?

 

 

写真は窓の目の前に山中湖が広がる、の図。

 

28歳になった

 

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 カート・コバーンが死んだのは27歳だよな、と相模原の方を車でうろついていた頃に、カーステレオから流れるニルバーナを聴いて考えた。去年の初夏だった。

 

 25歳になったときは、そんなに感慨はなかった。まぁこんなもんか、ほんとうにそんな感じだった。27歳になったときも、それは似たような感じだった。なるべくしてなったような気がした、とでもいうか、26歳になってから1年が経ったので当然のように27歳になった。そんなような感じだった。

 26歳になったときは、すこしだけ特別だった。26歳になる1週間くらい前のオレは、恵比寿の猿田彦珈琲の前で、将来をどうするのか、バイトだけでダラダラと食いつないでいくつもりなのか、学歴がなくても生きてはいけるかもしれないけれど人となりを他人に示すという学歴の効果はそう小さなものではない、おまえは無力で無能だ、そんなような現実を目の当たりにして、返す言葉もなくたじたじとしていた。そして、安直な答えだったかもしれないが、学歴の取得を目指そう、そう考えて26歳を迎えた。その26歳の誕生日から2年が経った。その間にできたこと、できなかったこと。

 

 そんなわけで、タイトルの通りで身も蓋もないが、きのう、28歳になった。四捨五入すると30、そう騒ぎ始めて数年が経つが、いよいよほんとうに30に近づいてきてしまっている。やばい。

 

 ミュージシャンたちがやたらと死にたがることで馴染み深い27歳を、この1年、なんとか生き延びられたわけだが、どちらかというと変化の大きな1年ではあった。でも、やってきたことが、選んできたことが、正しかったのか、間違っていたのか、未だにわからない。たとえば、会社員として就職していたらもっと安定できていたのではないだろうかとか、学費や生活費を借金しまくってでもさっさとフルタイムの学生になっていたほうがよかったのではないだろうかとか、いまでもたまに考えてしまいはする。正しいと思ったことを選んではきたつもりだが、当たり前だが人生はなにひとつとして同じコンディションでもう一度やり直すことはできないし、困ったことに、選んできた道の結果というものは、すぐには出てこない。

 

 ところで、歳を重ねて、知見が広ると、世界との向き合い方も変わってきたりする。たとえば、よろこびの本質が変わってきたような気がしたり、といったようなところで、捉え方や感じ方が変わってきたりするのを感じる。16歳のオレは、人が生きる意味について、真剣に考えていた。誰もが一度は考えるだろうありふれた問いだが、16のオレは、その問いに、納得のいく答えを見つけることができなかった。考えてみると、16のオレは、大抵いつも退屈していた。なんか楽しいこととか無いですかねー? みたいなアホな言葉をバイト先のバックヤードで一回り年上の社員に投げかけたりして、退屈な毎日を過ごしていた。知らなかった世界が、少なくと今よりも多かった分、それなりに、いろいろなよろこびやときめきがありはした。手を繋いでデートしたり、それまで行ったことのなかったような店(居酒屋程度だけれど…)に行ってみたり、ひとりでオフシーズンの離島に行ってみたり、中学生までは触れることのなかった世界に少しずつ踏み入るようになって、確実に世界は広がっていた。それでも、どこかでいつも退屈していて、どこかで世界に対して絶望していた。世界に対する絶望、しかし、恥ずかしい響きである。

 28歳になったいまは、世界に絶望したりしていない。世界に退屈する暇もない。ただ日々に追われて、疲れて、目指すべき目標への道のりの遠さに悲しくなって、酒を飲んで暮らしている。よろこびの本質。30歳に近づくということは、つまり、10代が終わって10年近い年月が流れたということにもなる。知らないことに限りはないし、マクロ的な見方をすれば、世界はオレの知らないことだらけだ。それでも、たとえば、10代の頃にはなかった自由や、10代の頃には知らなかった経験を経ている分、物事の感じ方や捉え方は、確実に変わってしまった。セックスを知らない童貞は、いつかするセックスに憧れて、触れたことのない女の身体に憧れて、胸を躍らせる。しかし、経験してしまえば、それはただの行為に過ぎないことを知ることになる。相手との関係性とか相手との相性による違いはあるし、細かいことを言えば体位の違いとか行為をする場所とか、そういうものでも違いはあるが、本質的に、セックスはセックスに過ぎないということを知ることになる。ほかのことだってそうだ。美味しい食べ物、美しい景色、素晴らしい音楽や映画や小説、速い車、良い仲間。世界が広がれば広がるほどに、レベルの高いモノやコトを経験できる。でも、本質的には、車は車だし、景色は景色、そして、食べ物は食べ物なのであって、簡潔な表現でいえば、どんなに満たされたとしても、同時に、どこかに満たされなさを感じてしまわなくなることはない。完璧に満たされることなどないのはわかっているし、満たされることがあるとすればそれは死ぬときだとオレは思っているが、世界を知れば知る程に、満たされることから遠ざかるような錯覚を覚えてしまう。目的地への距離が遠ければ遠いほど、その旅路は非現実的なものとして捉えられる。目的地までの距離が5万キロだろうと、4万9千キロだろうと、たいした違いではない。だが、千キロの距離と、2千キロの距離とでは倍も変わってしまう、そんなようなことなのかもしれない。歳を重ねて、知見が広がり、目標や目的への具体性が増すことで、余計にわからなくなるのだ。自分にとってのファーストプライオリティがなんなのか、なにを再優先にすれば自分は幸せになれるのか。そういうことが、わからなくなる。

 セックスを夢見る童貞は、セックスさえできれば幸せになれる、セックスさえできればすべてが手に入ると思っているが、経験してしまうと、もっとセックスを経験したくなり、そのうちに、セックスですべてを満たすことができないことを知る。どんなにお酒を飲んで騒いでも、どんなに映画で感動したり笑ったりしても、どんなにのめり込むように小説を読んでも、それは同じだろう。

 

 月並みな言い方だけれど、そんなわけで、28歳も頑張ります。世界が自分の力だけではどうにもならないことだらけで出来ているとしても、自分の力でなんとかなることは頑張りたいし、結果として示したい。頑張るぞ。まだ知らぬよろこびを知るためにも…。

 

 

 

 

 

 

S660に乗った話

先日、S660を乗り回す機会を頂いたので、遠慮無く乗り回してきた。借りていた時間は5時間くらいだったのだが、ほとんど休まず、ずっと乗り回していた。高速乗ってないし、近場を走り回っていただけなのに、返却したら走行メーターは90キロくらいになっていた。笑

 

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いやはや、しかし、楽しくていい車だった。

まぁ荷物はほとんど積めないし、2人で出かけると本当に何も積めなくてびっくりした。

ボンネットのなかに申し訳ない程度のトランクスペースがあるが、取り外した屋根を収納したらもう何も入らない。笑

シートの後ろもスペース皆無なので、助手席のひとに膝の上に抱えてもらうしかない(実際そうした)

カメラバッグくらいは積めるだろうと思ったら、ほんとうにそんなスペースさえ無かったのである。

 

とはいえ、キビキビ走るし、グイグイ曲がるし、乗る喜び、走る喜び、みたいなのがすごくて、こりゃあみんな欲しくなるわなぁ、と思ったし、ホンダがホンダらしいものを作ってくれたということただそれだけで、素直に嬉しかった。

まぁいまおれがこれを買えるかっていうと難しいし、これはセカンドカーどころか3台目クラスだよなぁ、とディーラーのK氏とも話していたのだけれど。もはやバイクみたいなもんだよね、ここまでくると。

S2000はまだトランクあったからな…w

しかし、S2000よりもいいなぁと思ったのが、扱いやすいエンジン特性。

今回は嬉しいことにMTモデルを借りれたのだけど、乗り心地はまるでCVT

それはシフトチェンジが上手いからではなくて、エンジン特性がびっくりするくらいフラットだったから。

まぁ逆に、高回転でドカーンのVTECに慣れていると、物足りなさは否めないのだが、4000〜5000程度が一番美味しいところ、とのことで、その辺を意識すると、ちょい物足りないながらも美味しく走れる、というか、そもそもこれ660ccなんだったよね、ってなる。

つまり、軽自動車であるということを忘れてしまえるくらいの完成度、っていうことになるわけだ。

たしかに、乗ってるとき、物足りなさみたいなのはなかったわけではないけれど、軽だから仕方ない…みたいな諦めをほとんど感じなかったので、そう考えるとすごい。

CTVのほうが、メーカーの考える一番美味しいところを使ったシフトになっているらしいので、つぎはCVTも乗ってみたいかも。MTもシンプルで楽しかったけどね。

ちなみに買うとなる220万くらいらしい。笑

ぽんっと買って、適当に保管できる場所があるような生活したい。

まぁその前にとりあえずマイカーのシビックの足回りブーツの交換で4万、タイミングベルトとポンプ交換で10万と、さらには10月に車検と、いろいろ控えてるのでそんな金あるわけもないのだけど…。

 

深夜ブログ

2月29日、何年に一回の日なのかとかはよく知らないけれど、とりあえず、珍しい日なのは俺にだってわかる。しかし、2月29日に生まれてしまったひとは、いつ誕生日を祝ってもらうのだろうか、という話は当然のようにこの世の中では何万回と繰り返されてきているのだろうけれど、でもそう考えるとそもそも誕生日というのはその限られた1日しかないわけであって、毎年祝うのは単にそれをなぞっているだけ、つまりレプリカのようなもの、と考えると、べつに全く同じ日ではなくてもいいのかもしれないという気がしてきた。

 

深夜4時に帰宅して、ふと鏡をみると、なんだか自分の顔がとても消耗しているように見えた。何に消耗しているのかは知らないし、まぁそれなりに充実感のある日々を過ごしているとは思うが、とはいえ、なんというか枯れてる感じがしていて、はぁ俺もいつのまにかやつれた大人の仲間入りかぁ、とふと思った。

 

ブログに書くような話はこれといってないのだが、深夜なのでなんとなくいまブログを書いている。

 

お店を始めて、まかないも兼ねて以前よりも料理をすることが増えた。最近は鶏胸肉の研究をしている。いかに柔らかく、いかに美味しく、鶏胸肉を調理するか、という課題に勝手に一人で燃えている。

 

小説が読みたい。何を読もう。

 

真夜中の首都高速を眺めながら、弱い明かりの許で、静かに小説が読みたい。

 

椅子を買わなくては。

 

何を読もう。

 

深夜が、朝に、変わる。

 

明日、俺は、どう生きる。

 

なーんつて。

 

どうでもいいけどあした8時起きなんだよな。辛いいいい。

 

はぁ。