オシャレな人はパクチーばかりいつも食べている

パクチー食べません。コメントください。

日々の糧について

まだ今年を振り返るのには少し早いが、この一年は、いろいろと変化の大きな年だった。

毎日が暇で家でゴロゴロして過ごしていたかつての日々が信じられないくらいには、毎日が忙しく、目まぐるしく過ぎていく。

少し前だったら、ふらっと休みを勝手に作って旅に出たりも出来たが、最近はその暇もなかなか無い。

でも、相変わらず、自分のやりたいことがなんなのか、自分の理想とするライフスタイルがどこにあるのか、なんとなく、判然としないまま、やっぱり日々が過ぎていく。

幸か不幸か、いろいろと仕事を頂く日々で、ギリギリだけど、なんとか生計は立てられているが、どれもこれも、もしもお金が伴わなかったらやっていないだろうな、と思うことばかり。まぁ仕事なんてそんなもんだし、仕事が仕事である以上、突き詰めて考えればそれは金を貰うためにやっていることだからだが、もちろん、働くからには楽しくやりたいし、実際、働くという言葉で子供の頃に自分がイメージしていたような、オフィスに朝から晩まで詰めて座っているというような姿からは随分とかけ離れた楽しい働き方が出来ているので、日々の仕事に、いまはそう不満はない。

理不尽なことを言ってくるような相手とはあまり一緒に仕事をしないで済んでいるし、極端に嫌な思いをすることも殆どない。寝る時間がとれないとか、休む暇がないとか、体力的にけっこうキツイことはそれなりにあるが、もっと若い頃に経験していたような、苦痛を伴う仕事をする羽目になることは、いまはもう殆ど無い。

それが、ぬるま湯、だからなのだろうか。とも思ったが、つらければそれでいいわけではないし、べつにそういうことでもないと思う。極端につらいこともないが、心からの充足感のようなものも、別に、無い。でも、ある種のヒリヒリとした感じ、能力の限界をギリギリ越えたところでの戦い、そういう感じに欠けているような気がする。

 

全く不安がないわけではないが、金銭的な面でも、なんとかなると思えるところではやりくりが出来ている。

自分に足りないものがなんなのか、自分がいま何を手にするべきなのか、わからない。

 

と、ブツブツぼやきながらも結局、毎日に流されて気がつけば時間は消費されていく。

 

ここ2年くらい、お酒の量が少しひどいような気がしてきた。絶対的な飲酒量で言えばもっとヤバイ人は世の中にはたくさんいると思うが、相対的な話しであれば、かつての自分の飲酒量を随分と上回るアルコールを摂取して暮らしている。

2013年くらいから禁煙に挑戦していたが、なかなか思うように煙草を手放すことが出来ず、一度はやめたりしたものの、また戻ってしまって、結局、完全に禁煙したのは2015年の春先くらいだった。努力や我慢ではなくて、考え方の転換で禁煙したので、ビックリするくらいにあっさりと禁煙できた。それまでの禁煙は、とにかく我慢、ここまで耐えたんだがらもうちょっと、というような苦痛を伴うスタイルでの挑戦だったので、いつも、持ち前の楽観的な性格を発揮して、ま、いま我慢しなくてもいっか、と言ってあっさりと禁煙は中断されていた。

それが、考え方を変えてみただけで、ほんとうに驚くくらいに簡単に禁煙できたわけだが、たぶん、煙草をやめたことと飲酒量の増加には間違いなく関連がある。それまではニコチンやタールの処理に使われていた体力が、アルコールの処理にまわせるようになった、ということなんだろうけど、飲める量が倍以上に増えてしまった。以前は、煙草を吸いながら飲んでいた、というのもあるかもしれないが、いまは、吐きそうになることが全く無くなった。気持ち悪くなったりもしない。流石にフラフラして寝るときもあるが、面白いくらいにどんどん飲めてしまう。それで、休肝日という概念がわからないくらいにはダラダラと毎日酒を飲んで暮らしている。ビールはコスパが悪いからといってハードリカーに手をだすようになったら、単純にアルコール量が増えただけで終わってしまった。

何故、そんなにも酒を飲むのか? たぶん、憂鬱で憂鬱で仕方がないからだと思う。べつに気晴らしがしたくなるような辛いことがあるわけでもなければ、特に憂鬱になるような理由も見当たらない。でも、そんな憂鬱になる理由が見当たらないそのことさえが憂鬱で、精神の制御を自分の外側に、つい、委ねたくなってしまう。

煙草も大麻もアルコールも睡眠薬もセックスも、この手のもののみんながそうだと思うが、自分の精神の制御(もちろん身体の制御も)を自分の手から離してみたくて求めてしまうのだと思う。長年の修行を経た特殊な人間とかだったら、自身だけのスタンドアロンの状態で、精神を高揚させたり、快楽を感じたりすることだって出来るかもしれないが、普通の人間にはそれは無理だ。

自分だけのスタンドアロンでは味わえないものを求めて、人は煙草とか大麻とかアルコールとか睡眠薬とかセックスとか暴力とかスピードとか破壊行為とかを求める。

でも、言ってしまえば、これらのものから得られる快楽なんて、みんな代用品みたいなもんなんだと思う。セックスも大麻もアルコールも、目的には成り得ない。手っ取り早く快楽を手に入れられるので、そりゃそこにそれがあれば誰だって手を出してしまうし、大麻とか睡眠薬とかはさておき(法律というものがこの世界には存在している)アルコールとかセックスがない暮らしは、オレは嫌だ。アルコールに酔うのはなんだかんだで楽しいし、セックスで得られる幸福も重要だ。でも、だからといって、セックスとアルコールだけが歓び、という暮らしはもちろん望んでいないし、そんなものだけで心から喜べる程、人間は単純には出来ていない。

美味しいごはんだってそうだ。自分の外にあるもの、つまりこの場合は食べ物がそれにあたるわけだが、食べ物だって麻薬とかセックスとかと同じで、それに触れることで、それなしでは得られなかった快楽を得ることができる。

しかし、美味しいごはんは生きる目的には成り得ないし、美味しいごはんさえあれば幸せに生きられるわけでもない。

日々の糧、というタイトルで本稿を書き始めた時、糧という言葉の意味を、今一度、辞書で引いてみた。ひとつめの意味が、食べ物、という意味。そして、ふたつめの意味が、そこから転じて、日々をつくるもの、というような意味だった。

オレの日々の暮らしの糧は、どこにあるのだろうか。なにがそれにあたるのだろうか。

快適な暮らしとか、美味しい食べ物とか、溺れるように飲むアルコールとか、素晴らしいセックスとか、そういうもの以外の何かでしか、日々の暮らしの糧を得ることは出来ないような気がする。

文章を書くことは、自分の考えに触れることだと思っている。オレはどちらかというと比較的あたまの回転が速い方なので、時々、文字を打つスピードが、考えるスピードに追いつかなくなることがあるが、それでも、こうして指先でMacBookのキーボードを叩いて文章を打っていると、そのうちに、ぼんやりと考えがまとまってきたりすることがある。

この歳になると、例えば10代の頃のようにああでもないこうでもないと思い悩むことも随分と減ったが、そういえば、あの頃も、いつもパソコンに向かって何かを書いていたような気がする。

ところで、いま、久しぶりにお酒を飲んでいない。なぜならこのあと運転するからなのだが、多分、帰宅したらまた飲むような気がする。どうかお身体には気をつけて欲しい、と他人事のように自分に言いながら、いまは酒を飲んで暮らしているが、これも別に、ぱったり飲まなくなるときがいつかふらっと来たりするような気もする。べつに酒が好きで飲んでいるわけではないのだから。